十四話 猫のお話し
私は、動けなかった。
テーブルの上に灯った小さな光。
そこから聞こえてきたのは、聞き間違えるはずもない、あの猫の声だった。
「やあ。そっちの世界はどうだい?」
喉が張りついたみたいに、声が出ない。
私は黙ったまま、その光を見つめていた。
けれど猫は、私が何も答えないことなど気にした様子もなく、いつも通り軽い調子で話し続ける。
「君には何も説明しないまま、そっちへ送ってしまったからね。そこは僕の落ち度だ。ああ、それと、希望値と絶望値の設定もし忘れていてね。今すぐ設定しておくよ。そうだ、君、職業マスターのところには行ったかい?」
まただ。
こいつは、いつだってそうだ。
大事なことを最初に言わない。後から、まるで些細なことみたいに平然と口にする。
「行ってない」
やっとそれだけを返すと、猫は楽しそうに言った。
「そうなんだ。行くといいよ。君専用のスキルなんかも用意してあるからさ」
「私専用?」
思わず聞き返す。
嫌な予感しかしなかった。
「そう。君専用だよ。それがあれば、魔王もすぐ倒せると思う。だけど、希望値を百にして、魔王を倒してほしいんだ」
その瞬間、頭の中にリンクたちの顔が浮かんだ。
リンク。
華菜。
直哉。
「私には、今、仲間がいる」
気づけば、そう言っていた。
「その仲間にも何か用意してくれるなら、希望値を百にして、魔王を倒す」
猫は少し黙った。
考えているようだった。
「取り引き、かい?」
「そう」
「ふむ。悪くないね」
猫はくすりと笑う。
「たしかに、こちらばかりお願いするのも公平じゃない。僕もそれなりの対価を払おう。ほかに何かあるかい?」
私は少しだけ考えて、それからひとつ思いついた。
「現実に戻る時、この世界から持って帰れるメモ帳が欲しい。ペン付きで」
「そんなものでいいのかい? もっと貴重なものだって」
「それでいい」
猫は、少しだけ拍子抜けしたように笑った。
「わかった。じゃあ、仲間の名前を教えてくれるかい? すぐに用意するよ」
私は、リンクたちの名前を一人ずつ伝えた。
「よし、すぐに手配しておくよ。それと特別に、君とその仲間だけは、スキルをどこでも使えるようにしておくよ。街の中でも、魔王のいる場所でもね。そうしないと、君、死ぬかも知れないからさ。まあ、魔王のいる場所にスキルを持っていけるスキルもあるけどね。でも、そうした方が早いからさ」
不安しかなかった。
私自身に何か起きるのか。
それとも、リンクたちに何か起きるのか。
胸の奥が冷たくなる。
「終わったよ」
「え?」
視線を落とすと、テーブルの上には小さなメモ帳とペンが置かれていた。
「望みの品だよ。ああ、それとウィンドウを開いてごらん。希望値と絶望値が表示されているはずだから」
言われるままウィンドウを開く。
すると、いつもの表示の下に、新しく希望と絶望という項目が増えていた。
横棒のような表示になっていて、右へ行くほど希望、左へ行くほど絶望が強いらしい。
今は左寄りに矢印があり、絶望値12と表示されていた。
「それは、その世界にいる人間たちの状態を表しているんだ。だから頑張って百にしてよ。ああ、これからイベントなんかも起きるから、そのつもりでね」
思考が止まる。
「イベント?」
何の。
嫌な予感しかしない。
ぞわりと背中を冷たいものが這い上がった。
「ああ、大丈夫だよ」
猫は、まるで本当に大丈夫だとでも言うような、軽い声で続ける。
「君がその世界で英雄になるためのイベントさ。とりあえず、職業マスターのところに行けばいい」
「う、うん」
「本当に、希望値を百にするんだよね?」
「うん。約束したし」
「君に期待しているよ」
猫の声が、どこか嬉しそうに弾んだ。
「君が帰って来るのを楽しみにしているよ。やっぱり君は、僕の希望だよ。もっとも、今後はもう、そっちに干渉できないけどね。そっちへ干渉するために、僕の寿命みたいなものを、いくらか使っているからさ。あとは、君に頑張ってもらわないと」
そのまま死んでしまえと、心の底から思った。
「じゃあ、楽しみにしてるから」
それだけ言い残して、光はふっと消えた。
部屋に静寂が戻る。
私は、しばらくその場から動けなかった。
テーブルの上には、メモ帳とペン。
私専用のスキル。
リンクたちにも与えられた特別な力。
これを、話すべきか。
本当のことを全部言ったら、皆はどう思うだろう。
私のせいで、この世界に巻き込まれたのだと知ったら。
私のことを、どう見るだろう。
怖かった。
何より、それが一番怖かった。
でも、それでも。
話さなきゃいけないことだとも思った。
長いこと考え込んで、私はようやく決める。
皆を、信じよう。
私は部屋を出て、リンクたちの部屋を順番にノックした。
少しして、全員がホームに集まる。
私はソファに座り、皆もそれぞれ腰を下ろした。
「どうしたの?」
華菜が不思議そうに聞いてくる。
