33.蔦
まだ昼前のはずである。
だが、あたりはまるで夕暮れのように暗く沈んでいる。
空はすっかり赤黒い雲に覆い尽くされていた。力強く輝くはずの太陽も、どろどろと渦巻く雲の切れ目から、弱々しい光を投げかける程度でしかない。
静まり返った『外の森』を、ハナエとアデルは黙々と歩き続けた。
足元がひどく見づらい。澱んだ川底のようなデコボコ道の途中で、ハナエは何度も足を取られて転んでしまった。
「ハナエ様、大丈夫ですか」
そのたびに、アデルが手を差し出してくれる。
ハナエは素直にその手を掴むと、震える膝に力を込めて体を起こす。
「ありがとう、アデル」
そして再び歩き出す。
剣の震えはずっと続いている。はやる気持ちを無理やり胸の底にしまい込んで、ハナエは一歩ずつ地面を踏みしめて歩いていく。
静かな森の中、水の流れる音がかすかに響く。
顔を上げると、藪をくぐった先の岩場に、水がわき出して小さな川を作っていた。
「ハナエ様、少し休みましょう」
アデルが振り返って言った。
「平気よ。先を急ごう」
「駄目です。ほら、足を見せてください」
アデルは手ごろな岩にハナエを座らせる。ブーツと靴下を脱ぐと、足首が青黒く腫れていた。アデルが足首にそっと触れる。
「さっき転んだ時に痛めてしまったのでしょう……軽い捻挫のようですが、早めに冷やすことが肝心ですよ」
浅い川に、足を浸す。
冷たすぎない水は、歩き詰めだった足からひやりと熱を奪っていく。疲れまでもが流れ出ていくように感じて、ハナエはほっと息を吐いた。
アデルはハナエの隣に腰掛けて、自分も素足を清水にひたす。心地よさそうに目を閉じたアデルを、ハナエはちらっと横目で窺う。
「……何か、あったのですか?」
唐突に、アデルが聞いた。
「えっ?」
「何やら、もの言いたげな瞳をなさっていますから」
アデルはふふっと笑った。
ハナエはちょっとうつむくと、かすれた声でつぶやいた。
「ロッドっていう、魔女の弟子に会ったの。彼が言ってた――王様と王女様の病気は、騎士の呪いなんだって。あたしとアヤがいるかぎり、ふたりは良くならないんだって」
ハナエは、ロッドから聞いた話を、ぽつりぽつりと話し始めた。
噂と違って、魔女はこの世界を愛していたこと。その魔女は今、自らの力で眠りについていること。もうひとりの弟子、ムジカのこと。
【災厄】と呼ばれるものが、作物の不作を招いているかもしれないこと。【災厄】を目覚めさせるのに、生贄が必要であること。王と王女の病気が、白と黒の騎士による宿命の影響であるということ――。
「もし、あたしが死んだら、王様は治るのかな……」
――そうすれば、戦争は止まるのだろうか。
ハナエはきゅっと唇を噛んだ。そんなことを考えるだけで、足元がぱっくりと割れ、真っ暗な空間に引きずり込まれるような気持ちになる。
「その話――王族の病と騎士の呪いに関して、僕は何も納得していません」
アデルはきっぱりと言い切った。
「でも、アヤもロッドと同じことを言ってたわ」
「そうかもしれません。もしかしたら里長も、国の偉い人たちも、同じことを言うかもしれない。けれどそれは、あくまで他の誰かが言っているだけのことで、何の根拠も裏付けもありません。そんな不確かなことのために、命を投げ出してはなりません」
厳しい声でそう言った後、アデルはちょっとだけ笑った。
「何よりも、僕が納得するまでは、ハナエ様を死なせるわけにはいきません」
アデルは、きっといつまでも納得しないのだろう。世界中の書物を読みつくしても、あらゆる可能性を考え抜いても、それでもきっと納得はしない。どんな手を使ってでも、他の方法を探し出すのだろう。アデルはそういう男だ。
「僕は、農地の不作と王女様のご病気の原因が別だと聞いて、むしろ好都合だと思っています」
「どうして?」
「ハナエ様は、もしお声が出なくなったとして――それを誰かの命と引き換えに治せるとして、それでも治したいと思いますか?」
ハナエはぶんぶんと首を左右に振った。
「誰かを死なせるくらいなら、声が出ないままでいいよ」
「ほらね。王女様もきっと、同じお考えのはず。恐らく、黒の王だってそうでしょう」
「あ……」
ぽかんと口を開けたままのハナエを見つめて、アデルは優しく笑う。
「今、最優先で急ぐことは、この戦争を止めることです。次に、作物の不作について。王女様と王様のご病気については、時間に猶予があります。どうするのが最善か、あとでゆっくり考えましょう」
コロコロと、水の転ぶ音が耳に心地よい。
足の疲れを洗い流して、湧水はゆるゆると流れていく。
しっとり濡れた空気を胸の底まで吸い込んで、ゆっくりと吐き出す――心配事で錆び付いたように重かった胸の奥が、すっと軽くなる。
「アデル。あたし、ずっと怖かった」
「ええ。そうだと思います」
「でも、もう大丈夫」
そう言って、ハナエは笑う。
アデルは思わず目を細めた――満開のエールの花よりも、ハナエの笑顔はもっと眩しい。
「足も楽になったし、もう歩けるよ」
布で水滴を拭って、靴下とブーツを履く。小指がこすれてヒリヒリするけれど、歩けないほどではない。
アデルも立ち上がった。空はより一層、どす黒く色を変えている。
「北の丘まで、あと少しだと思います。行きましょう」
「うん!」
***
徐々に増えてくる茨の棘に腕を引っかかれながら、ハナエとアデルはまっすぐ北へ向かって歩き続けた。
月桂樹の意匠があしらわれた剣で、アデルが茨を切り開いて進む。
ただ前へ、前へ。ふたりはもう言葉を交わすことなく、それでも思いはひとつだった。
もう何度目だろう――アデルが剣を振ると、突然目の前が明るくなった。
ついに茨の藪から抜けたのだ。
ハナエはアデルに手を引かれて、棘だらけの通路をやっと抜け出した。
「ここが、北の丘?」
「ええ、恐らく」
見上げると、赤黒い雲がすぐ真上で渦を巻いている。
そこには何もなかった。
ただの荒れ地が広がっているだけ――ただひとつ、目の前にそびえ立つ「それ」を除いては。
「これが、木……?」
「木ではなく、蔦ですね」
むしろ、生き物だと言われたほうが納得できただろう。
灰色の樹皮はまるで鱗のようで、いまだにギチギチと音を立てて伸び続けている。巨大な蛇がいくつも絡まりながら、天に向かって牙をむいているようだ。
グボッ、ゴボッ、ゴボン
くぐもった音を立てて、赤黒い雲が噴き上がっている。
蔦の先端ははるか上空まで伸びており、そこから雲を噴き出している。嫌な色の雲は、まるで煙突から出る黒煙のように立ちのぼり、青かったはずの空を跡形もなく汚しているのだった。
「一体、これは……」
フィィィィ……!
