26.予言
そよぐ風が、窓にかかったすだれをひらめかせる。
差し込む日の光はもう、夕暮れの色をしていた。
ハナエはゆっくりと身を起こした。ソファに倒れ込んでから、ずっと眠っていたらしい。あたりを見まわしたが、アデルの姿はなかった。
立ち上がると、体のあちこちがきしむように痛んだ。ゆっくり窓に近づくと、そっと外をのぞいてみる。
美しい夕焼けだった。
夕日は惜しみなく橙色の光を投げかけ、世界を染め上げている。
結晶サンゴが光に透けて、まぶしいほどに輝いている。ルビー、サファイア、エメラルド、琥珀にオパール、アメジスト……これより美しい森など、ハナエは見たことがない。
東の空にはもう、夜の色が滲み始めている。夕暮れのオレンジと夜の紺色が混じる空の狭間は、息を飲むほど鮮やかなラベンダー色をしていた。
ハナエは心ごと吸い込まれるように、目の前の光景に見とれていた。
「ハナエ様?」
かけられた声にはっとして振り返ると、アデルが部屋に入ってきたところだった。
「先に起きたので、お風呂をいただいてきました。さっぱりしましたよ」
そう言って、アデルはにこりと笑う。
「よう、ハナエ。おはよ!」
アデルの後ろから、リトがひょいと顔を出した。
「リト、ありがとう。よく眠れたわ」
リトは「ん」と笑うと、ハナエにも風呂をすすめた。
「その間にメシの準備をしといてやるからさ。行ってきな。なんなら一緒に入ってやろうか?」
ニカッと笑って拭き布を差し出すリトに、ハナエはちょっと膨れてみせる。
「子供じゃないんだから、お風呂くらい一人で入れるわよ」
それだけ言い残すと、ハナエは借りた布を抱えて浴室へと向かった。
「そういう意味で言ったんじゃないんだけどなぁ……」
「二度と言わないでくださいね」
アデルはじろりとリトを睨む。リトは軽く肩をすくめてから、夕食の支度にとりかかるのだった。
***
汗とほこりを洗い流すと、心までさっぱりと軽くなったようだった。
ハナエが部屋に戻ると、おいしそうな匂いが出迎えてくれた。
「シチューでいいよな」
「うん、シチューは大好き」
ハナエはリトと向かい合うように席についた。アデルが隣に座る。目の前にはとろりとあたたかな白いシチューが、ほかほかと湯気を立てている。
「いただきます!」
みんなで手を合わせてから、スプーンでひとすくい――あつあつのシチューは塩気と甘味がとろけ合って、思わず頬が緩む美味しさだ。
「野菜も味が濃くておいしいですね。この村でとれるのですか?」
アデルが聞くと、リトは口いっぱいにシチューを頬張りつつも頷いた。
「ここらへんはまだ、あまり作物の収量が落ちていないんだ」
「不思議ですね。土地によって偏りがあるなんて、ますます原因が分からなくなる」
首をかしげつつ、アデルもシチューを口へと運ぶ。
「その辺の話は、あとでみんなで考えようぜ。それより、メシの後にちょっと付き合ってほしいんだけど、いいか?」
「いいけど、どこに?」
ハナエがきょとんとした顔で尋ねる。
「里長のところ。お前らに会って話がしたいんだってさ」
ハナエはアデルと顔を見合わせた。
神妙な顔のふたりを見て、リトが笑い出す。
「そんな緊張しなくても大丈夫だって! 取って食ったりしねえからさ」
それから少し真面目な顔になると、リトが続けた。
「あと、お前らの仲間――ヨシュアだっけ? あいつは今のところ無事だぞ」
「本当?」
ハナエが目を見開く。リトは安心させるように頷いた。
「俺たちの仲間が、黒の王城を見張ってる。閉じこめられてて、ちょっと痛めつけられちゃいるけど、処刑されるような様子はまだないってさ。お前らをおびき寄せるための人質に使うつもりなんだろうよ」
「ヨシュア……」
安心が半分、心配が半分の心持ちで、ハナエはため息を吐いた。
「ひとまず命はあるということです。救い出す手立ては必ずあるはずですよ」
ハナエを励ますように、アデルが言う。リトも明るい声で続けた。
「そうそう、まずはしっかり食いな! お前らが元気でなけりゃ、助けられるもんも助けられねえぞ!」
そうだ、まだこれからだ。
問題は山積み、解決の兆しも見えない。けれどまだ、やれることがあるはずだ。
ハナエは「うん」と力強く頷くと、目の前のシチューを夢中で頬張った。
***
食事の後、さっそくハナエとアデルは、リトの案内で村の奥へと向かった。
村の中には、やはり人影は見られない様子だった。
村の広場の中央に大きな焚火が赤々と燃えているばかりで、それ以外の明かりは一切灯っていない。
静まり返った村を通り抜け、三人は歩いていく。
村の奥はひんやりと涼しかった。静かな音を立てながら、絹のような滝がひとすじ、崖の上から流れ落ちている。
その崖の壁に、大きな洞窟が真っ黒な口を開けていた。
洞窟の手前に、かがり火に照らされて三人を待つ者がいた。
人のようだが、人ではないものだった。
その頭部は、立派な角を生やしたヘラジカである。
