25.リト
森に踏み込んでから、どれくらい走っただろう。
雲の切れ間からのぞく月の明かりが、ほのかに辺りを照らしている。
ごつごつとした古木のかげに身を隠すと、アデルはやっとハナエの手を離した。
ぜえぜえと荒い息が聞こえている。
ハナエも喉がカラカラで、呼吸をするたび肺に痛みが走る。
周囲から、物音は聞こえてこない。
「……追手は、来ていない、ようですね……」
木の影になっていて表情は分からないが、アデルの声にはまだ緊張した様子がうかがえた。
「アデル、大丈夫?」
「……申し訳、ありません」
「え?」
「僕は……僕は囮になることさえできなかった……! あなたを守ると言っておきながら、僕は……結局……!」
アデルは、そこで言葉を詰まらせる。
こぼれる息が震えていた。
「アデル」
暗がりの中、ハナエは手探りでアデルの手に触れた。
「ほら、しっかりしてよ! あなたの頭が冴えてなきゃ、ここから先を乗り切れないよ!」
ハナエはわざと、明るい声で笑いかける。
ここが暗闇でよかった。声だけならまだ、元気なふりができる。
自分の頬をつたう涙の冷たさも、闇の中ならアデルに知れることはない。
「あたしは何もできない、なんの力もない、ただの子どもだった。白の剣が勝手に選んだだけだ――そうやって、自分の運命から逃げてた。でも、もう決めた!」
両手でぎゅっとアデルの手を握る。
「あたし、『白の騎士』になる。王女様も白の国も、あたしがぜんぶ守る。ヨシュアだって助け出してみせる! だからアデル、しっかりして! いつもみたいに、あたしに力を貸してよ」
「ハナエ様……」
アデルの手が、そっとハナエの手に重なった。
「お手が、震えていらっしゃいますよ」
「……ばれた?」
ハナエは肩を落とすと、軽く息を吐いた。
「恰好つけたって、強がり言ってるだけじゃだめだよね。本当はどうしたらいいか、分からないままなのに……ウソばっかりついて、ごめん」
「……勇気とは、怖さを感じないことではありません」
アデルの手がハナエの手をそっと叩く。
「ありがとうございます、ハナエ様。やっと冷静になれそうです」
アデルの声が、ふっと柔らかく笑った。
「前にヨシュアも言っていましたが、あなたの決意を嘘にはさせません。僕は僕のやり方で、あなたを――白い騎士を守り、その行く道を照らす。僕も今宵、この剣に誓います」
暗闇の中、カシャリ――と、金属の揺れる音がした。
「うん!」
「では、まずはどこに向かうか――ですね」
アデルは立ち上がると、古木の影から抜け出す。
そして、木にしっかりと巻き付いたツタを調べ始めた。
丹念に根を掘っていたかと思うと、立ち上がって周囲を見渡す。
やがて、月明かりの下でアデルが笑った。
「水のある方へ向かいましょうか。僕、喉がカラカラです」
「でも、どっちへ行けばいいのかな」
「木の根を見れば大体わかりますよ。たぶん、そう遠くはありません。さあ、行きましょう」
***
しばらく歩くと、空気にしっとりとした冷たさを感じるようになってきた。
かすかに、遠くから水音も聞こえている。
「すごいね、アデル。植物を見るだけで、水の場所まで分かるなんて」
「はは、研究癖がこんなところで役に立つとは思いませんでした」
せせらぎの音が近い。
目の前の茂みをくぐると、月の光を反射して、きらきらと小川が流れているのが見えた。
「わあ、ほんとにあった!」
声を上げ、ふたりで川に駆け寄った――そのときだった。
「きゃ!」
「うわっ!」
突然、足元が大きく揺れたかと思うと、体が宙に浮いたのだ。
「なに、これ……」
どうやら、足元に仕掛けられていた網罠に吊り上げられてしまったらしい。
「やあやあ、マヌケが二匹もかかったな」
頭の上から声がした。
声のしたほうを見上げると、太い枝の上に何者かが立っている。月明かりを背にしているので顔は見えないが、どうやら若い男のようだ。