白い剣が震えている。燐光をまとい、高い音で鳴っている。
ハナエがそっと柄に触れた時だった。
ほんのかすかに――でも確かに、誰かの吐息が聞こえた。
「アデル、誰かいる!」
ふたりはあたりを見渡した。けれど、どこにも人影は見当たらない。
ハナエは注意深く、周囲にじっと目を凝らした。
どくん、どくんと脈打っている、謎の蔦の太い茎――いくつも絡まり合って、ねじくれた幹。
その一部が、動いた。
「……まさか」
ハナエは目を見開いた。
女がいる。
腰から下を蔦に飲み込まれ、髪を振り乱した女がいる。
その肌には、見覚えのある黒い文様が、びっしりと刻まれていた。
「まさか……アヤ?」
女がゆるりと顔を上げた。
涙と血と、何かわからないものにまみれ、長い黒髪が絡みついたアヤの顔は、それでもやはり美しかった。
アヤは呆然とした表情のまま、うろうろと視線をさまよわせている。
「アヤ、あたしよ! ハナエだよ!」
「……は、なえ……?」
焦点の定まらない視線が、ゆっくりとハナエの瞳を捕まえる。
一瞬遅れて、その目にカッと赤い狂気が浮かび上がった。
「ぅぅぅぅううううう! おのれおのれおのれぇぇぇェェェェ!」
狂ったように叫びながら、アヤは両腕を振り回す。
身をくねらせてもがいても、その爪は虚しく空を切るばかりだった。
「オマエのせいだ! オマエのせいで、こんな……こんなァァァァアアアアッ!!」
アヤは喉も割けんばかりの金切り声を上げる。
その時、蔦がざわりと蠢いた。
腕ほどもある蔦が一本、うなりを上げて打ち付けてきたのである。
「ハナエ様ッ!」
アデルは剣を抜くと、襲い来る蔦を一刀のもとに切り捨てた。
――次の瞬間。
「ギャアアアアアァァァァァ!」
アヤは身悶えして悲鳴を上げる。
「アヤ? どうしたの!」
ハナエが問うが、アヤは髪を振り乱して叫び続けるばかりだ。
アデルが唇を噛む。
「アヤ様とこの蔦は、一心同体となってしまっているようですね……」
「そんな……!」
アヤはうめき声を上げながら、ハナエを恐ろしい目でにらみ付けた。
「おのれェ、おのれェーッ!」
叫び声に応えるように、次々と蔦が襲ってくる。
アデルは剣を鞘に納めると、鞘ごと蔦を振り払う。払われても払われても、蔦は次々にハナエを狙ってくる。
「くそっ、キリがない……!」
アヤの目には、もう何も見えていないようで、口からは言葉にならない恨み事を叫び続けていた。
「アヤ……!」
フィィィィ……!
また、白い剣が震え出す。
「ダメだよ、白い剣! あたし、アヤを殺したくない……」
そこでハッとして、ハナエは白い剣を見た。
白く燐光を放つ剣。
ハナエの願いを叶える、すべてを断ち切る伝説の剣。
(もしかして……)
アデルの足の『痛み』を断ち切った時のことが、脳裏をよぎる。
蔦はいよいよ暴れ出して、邪魔なアデルを追い詰めていく。
迷っている余裕はない。ハナエはぐっと腹の奥に力を込めた。
「白い剣よ……」
祈りを込めて、ハナエはすらりと剣を抜く。
刀身は強く輝き、あたりを白く照らし出す。
剣を握った右手の甲に、白い紋章が浮かび上がる。
「アヤの心を、あの蔦から切り離せ!」
白い剣はひときわ強く輝いた。
そして主を導くように、蔦に向かって刀身をひらめかせる。
切っ先は風を切ってアヤの頬を掠め、深々と幹に突き刺さった。
白い光が、波紋を描くように広がっていく。
やがてそれは、さざ波が徐々に収まるように、静かに消えていった。
「……っあ……」
狂気に染まった赤い目が、ゆっくりとまばたく。
その瞳に、黒い理性の光が戻ってくる。
「アヤ!」
ハナエとアデルは、半身を幹に埋めたままのアヤのもとへと駆け寄っていった。
次回は4/2の夜に更新予定です。




