38.命なき意思
分厚い雲に空が覆われていても、夜が明けると周囲はずいぶんと明るくなった。
朝の森は霧が濃い。
夜露に濡れた下草を踏みしめて、ハナエはヨシュアと共に進んでいく。
結晶サンゴの森を通り過ぎ、丸木橋を渡る。
緩やかに谷を下ると、小さな小屋がぽつんと見えてきた。
煙突からは煙が立ち上っている。
ハナエはヨシュアに目配せすると、大きく息を吸い込み、意を決して扉を叩いた。
「はい、どちら様でしょうか?」
キイ、ときしむ音を立て、細くドアが開く。
小柄なメガネの青年が、戸惑った様子で顔を出した。
「あっ、ハナエさん! どうしたんですか?」
「ロッド、朝早くにごめんね」
「大丈夫ですよ。どうぞ、お入りになってください」
ロッドは人なつっこい顔で笑う。
ハナエも精一杯微笑みを浮かべると、首を左右に振った。
「ううん、あいさつに来ただけだから」
「あいさつ?」
不思議そうな顔をしているロッドの瞳を見つめて、ハナエは言った。
「あたし、帰ることにしたの」
その言葉に、ロッドの顔色が変わった。
「えっ……?」と言ったきり、言葉を失っている。今言われたことが理解できないといった様子で、目をぱちぱちとしばたたかせているばかりだ。ハナエは続ける。
「戦争がはじまっちゃって、もう誰もあたしの言葉なんて聞いてくれない……あたしがこの国のためにできることって、これ以上はなさそうだからさ。だったらもう、帰ろうと思って」
「え、え、え? お、お帰りになる? 元の世界に、ですか?」
うろうろと、グリーンの瞳が泳ぐ。さすがに予想外だったのだろう。取り乱した様子でロッドが口を開く。
「ど、どうやって? 使命を果たさず帰るなんて、できないのでは?」
「いいえ、白の剣があれば帰れるのよ。だから、お別れを言いに来たの」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ロッドはずり落ちたメガネもそのままに、ハナエの手を取った。
「まだ、何も終わっていませんよ! あなたにできることがきっとある――いえ、あなたにしかできないことがあります! 戦争だって止められるし、王女様やアヤさんだって、助けられるかもしれない!」
「……なぜ知ってるの?」
「えっ?」
「アヤを助けられるかもしれないって、今言ったよね。彼女の身に何が起きたか、どうしてあなたが知っているの?」
「……そ、それは……」
「アヤが以前言ってたの。「私からも魔女からも白い剣が全てを奪っていく――あなたも独りぼっちになればいい」って。おかしいよね、あなたが側にいたのに、どうして魔女は独りぼっちだったの?」
「そ、そんな……僕にも分かりません。僕に救えない孤独が、魔女様にあったのかもしれないけど……」
消え入りそうな声で、ロッドが喘ぐようにつぶやく。
そうしていると、心を痛めた優しい青年にしか見えない。
だが、その姿を真っすぐに見つめて、ハナエは問う。
「あたしとアヤがこの世界に来たときにはもう、魔女は眠りに落ちていた。じゃあ、アヤは『魔女が孤独だった』って話を誰から聞いたのかしら。魔女から直接聞くことはできないはずでしょ」
「それは……」
ハッとした様子で、ロッドが顔を上げた。
「まさか、兄弟子のムジカ様が?」
「……ねえ、ロッド。その人は本当に存在するの?」
ハナエの声が、周囲の空気を震わせる。
「……え?」
ロッドは真っ青な顔でハナエを見つめる。唇が小さく震えている。
白い剣の柄を強く握りしめて、ハナエは言った。
「あなたは誰? 本当のことを聞かせてよ」
「な、何を……何をおっしゃっているのですか?」
ロッドがハナエに縋るように、一歩踏み出す。
その時だった。
一閃、光が奔る。
それは、目にもとまらぬ早業だった。
扉の影に身をひそめていたヨシュアが、ロッドのローブの袖を切り裂いたのだ。
切り裂かれたローブが、風に大きくはためく。
その下の肌を目の当たりにして、ハナエは息を飲んだ。
右腕に真一文字に走る、深い傷跡。
それだけではなかった。体中に痛々しい傷跡がいくつも刻まれている。そのどれもが、まだ新しい傷だ。
カチャリ、と音がして、ロッドの足元にメガネが落ちた。
「ロッド、その傷は――」
言いかけたハナエを制して、ヨシュアが告げた。
「顔を上げたらどうだ、小僧――いや、『黒の王』よ」
「えっ?」
ヨシュアは冷たい目でロッドを見下ろすと、ふんと笑った。
「下手な変装なんかしやがって。そんなもんで見間違うかよ。俺たちの部屋で血まみれになってたとき、俺はお前の顔を見てんだぞ」
ハナエは驚いて思わず聞いた。
「あんな一瞬で覚えてるの?」
「当たり前だろ、俺は近衛兵だぞ。護衛対象も討伐対象も、一瞬で覚えなきゃ仕事になんねえよ」
ヨシュアは指を伸ばすと、無理やりロッドの顎をつまみ上げた。
白く滑らかな肌、長いまつ毛、エメラルドのような翠緑の瞳。
黄土色に見えた髪も今は、朝日に洗われて金色に輝いている。
メガネと長い髪で隠されてきたその顔は、まるで精巧な芸術彫刻のよう――妖精のごとく美しい『白の王女』に負けぬほど、彼もまた美しかった。
それだけに、白い磁器のような肌に走る、赤い傷跡が痛々しい。
「体中の傷は、コイツの自作自演だ――俺が付けた腕の傷以外はな」
ひときわ深く走る右腕の傷を押さえて、ロッドはおびえたようにうつむいて震えている。だが、ヨシュアは冷たい声で突き放した。
「だまされるなよ、ハナエ。右腕の傷は、こいつが賊と取引をしていた証拠だ。ガキどもをさらうように命じてたのは、こいつなんだぞ」
「じゃあ、耳が聞こえないのも嘘? アヤをだまして、あたしを襲わせたのも?」
ロッドはじっとうつむいたまま、何も答えない。
たまりかねたハナエが、大声で言った。
「どうしてそんなことをしたのよ! 答えて、ロッド!」
うつむいたままで、ロッドの肩が震えている。
「……くくっ……」
その唇から、かみ殺した愉悦がこぼれる。
「ロッド?」
ロッドが、勢いよく顔を上げた。
バチィッ!
