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兎と猫  作者: 藤原 智
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一話 猫との出会い

「君を選んだのは失敗だったかもしれないね」


 家路を急ぐ私の隣で、シルクハットを被った二足歩行の猫が、そんなことを言った。

 名前は知らない。

 知らないままなのに、もう一か月も、この猫は私のそばにいる。


 詩韻しいんうさぎ

 それが私の名前だ。

 子どもの頃から、“うさぎ”なんて変わった名前だとからかわれることは多かった。けれど私は、この名前が嫌いじゃなかった。


 左腕をそっとさすりながら、私は唇を噛む。

 警察署からの帰り道。夜の空気は冷たいのに、あの時の感触だけが、まだ皮膚の下に残っている気がした。


 この猫と初めて会った時、私は本気で自分の頭がおかしくなったのだと思った。

 疲れすぎて幻覚でも見ているのだと。

 このまま精神病院に行った方がいいんじゃないかと、真面目に考えたくらいだ。


 この猫が私のボロアパートに現れたのは、一か月ほど前だったと思う。

 今になって思えば、あれは偶然なんかじゃなかった。

 たぶん、この猫は呪いだ。

 私にまとわりついた、どうしようもなく質の悪い呪い。

 あの時、この猫に関わらなければよかった。

 あの時、はっきり断っていればよかった。

 そう思っても、もう遅い。


 一か月前。


 大手製パン会社での仕分け作業を終え、家に帰り着いたのは朝の七時だった。

 夜通し働いたあとの身体は重くて、制服を脱ぐ気力すら残っていなかった。


「疲れた〜」


 家賃二万円のボロアパートには明らかに不釣り合いな、少しだけ高かったベッドに、そのままの格好で飛び込む。

 きし、とスプリングが鳴る音に、ようやく帰ってきたのだと実感した。


「最近、独り言が増えた気がする」


 そう呟いてから、自分で自分に話しかけていることに気づいて、小さく笑ってしまう。


 やばいな、と思った。

 このまま毎日こんな生活を続けていたら、本当にどこかおかしくなってしまうかもしれない。

 仕事はきついし、眠いし、将来のことを考える余裕もない。

 辞めたい。

 転職したい。

 でも、次がある保証なんて、どこにもない。

 そんなことをぼんやり考えていた、その時だった。


「やあ」


 不意に聞こえた声に、私は身体をびくりと震わせて、そちらを見た。

 そこにいたのは、シルクハットを被って立っている猫だった。


「はっ?」

「やあ」


 一度、目を擦った。

 寝不足で、とうとう幻覚まで見えるようになったのかと思った。

 けれど、もう一度見ても、やっぱりそこに猫はいた。

 しかも、どう見ても立っていた。

 しかも、シルクハットを被っていた。

 猫と目が合う。

 その瞬間、頭の中の何かがすうっと止まりかけた。

 思考が追いつかない。


 手が震える。

 私は震える指で携帯を掴み、通話履歴の一番上にある母の名前を押しかけて、そこで止まった。


 お母さん、立って話す猫がいる。


 そんな電話を受けたら、母はどう思うだろう。

 心配する、では済まないかもしれない。

 泣かれるかもしれないし、本気で病院に連れて行かれるかもしれない。


「気持ちは分かるよ。人間はそうなると。僕みたいなのがいるのが信じられないんだよね?」

「う、うん」


 反射みたいに返事をしてしまってから、私は口元を押さえた。

 何を普通に会話しているんだろう、と自分でも思った。


「そうだよね」


 猫はそう言うと、六畳一間の部屋の中央にある小さなテーブルの上へ、軽く飛び乗った。

 行儀よく座るその姿は、妙に堂々としていて、余計に現実味がなかった。

 そのテーブルは、私がいつもご飯を食べている場所だ。

 少しだけむっとしたけれど、それを言えるほどの勇気はない。


 私はベッドから降りて、テーブルの横にある座椅子に腰を下ろした。

 目の前には猫。

 どう見ても猫。

 けれど、どう考えても普通の猫じゃない。

 普段の私なら、悲鳴を上げて外へ飛び出していたと思う。

 でも、その時は、疲れすぎていたのか、ストレスで感覚が鈍っていたのか、不思議とそこまで取り乱さなかった。

 むしろ、どこかで、少しだけ楽しいとさえ思ってしまった。


 自分でも、おかしいと思う。

 これは夢なんだろうか。

 それとも、私の頭がとうとう壊れてしまったんだろうか。

 猫は欠伸をして、前足で顔をこする。

 仕草だけ見れば、どこまでもただの猫だった。

 それが少し可笑しくて、私は小さく吹き出した。

 目が離せなかった。

 猫は、そんな私を見ながら話し始めた。


「君は、選ばれた」

「え?」

「君は、必ず僕の願いを叶えてくれると、そう思ったんだ」


 選ばれた。


 その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

 誰に?

