34.こぼれていくもの
巨大な幹に半身を埋めたままで、アヤはゆっくりと顔を上げる。
ハナエは駆け寄ると、その頬に手を触れた。
「アヤ、あたしのこと分かる?」
「ハナ、エ……?」
蔦は動きを止めたようだ。
土埃だけを残し、あたりに静寂が満ちてくる。
「アヤ、大丈夫? すぐに助けるから!」
「無理よ、これは【災厄の蔦】――生贄を欲し、土地を貪り殺すもの……ねえハナエ、私は化け物になってしまったのよ」
「何言ってんの、しっかりしてよ!」
「もういいの、もう何もない……私、私には……」
突然、幹がずるりと蠢いた。
アヤの体が少しずつ、幹の奥へと沈んでいく。
ハナエは、はっしとアヤの右手を掴んだ。
「何バカなこと言ってんの! 王様を助けるんでしょ?」
「もう、いい……」
「よくない! しっかりしなさいよ、それでも黒の騎士なの?」
「どうして私にかまうのよ……私、あなたに酷いことばかりしてきたのに」
「知らないわよ! そんなこと、今どうでもいい! がんばってよ……しっかりしろ、景山綾!」
ハナエは渾身の力でアヤの腕を引っ張る。
痛いと泣かれてもいい、折れたってかまわない。
助けることができるなら、どんなに嫌われたっていい。
だが、しっかり踏ん張ったはずの踵は地面に擦られ、徐々に幹のほうへと手繰り寄せられていく。
「ハナエ、もういい……あなたまで化け物に取り込まれてしまうわ」
「そんなのやだよ!」
「だったら手を離して!」
「それもイヤ!」
両手はとっくに痺れていた。指ごとちぎれて持っていかれてしまいそうだ。
それでもその手を離すまいと、ハナエは必死に力を籠める。
その指に、暖かな手のひらが触れた。
「――ハナエ様を、このまま連れて行かれては困るのです」
アヤをじっと見つめたままで、アデルが静かに言った。
「分かってるわ、あなたは何も悪くない……さあ、ハナエの手を振りほどいてあげて。自分ではできないみたいだから」
アヤはひどく穏やかな口調で答える。
アデルは優しく微笑むと、アヤの左手をしっかりと捕まえた。
「ちょっと、どういうつもり?」
動揺するアヤに、アデルは諭すように言葉を向けた。
「しっかりしなさい、アヤ様。あなたはもう、ひとりではありません。一度間違いを犯しただけで、何もかも諦めてしまうのですか? まだこれからです、僕らと共に行きましょう。こんなところで負けてはいけません!」
そう言って、アデルはアヤの手を強く引く。
白くて細いアヤの指は、鬱血のせいで紫色に変わってしまっている。
それでもアデルは手を緩めない。諦めることは、アヤを死なせてしまうことと同義なのだ。
ふたりがかりで繋ぎ止めるアヤの体は、それでも少しずつ蔦に取り込まれていく。
「あなたまで、どうして……私は敵なのよ? どうして私を助けようとするのよ!」
「理由が必要だというのなら、あとでいくらでも考えましょう! 今はただ僕自身が、あなたをお助けしたいのです!」
ずず、ずずっ。
ブーツの底が地面に食い込む。じりじりと引きずられ、蠢く幹はもうそこまで迫っている。
獲物が増えて嬉しいのか、ギチギチと音を立てて蔦が震えている。
それでもふたりは、掴んだ手を離さなかった。
「……あなたたち、本当にバカね」
アヤは慈しむような表情で、ふたりの顔を見つめた。その頬を、涙がはらはらと落ちていく
「でも、一番バカなのは私ね。ハナエのことを羨ましがっていないで、素直に手を伸ばせばよかった……くだらない見栄を張っていないで、助けてって言えばよかった。本当は騙されたって分かっていたのに……信じたくなかっただけ。つまんない意地なんて張って、あなたたちを苦しめて……なのに、こんなに必死になって、私を助けようとして……」
「そんなのいいから! そこから抜け出す方法を考えてッ!」
ハナエは叫んだ。
一瞬の沈黙の後、アヤはつぶやくように言った。
「……ごめん」
後ろから足を払われ、ハナエは地面に叩き付けられた。
指先にザリッと痛みが走る。地面で手を擦りむいたのだと気づいたとき、全身が冷たくなった。
――手を、離してしまった?