弾けるような音がして、黒い電撃が飛んだ。
ヨシュアの体が、まるで人形のように簡単に弾き飛ばされる。
積まれていた薪に叩き付けられ、ヨシュアは地面に転がった。薪が音を立てて崩れ落ちる。
「ヨシュア!」
「来るな……っ!」
ハナエを制して、ヨシュアが苦し気にうめいた。
その首にはまだ、黒い電撃が巻き付いている。
「……ククッ……くははっ、くはははははッ! 驚いたよ、まさか見抜かれていたとはね」
髪をかき上げ、ロッドは笑った。
そこにはもう、気弱な少年の面影はない。
その微笑みは残酷で、気高く、そして腹立たしいほど美しかった。
「まあいい、茶番はここまでにしよう――白の騎士よ、ずっとお前を待っていた」
「ハナエ、逃げろ!」
ロッドは冷たく見下ろすと、指先をヨシュアに向けた。
その指から、黒い電撃が飛ぶ。
「があ……っ!」
電撃に貫かれ、ヨシュアは体をのけぞらせた。焦げたようなにおいが周囲に漂う。
「しかも、一番来てほしかった従者を連れてきてくれた。コイツは我の腕を切り裂いたのだからな。相応の礼をしてやらねばと思っていたところだ」
ロッドは嬉しそうに笑っている。
ハナエは怒りに目を吊り上げて、白い剣の柄を握りしめた。
「やめなさい、ヨシュアを放せ!」
だが、ロッドはそんなハナエを愛おしそうに見つめて言った。
「おっと、落ち着けよ。少し話をしようじゃないか。『どうしてそんなことをしたの』と聞いたな。特別に答えてやるとしよう」
ロッドはそう言って、切り株に腰を下ろす。
「我の望みはただひとつ――白い剣の力で『命なき意思』になることだ」
「命なき、意思?」
ハナエが眉を顰めるのを見て、ロッド――黒の王は、にやりと笑う。
そして、ゆっくりと話し始めた。
***
「きっかけは、一冊の本だった。
三年ほど前、我が何気なく手に取った本。
そこに封印されていたのが、魔女アイリーンだった。
驚く我に、魔女は言った。「封印の半分を解いてくれてありがとう」と。
そしてその礼として、我にいくらかの魔力をくれたのだ。
城での暮らしに飽き飽きしていた我にとって、魔女の話は何もかもが新鮮だった。
魔女が言うには、我らが今いる世界の外に、無数の世界が存在しているのだという。
そして、自分はいろいろな世界を渡りながら、力を集め、旅をしているのだと言っていた。
世界を渡る!
この腐敗した世界を捨てて、新しい別の世界へ渡る!
お飾り程度に祭り上げられ、頭の悪い臣下におだてられるだけの馬鹿馬鹿しい日々に比べて、それは何とも魅力的だった。
我はそうしたいと言った。我も魔女と一緒に、外の世界へ行きたいと。
だが、魔女は「無理だ」と言った。
お前は肉体があるから無理なのだ、と。
自分は『命なき意思』だから、世界を渡ることができるのだ、と言った。
遠い昔に魔女の肉体は滅び、今は意思だけが存在しているのだそうだ。
それなのに、触れることのできる姿かたちを持っている。
命に縛られず、どこへでも行ける自由な意思――それこそが、命なき意思の姿。
我は、どうすれば『命なき意思』になれるのかと問うた。
魔女は言った。
「今のお前が『命なき意思』になるには、伝説の『白い剣』で、命と意思を切り分けるしか方法がない」とな。
我は考えた。
伝説の『白い剣』の使い手、白の騎士を呼び出す方法を。
世界に危機が迫れば、騎士たちが現れる――。
ならばひとつ、我が手で危機を用意してやろう、と考えた。
随分と苦労もしたし、計算違いもあった。
だが、そんなことはもういい。
こうしてお前が、我が前に現れたのだからな」
***
「分かるか? 我が願いを叶えられる者は、ハナエ――お前だけなのだ。我は、お前をずっと待っていたのだよ」
そう言って、黒の王は笑う。
見る者を冷たく震わせる、おぞましいほど魅力的な笑顔だった。
次回は4/7の夜に公開予定です。