けれど私は、すぐには答えられなかった。
そんな私の様子に、皆の表情が少しずつ真剣になる。
息を吸う。
覚悟を決める。
「皆に、謝らないといけないことがあるの」
「何?」
リンクが不安そうに、少し身を乗り出した。
「そのね」
私は、メモ帳とペンをテーブルの上に置く。
「お、メモ帳? これに携帯番号書こうや」
直哉が、空気を和らげるみたいに言う。
華菜も「それいいね」と笑い、リンクも小さく頷いた。
私は、唇を噛んでから言う。
「これ、現実世界に持っていける」
三人が一斉に目を見開いた。
「え?」
「本当か?」
「どこで手に入れたの?」
華菜と直哉も、リンクと同じように驚いていた。
私は、拳をぎゅっと握る。
「今から話すこと、全部本当で、もしかしたら、皆、私のこと嫌いになるかもしれない。私には、ずっと秘密があって」
そう言った瞬間、リンクがすぐに首を振った。
「そんなこと、あるわけねえだろ」
迷いのない声だった。
「うさぎのこと、俺たち好きなんだから」
華菜と直哉も、当たり前みたいに頷く。
その反応が、嬉しかった。
嬉しいからこそ、余計に怖かった。
もし、本当のことを知っても、同じ顔をしてくれるだろうか。
「えとね」
声が震える。
手も、止められないくらい震えていた。
それに気づいたリンクが、そっと私の手を握る。
その手は、思っていたよりずっとあたたかかった。
「どんな話かはわからねえ。でも言っとく」
リンクは、私を真っ直ぐ見て言う。
「少なくとも俺は、うさぎを嫌いになったりしねえから」
「お? 何だ? それだと俺と華菜は嫌いになるみたいに聞こえるんだが?」
「そうそう。そこは一緒にしなさいよ」
「そういう意味じゃねえだろ」
三人のやりとりに、少しだけ肩の力が抜けた。
私は小さく息を吐く。
「真面目に聞いてほしいの。今から言うことは、全部本当。怒るなら、怒ってくれていい。その覚悟で話すから」
三人は静かに頷いた。
私は、もう逃げないと決める。
「皆が、この世界に来たのは、私に巻き込まれてるの」
三人の目が、わずかに揺れる。
私はそこで、最初から全部を話した。
あの猫のこと。
倉庫で女の人が殺されたこと。
希望と絶望の話。
そして、さっき猫が現れて、メモ帳とスキルのことを告げてきたことまで。
途中で何度も、声が詰まりそうになった。
けれど、最後まで止まらずに話し切った。
全部を話し終えた時、部屋の中はしんと静まり返っていた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
華菜は、信じられないものを見るみたいな目で、テーブルの上のメモ帳を見ている。
直哉は、組んだ手を口元に当てたまま、何かを考え込んでいた。
私は、三人の顔を見るのが怖くて、俯く。
やっぱり、言わなければよかったかもしれない。
そう思いかけた時だった。
「その猫は、何者なんだ?」
リンクが、私の手を握ったまま聞いてきた。
責めるような声じゃなかった。
確かめるみたいな、低く落ち着いた声だった。
「分からない。名前も、本当に猫なのかも、どこから来たのかも、何で私が選ばれたのかも」
私は、頭を下げた。
「ごめんなさい。私のせいで」
すると、直哉が怒ったように言う。
「うさぎ、何言ってんだよ!」
その言葉に、私はびくっと体を震わせて、さらに俯いた。
泣きそうになる。
けれど、直哉はすぐに続けた。
「うさぎのせいじゃないだろ」
その言葉に、リンクも頷く。
「猫が悪いに決まってるだろ」
華菜も、うんうんと頷いている。
私は、恐る恐る顔を上げて、三人を見た。
誰も怒っていなかった。
心の底から、ほっとした。
張りつめていたものが、少しだけほどける。
すると、華菜が言った。
「でもさ、猫に感謝してもいいかなって思う」
「え?」
私は華菜を見る。
何を言っているのか、わからなかった。
「何でだよ」
リンクが一言で返すと、直哉も「たしかに」と頷く。
「え? 何でって、猫のおかげで皆に出会えたしね」
その言葉に、リンクと直哉が顔を見合わせて、それから同時に言った。
「確かに」
その瞬間、涙がぽろっと落ちた。
「え、うさぎ!?」
「お、おい、大丈夫か?」
リンクが慌てて握っていた手を離して頭を撫でる。 直哉も身を乗り出す。
華菜は立ち上がると、私をぎゅっと抱きしめた。
「今まで、ずっと悩んでたの?」
「う、うん」
「そっか。大丈夫だからね。現実に戻ったら、その猫、皆でぶっ飛ばそう」
その言葉に、リンクと直哉も「おう」と返す。
私は泣きながら笑って、鼻をすすった。
その拍子に、華菜の服に鼻水がついた。
「げっ!汚ったねー!うさぎ!!」
「汚くないもーん!もっとつけてやる!」
そう言うと、華菜は悲鳴を上げながら逃げ出す。
私は鼻をふんふん言わせながら、その後を追いかけた。
「ぎゃあああ!うさぎ!来るなあああ!」
後ろから、リンクと直哉の笑い声が聞こえてくる。