いや、そうではない。アヤがふたりから離れたのだ。蔦を操ってふたりの足を払い、その隙に腕を振りほどいたのだ。
「アヤっ!」
顔を上げたハナエの目の前で、アヤの体が幹に飲まれていく。
肩も、頭も、だらんと下がった右腕も……ガキン、バキンと嫌な音を立てて、幹の間に消えていく。
――ほどなくして、音はおさまった。
何事もなかったように、巨大な蔦はそこにそびえ立っていた。
人ひとりを飲み込んだことなど、まるで嘘のような静けさで。
膝から力が抜けて、ハナエはその場にへたり込んだ。目は開いているのに、景色がかすんで何も見えない。自分の息の音だけが、やけに耳につく。
(アヤが、死ん……だ……?)
救えなかった。
手を取ることができたのに、アヤを助けることができなかった。
言葉にできない感情が、腹の底から膨れ上がり、もがきだす。
自らの内側で荒れ狂う『それ』を、ハナエはグッと押し込めた。
乾いた風が、砂ぼこりを舞い上げる。
アヤを取り込んで満足したのだろうか、蔦はゆったりと赤黒い雲を吐き出しながら、ゆるく蠢いている。
遠くから、ドォン、ドォン、と音が聞こえてくる。
南側――リペルの村の方角だ。黒の国からの砲撃が始まったのだ。
ハナエはきつく目を閉じた。
胸の底の、さらに奥――光も差さない心の底に、暴れたがる感情を突き落とす。
心も感情も、深く沈めてしまえばいい。
そうすればもう、何も考えなくてすむ。
泣いている時間はない。守れるものがまだあるなら、自分が行かなければ。
(あたしは、白の騎士だ)
ハナエはゆっくりと立ち上がった。
「ハナエ様……アヤ様をあの蔦から取り戻す術がないか、後ほど皆で考えましょう。今は暴れる様子もありませんし、ひとまずこのまま――」
気遣うようなアデルの言葉を遮って、ハナエは口を開く。
「そうだね――そうかもしれない、でも……」
腰に佩いた剣をゆっくりと抜き放つと、ハナエは言った。
「これが【災厄】なら、決着をつけるよ。あたしは『白の騎士』だから――アヤもきっと、それを望んでる」
「ハナエ様……」
剣を握る右手に、白い紋章が浮かび上がる。
ハナエは剣を掲げると、凛と響く声で言った。
「――断ち切れ、白い剣!」
刀身が白く輝く。
剣は今、光となってハナエを導く。
(ごめん……アヤ!)
白輝一閃――。
蔦は、真っ二つに切り裂かれていた。
断末魔のような不気味なうめき声を上げて、蔦がのたうち回る。
ギチギチと音を立て、幹がねじくれる。
だが、それはやがて白くひび割れ、砂粒のようにサラサラと頽れ始める。
ほんの数十秒だっただろう――蔦だったものは、跡形もなく消え失せたのだった。
「これでもう、誰も生贄になることもない――農作物の不作も収まるかもしれない」
うまく声が出せた。言葉のすそが震えることもない――よかった、あたしはまだやれる。
「ハナエ様……」
「戻ろう、アデル。リペルを守らなきゃ」
そう言いつつ、こわばってしまった指を無理やり動かす。震えが止まらないのは、無理に力を入れ過ぎたせいだろう。
「……大丈夫、なのですか?」
アデルが心配そうに見つめてくる。
ハナエは目を細めて、微笑んだ顔をしてみせた――うまくできていたかは、分からないけれど。
「大丈夫だよ、行こう」
アデルは無言のまま立ち上がると、ハナエの前に立って歩き出した。
***
どれくらい時間が流れただろうか。
ハナエはアデルの背中を見ながら、ただ歩き続けた。
ふたりとも、何も言わなかった。
ひたすら真っすぐに、リペルの村を目指して足を動かし続けた。
森を抜け、村に近づくにつれ、戦いの跡が目につくようになってきた。
火薬のにおい、焼け焦げた倉庫、矢の刺さったバリケード――。
「今は、戦っていないようですね」
アデルが口を開いた。
「でも、まだ煙が上がってるね」
ハナエは目を凝らす。