だが、首から下はまるで人間のような姿をしていた。
ゆったりとした白いローブを着て、靴も履いている。その足にはふかふかの毛が生えていた。
「ようこそ、お客人。私は里長のシエルと申す者です」
そう言って差し出された手は蹄でなく、ハナエと同じ5本指になっていた。ハナエも手を差し出す。茶色い毛で覆われた手は、とても暖かかった。
「あたしは、白の騎士のハナエです」
ハナエが言うと、シエルは優しく微笑んで頷いた。見た目から年は分からないが、声の様子からして、まだ老齢とまではいかないだろう。
「私は白の国の近衛兵で、アデルと申します。危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
シエルは「礼には及びません」と言って笑った。
「我ら【星読みの民】は、【外の森】で困っている方を見捨てることはいたしません。ただ――」
そこで言葉を切ると、シエルはハナエに視線を向けた。
「ハナエ殿に今一度、約束していただきたいのです。この村で白い剣を抜くことは決してない――と」
シエルはじっとハナエを見据えている。その目には、怒りも恐れも浮かんではいなかった。
澄んだ瞳を見つめ返して、ハナエは言った。
「誓います。私がこの村で、この剣を抜くことはありません」
シエルは目を閉じて小さく頷いた。
口元に浮かんだ微笑みは、なぜだかひどく悲しげに見えた。
かがり火の爆ぜる音が、時折響く。
「我々【星読みの民】は、古くから星の巡りを読み解き、予言に基づいて暮らしてきました。未来を予見する力のある者が、里長になるさだめ。私もまた、その力を以てこの里を導いてきました」
シエルの声が、静かな森に染みていく。
「あなたがたがここへ来ることも、私には見えておりました。そしてこの先訪れるであろう、いくつかの未来も」
「いくつかの、とは、どういうことでしょうか」
アデルが訊ねると、リトが代わりに口を開いた。
「里長が見ているものは、「来るかもしれない未来」なんだ。運命の決定には、いくつかの分岐点がある。そのときの行動次第で、別の未来が訪れる可能性も大いにあるのさ」
シエルが深く頷いた。
「そう。リトの言った通り、未来はまだ、何も決まっていません。予言とは、「今」を生きる人々への助言でしかないのです。それを心に留めた上で、どうぞこれからの話に耳を傾けてください」
シエルは「ついてきてください」と言うと、真っ暗な洞窟へと入っていった。
「行こうぜ」
そう言ってリトが歩き出す。
ハナエはアデルといっしょに、暗がりの中へと踏み出した。
***
漆黒の闇だと思っていた洞窟の中は、実際はそうではなかった。
細かな無数の光の粒が、洞窟中で瞬いている。まるで星空の中に足を踏み入れたかのようだ。
「これらは特殊な鉱石のかけらです。自ら仄明るく光る性質を持っています」
シエルの声がりんと響く。
目が慣れてくると、壁一面の光だけで洞窟全体を見渡すことができた。
通路が真っ直ぐに伸び、その奥にひときわ明るい場所が開けている。
がらんと広い空間は、どうやら祭壇のようだった。
中央に置かれた水盤には静かに水が満ちていて、透明な水が音もなくあふれている。見上げると、青白く光る半球状の石が天井に填まっている。それはまるで満月のように、頭上から広場全体を照らしていた。
中央の水盤を囲むように、広場の壁には記号や簡単な絵のようなものが描かれていた。眺めているだけで、壁の模様が何か話しかけてくるような気がする。
アデルも興味津々といった様子で、食い入るように壁を見つめている。
「これらはすべて、伝承と予言を記録した壁画です」
シエルが静かに口を開いた。
「ハナエ殿がこの地を訪れることは、すでに予言されておりました。『騎士が傷つき、迷いの中でこの地を訪れる。その時は我ら【星読みの民】の力を与えよ』との予言です」
「それで、私たちを助けてくれたんですか」
ハナエが言うと、シエルは黙って頷く。
それを見ていたアデルが、首をかしげて言った。
「では、あなたがたはなぜ、ハナエ様を恐れているのですか?」
シエルは黙ったまま、アデルをじっと見つめる。アデルもその視線を真っすぐに見つめ返して、言葉を続ける。
「予言で力を貸すことが決まっているというのに、里では剣を抜くなと誓わせた――何か違和感を覚えます。理由をお聞かせ願えますか」
コポコポと、水盤が小さく音を立てている。
シエルはローブをひるがえして背を向けると、染み入るような声で言った。
「この里は百年ほど前、一度滅んだのです――白い剣によって」
「そんな! 一体なぜ?」
ハナエの言葉に、シエルは背を向けたまま「わかりません」と答えた。
「何があったのかは伝えられていません。ただ、その時も今と同じように、白の騎士が里を訪れていたそうです。そして、その剣のわずか一太刀で、里は滅んだと伝えられています」