 どうして私が?


「あの、だ、誰に?」

「僕にだよ。君は、僕が選んだんだよ」


 言っていることがわかれば、私はどこかの大学で教授にでもなれていたと思う。

 でも、高卒で、夜勤明けで、頭の回っていない私には、まるでわからなかった。


「猫さんが?」

「うん。そう。僕の願いを叶えて欲しいんだ」

「願い?」

「そう。人間の希望の光を僕に見せて欲しいんだ」

「え?希望の、ひ、光?」

「うん。大丈夫。簡単だから。君になら出来るよ」

「私が?猫さんは出来ないの?」

「僕には、無理なんだよね。僕に触れてみるといいよ?」


 そう言われて、私はためらいながら手を伸ばした。

 怖かったけれど、確かめずにはいられなかった。

 震える指先が、猫の体に触れようとして――そのまますり抜けた。


「え?」

「ね?僕に、触れる事出来ない。逆を言えば、僕が触れる事も出来ないんだよね。それは、この世界にも触れる事が出来ないて事なんだよ。だから、君の協力が必要なんだ」

「どうやって?希望の光って?」

「人間にとって希望って大事な物だと思うんだよ。希望を持った時、人間はとても美しい。僕はね、その時の人間を見たいんだ。希望の光を胸に抱いた人間を。僕には、その時の人間が本当に美しいと思うんだ。美しいものを見たいと思う気持ちは、誰しもあるだろ?僕は、人間ではないけど。人間ではない僕が、そんな気持ちを持つのは、駄目かい?」 


 希望の光。

 その言葉だけは、妙に胸に残った。

 確かに、人は希望を持っている時、前を向けるのかもしれない。

 後悔や絶望の中でうつむいているより、少し先にある何かを信じて生きている方が、きっとずっと綺麗だ。

 毎日同じことの繰り返しで、疲れきって、何も期待しないようにしている私とは、まるで違う生き方だと思った。


「駄目では、ないと思う」

「人間が希望を持てる様に、手伝って欲しいんだ」


 まるで漫画やアニメの主人公みたいに、人に希望を見せる。

 そういうことなのだろうか?