赤黒い空の下、村のあちこちから煙がくすぶっている。
「ハナエ! アデル!」
突然、頭上から声がして、目の前に一羽の鷹が舞い降りて来た。
「カイラ!」
「よかった、間に合った!」
カイラは人の姿に変身すると、悲痛な表情でそう言った。
「どうかしたのですか?」
アデルが眉をひそめる。
「急いで村に戻って!」
「どうして?」
「いいから早く!」
カイラはそれだけ言って鷹へと姿を変えると、羽音を残して村の方へと飛んでいく。
ハナエはアデルと顔を見合わせると、村の方へと駆け出した。
全身にまとわりつく嫌な予感を振り払うように、ハナエは必死で走り続けた。
村に入ってすぐ、イージャとマーレが飛びついてきた。
「ハナエ!」
「ハナエ、こっち!」
ふたりに手を引かれ、ハナエとアデルは村の通りを駆け抜ける。
心臓がどきどきと跳ね、息が苦しい。あの赤い雲のように、胸の中に嫌な予感が湧きあがる。ハナエは頭を振って、それを懸命に振り払った。
駐屯兵の宿舎は、消毒液とうめき声に満ちていた。
傷を負った兵士や村の若者たちが、あちこちに座り込んでいる。重傷者は長椅子に寝かされ、包帯をぐるぐると巻かれた姿で喘ぐような呼吸を繰り返している。
双子たちは部屋の奥へと進むと、そこで足を止めた。
「リ、ト……?」
長椅子の上に力なく横たわり、リトはじっと目を閉じている。
だらりと下がった腕にも、肩にも、顔の半分にも、厚く包帯が巻きつけられている。白いはずの包帯が、ところどころ赤く染まっていた。
「――リト、嘘でしょ?」
ハナエの唇が、震えながらつぶやく。それは本当にかすかな声だったが、リトの耳に届いたようで、彼はうっすらと目を開けた。
「ハ、ナエ……?」
「リト!」
ハナエはリトの手を取ると、両手できゅっと握った。
「よか、った……ぶじ、だった、んだな……」
「うん、そうだよ。リトも早く元気になってね」
喉にせりあがってくる熱い感情の波を押し込めて、ハナエは懸命に微笑んでみせた。リトはゆっくりとまばたきをして、ハナエの手を見つめる。
「ハナエ……ふるえ、てる、のか……?」
「そう? ここまで走ってきたからかな」
「はじめて、あった、ときも……ふるえてた」
リトがゆっくりと、ハナエの顔へと視線を戻す。瞳はぼやけていて、あまり見えてはいないようだった。
「あのとき、おまえは、ひとり、だった……でも、いまは、ひとりじゃ、ない……」
「うん、そうだね。リトがいるもの。アデルもヨシュアもいる。森のみんなもいるわ」
「ハナ、エ……」
「うん、なあに?」
「……もう、だいじょうぶ、だから……な」
リトは、そのまま目を閉じた。
「リト……?」
優しい表情を浮かべたまま、リトはもう動かない。
「リト、ねえ、嘘でしょ?」
リトの体が突然、淡い光に包まれた――ちょうど、カイラたちが変身するときと同じように。
そして光が消え、ハナエの前に残されたのは、茶色い小さな――。
「……ウサギ?」
ハナエの脳裏に、鮮やかに蘇る――あの光景。
あれは、はじめてこの世界に来た日――はじめて白い剣で人を傷つけ、逃げ惑ったときのことだ。
あの時、パニックになったハナエを落ち着かせ、王女の前まで導いたのは、一匹の茶色い野ウサギだった。
「あれは、リトだったの……!」
ハナエは指を伸ばし、その背をゆっくりと撫でた。
ふわふわの毛は柔らかく、体はまだ温かい――まだ、こんなに温かい。
「……っ!」
歯を食いしばって、ギリギリと嗚咽をかみ殺す。
もう決めたのだ、涙など流さないと。たとえ何があっても、絶対に泣かないと。
爪が手のひらに食い込み、傷のある左手には鋭い痛みが走る。それが今は、唯一の救いだった。
(リト……リト……っ!)
ハナエの小さな背中が震えている。
アデルはかける言葉を見つけられないまま、その場に立ち尽くしていた。
次回は4/3の夜に更新予定です。