水盤の水音が、ふいに止まる。波が消え、水面は静かに時を止める。
アデルが言った。
「この里で剣を抜かないようにと約束させたのは、それが理由だったのですね。皆が、かつての惨劇を思い出さないために」
「……ええ」
少し間をあけて、シエルが頷く。それからくるりと振り返ると、シエルはハナエを見つめて微笑んだ。
「けれど、ハナエ殿はこの里で剣を抜かないと約束してくれました。我々は喜んでお力をお貸しいたします。我らの命をあなたに預けます。好きにお使いください」
首を垂れたシエルの見事な角を目の前にして、ハナエはかすれた声で言った。
「では、ひとつお願いがあります」
「何でしょうか」
「あたしに、協力しないでください」
「なんですと?」
シエルが驚いて顔を上げる。
ほど近い距離で、ハナエはその若草色の瞳を見据えた。星を映した大きな瞳は、もうひとつの宇宙のようだ。ハナエは言った。
「本当は怖いです、助けてほしいです。あたしは白の騎士なのに、ひとりじゃ何もできなくて、いつもアデルやヨシュアに頼ってばっかりです。今回だって、リトに助けてもらわなければ、逃げ切れなかったと思います。助けてくれるなら、助けてって言いたい」
「ですから、我々は――」
「でも、ダメなんです!」
ハナエは叫んだ。鼻の奥がつんと痛くなる。涙をこぼすまいと、きつく両手を握りしめた。
「あたし、黒の国との和平交渉に失敗しました。黒の国は、あたしが王様を傷つけた犯人だと思ってる。あたしに味方するということは、黒の国を敵に回すということです。戦争になってしまうかもしれない。無関係な人たちを巻き込んで、危険にさらしたくはありません」
震えた声が、洞窟に響く。それでもなんとか、ハナエは顔を上げて言った。
「みなさんにとって、きっと予言を守ることは、すごく大事なことなんだと思います。それを簡単に「破れ」なんて言えません。だから、あたしが命じます。みなさんは、自分たちの命を一番大事にしてください」
シエルは驚いたように、じっとハナエを見つめていた。
だが、やがてまぶしそうに目を細めると、小さく呟いた。
「……あなたは、変わった人だ」
ふたたび、水盤の表面にさざ波が立ち始めた。
コロコロと、小さく水音が歌いはじめる。
「――白の剣とは、運命さえも断ち切る剣。黒の剣とは、魂すらもつなぐ剣。邪悪な影に沈むとき、輝く魂もまた現れる」
水音に重なるように、アデルの落ち着いた声が響く。
「これは、白の国に広く知られている伝承です。これによって、人々は白の騎士が救世主なのだと思い込んでいます。ですが僕は、その解釈が正しいのかどうか、ずっと疑問に思ってきました」
「ほう、それはなぜです?」
「この伝承は、すべてではない。言い伝えのごく一部なのではないかと考えていたのです。本来はもっと、別の意味があるのではないかと。この洞窟の壁画を拝見して、それは確信に変わりました」
その言葉に、シエルは感心したように目を見開く。
アデルは歩み出ると、一枚の壁画の前に立った。
そこに描かれているのは、高貴な身なりの巨大な人物だった。
片目を閉じ、もう片方の目は異常に大きく見開かれている。周囲の人々が逃げ惑う様子が描かれ、中には無残に踏み付けられている者もいる。
その巨人に向かって立つ人物がいた。その手に掲げた剣からは、光が四方に広がっている。
「これは、白い剣と怪物の戦いを描いた様子でしょう。よく見てください、怪物の足元だけでなく、白い剣を持つ人物の周りにも倒れた人が描かれています。さらに言うと、怪物の後ろにも人がいますが、まるで怪物を応援しているようにも見えます」
たしかにアデルの言う通りだ。
『白の騎士が怪物を倒す様子』というよりは、『戦う両者に巻き込まれた人々の悲劇』を描いたようにも見える。
「本来、白の騎士は白の国を救うためにいるわけではない――この怪物との戦いを運命づけられた存在なのではないでしょうか。その際に、もし白の国が邪魔をするようであれば、白の騎士は白の国ごと滅ぼしかねない」
アデルは再びシエルに向き直ると、言った。
「白い剣とは、力。この世の理さえ断ち切ってしまう、規格外の力です。扱う者の想いによって、なまくらにも名剣にもなる――白の騎士は、救世主にも悪魔にもなりうるのでしょう。今、白い剣の主はハナエ様です。ハナエ様は、誰かのために剣を抜ける人です。誰かのために泣ける人です。白の騎士と言う重い責務に押しつぶされそうになりながら、それでも立とうとしている人です。シエル様、もしこの伝承の続きをご存知でしたら、僕たちに聞かせてはもらえませんか。それが、ハナエ様を助ける手立てになるかもしれません」
シエルは目を伏せると、おかしそうに言った。
「アデル殿。あなたもまた、変わった人だ」
「そうでしょうか。あまり自覚はありませんが……」
アデルがそう言うと、シエルはふふっと笑った。
次回は3/26の夜に更新予定です。