 私にはそんな力なんてない。

 でも、心のどこかで、何かが変わるかもしれない、とも思ってしまった。


 毎日、働いて、寝て、また働いて。

 それだけの繰り返しだった日々に、突然、色の違うものが入り込んできたような感覚だった。


「どうやって?」

「僕は、こんな状態だけどね。いくつか能力があるんだ」

「能力?」

「うん。まあ、今、説明しても理解してもらえないと思うんだ。すぐに見せる機会があるから、その時にね」


 その言葉に、背筋がひやりとした。

 何を見せられるのか、想像がつかない。

 たぶん、その時の私は、不安がそのまま顔に出ていたのだと思う。

 猫は、それに気づいたみたいに、少しだけ柔らかい声で付け加えた。


「能力といっても、僕自身、誰かを傷つける事は出来ないしね」


 確かに、この猫には何にも触れられない。

 それなら、少なくとも直接何かされるわけじゃない。

 そう思って、私は無理やり自分を納得させた。

 でも、本当は、ずっと引っかかっていた。

 “希望の光”なんて綺麗な言葉の裏に、何か別のものがある気がしていた。

 それでも、その時の私は、この猫を悪いものだと決めつけることができなかった。


 それが、きっと一番大きな間違いだった。


 猫は、条件が整ったらまた来ると言って、そのままふっと姿を消した。

 私はしばらくその場から動けなかった。

 夢だったのかもしれない。

 そう思いたかった。

 あまりにも現実味がなくて、そう思うしかなかった。


 それからの日々の中で、私は少しずつ猫のことを忘れかけていた。

 疲れやストレスが見せた妄想だったのだと、自分に言い聞かせていた。


 けれど、二週間ほど経った頃。

 夜八時に仕事を終え、九時頃に部屋へ戻った私は、玄関を開けた瞬間に足を止めた。


「やあ」


 猫がいた。

 驚いた、というより先に、ああ、本当にいたんだ、と思った。

 夢でも妄想でもなかったのだと、その一言だけで思い知らされた。


「条件が整ったので、早速、お願いしてもいいかな?」

「お願いって?」


 私は壁に鞄を掛けながら、そっと猫の様子をうかがった。

 猫は前足を舐めて顔を撫でている。

 まるで、これから人を連れ出そうとしている存在とは思えないほど、のんびりして見えた。


「今から、僕について来て欲しいんだ」


 正直、嫌だった。

 仕事から帰ったばかりで疲れていたし、何より得体が知れない。

 でも、興味もあった。

 あの時言っていた“希望の光”が何なのか。

 猫の言う“能力”とは何なのか。

 怖い。

 でも、知りたい。

 その二つが胸の中で揺れて、最後に残ったのは、ほんの少しだけ強かった好奇心だった。


「あの、どこへ?」

「付いて来てくれば分かるよ」 


 不安は消えなかった。

 それでも私は、小さく頷いてしまった。 


「じゃあ、ついて来て」


 私は黙って後をついていく。

 玄関で立ち止まった猫が私を見上げる。

 扉を開けてほしいと催促しているようだった。


 その時になって、ふと疑問が浮かぶ。

 この猫は、いつもどこから来ているんだろう。

 玄関を開けろと促すということは、少なくともここから自由に出入りしていたわけではないのかもしれない。


 扉を開けると、猫は何も言わずに階段を下りていった。

 しかも四足歩行で。

 そこだけ妙に普通で、私はこんな時なのに、階段は二足歩行じゃないんだ、とぼんやり思った。

 アパートの前の道を、猫はどんどん進んでいく。

 私は置いていかれないように、その後をついて歩いた。


 どれくらい歩いただろう。

 途中ですれ違う人は何人もいたのに、誰も猫のことを気にしなかった。

 やっぱり、この猫が見えているのは私だけなのかもしれない。


 携帯を見ると、時刻は九時五十分近くだった。

 猫は幹線道路沿いを迷いなく進み、大きな倉庫の前でぴたりと止まった。

 私は倉庫を見上げ、それから猫を見た。


「着いた。ここ」

「えと・・・?」

「この中で、今、事件が起きている最中なんだ」

「え?事件?」

「そう。だから、被害に遭っている人を助けに行くと、その被害に遭っている人間は、希望を持つと思わないかい?」

「え?で、でも・・・私が?」

「うん!お願い出来るかな?」

「いや、あの」


 言っていることの意味が、すぐには頭に入ってこなかった。

 私が?

 助けに行く?

 事件の現場へ?

 そんなの、無理に決まっている。


「け、警察を」

「けいさつ?人間の秩序を守る為の組織の事だよね?」

「う、うん」

「それじゃあ、駄目なんだ。君がやらないと。それに、僕の能力を使うから、大丈夫だと思うよ?」

「しかし・・・」


 その瞬間、手も足も小刻みに震え始めた。

 喉がからからに乾いて、うまく息が吸えない。

 助けるって、どうやって?

 事件って何?

 中にいるのは誰で、何が起きているの?


 怖い。

 ただ、怖かった。


 被害に遭っている最中に誰かが来れば、たしかに助かると思うかもしれない。

 でもそれは希望なんだろうか。

 期待とか、安心とか、そういうものじゃないんだろうか。

 そんなことを考えてしまう自分もおかしかった。


 こんな状況で、言葉の違いなんてどうでもいいはずなのに。

 猫はただ、じっと私を見上げていた。

 本当に事件が起きているのなら、すぐに警察を呼ぶべきだ。

 そう思った私は、震える気持ちを押し込めて、猫の言う“能力”を信じてみることにした。


 ここから先は、本当に怖かった。


 あの時の私は、どうかしていたのだと思う。

 疲れていたとか、流されただけだとか、そんな言い訳では足りないくらい、どこかおかしくなっていた。


 もし、あの時に戻れるなら。

 私は絶対に断る。

 この猫とは関わらない。

 何を言われても、ついて行かない。

 そう、今は心の底から思っている。


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