男はひらりと枝から飛び降りた。
「おや、こっちの子ダヌキちゃんは、もしかして噂の『白の騎士様』じゃない?」
「その方に気安く触れるな!」
アデルが鋭い声で威圧すると、男はやれやれと肩をすくめた。
「そんな怖い顔しないでよ。お前は、白の国の近衛兵ってとこかな?」
男はすらりと短剣を抜くと、ひたりとアデルの首筋に当てる。
「何すんのよ、やめなさい!」
「おっ! 威勢がいいねぇ、子ダヌキちゃん」
男はハナエの顔をのぞき込むと、屈託なく笑った。
「じゃあさ、取引しない? 子ダヌキちゃんが俺たちを傷つけないって約束してくれたら、俺もコイツを傷つけない。どう?」
雲間から現れた月が、男の顔を照らす。
不思議な瞳をしていた。金茶色の目と縦に長い瞳孔は、まるで猫のようだ。
左の頬には何かの文様が化粧されており、頭には刺繍の入った布をくるりと巻いている。そこからぴょこぴょこと跳ねだしている淡い髪の色も、アデルやヨシュアとは全く違っていた。
ハナエは男を見つめ、首をかしげて言う。
「ねえ、ひとつ教えて。『俺たち』って誰のこと?」
「約束してくれたら教えるよ。子ダヌキちゃんが思っている以上に、白い剣ってのは強い力があるのさ。約束してくんなきゃ、ふたりともここから降ろさねーよ」
男はカラカラと笑っている。
首元の短剣に怯むことなく、アデルが男を睨んで言った。
「あなたは『森の民』ですね。古くから外の森に暮らし、独自の文明・文化を持つ人々だとか」
「へぇ! よく知ってるな。外とはもう、百年近くも交流がないってのに」
「古文書を読み漁っているときに知ったのです。その『森の民』が、僕らをどうするつもりですか」
「さあ? どうしよっかなー……なあ、ハラ減ってない?」
「は?」
「お前の足、ずいぶん痛そうだし。どこに行く気かは知らないけど、いったん休まないと逃げ切れねーぞ」
「……僕たちを助けようというのですか? なぜです」
「さあ、なんでかな?」
男はハナエの顎を軽くつまむと、ニッと笑う。
「どうする、子ダヌキちゃん?」
「……いいわ、あなたたちに力は使わない。約束する」
「じゃあ、交渉成立だな!」
男はアデルの首元から短剣を引くと、そのままぷつりと網を切った。
「きゃあ!」
ハナエはアデルと一緒に、地面にどさりと落ちる。下草があったおかげで痛くはなかったが、まったく乱暴な降ろし方だ。
ハナエが不満そうに顔を上げると、男は笑いながら手を差し出した。
「よろしく、子ダヌキちゃん」
「あたし、ハナエっていうの」
ハナエはためらいなく、その手を掴んで立ち上がる。
なんとなく、この男は自分たちに危害を加えるつもりはないのだと感じていた。
「オッケー、ハナエね。俺はリト。そっちは?」
「僕はアデルといいます」
「ん、覚えた。じゃ、まずは腹ごしらえってとこだな。立てるか?」
アデルは歯を食いしばると、よろよろと立ち上がった。
その様子に、ハナエは眉を顰める。
「アデル、足痛むの?」
「……平気ですよ」
そう言って微笑んだが、アデルの額にはびっしりと汗が浮かんでいた。
「無理すんなって、ほら」
リトはアデルの腕をつかむが、アデルは警戒した様子で頭を振る。
「結構です、ひとりで歩けますよ」
「いいからいいから!」
「ち、ちょっと! 降ろしてください!」
「だめー」
リトはアデルを担ぎ上げると、さっさと歩きだす。
「ちゃんとついて来いよ、子ダヌキちゃん」
月明かりの下、振り返ってリトが笑う
ハナエにはなぜか、その笑顔が妙に懐かしく見えた。
***
夜が、白く明け始めていた。
先に進めば進むほど、森は不思議な様相へと移り変わっていった。
針葉樹はいつしか姿を消し、代わりにシダのような巨大な植物があたりを覆うようになっていた。
それだけではない。ところどころに見える木々は、鮮やかな色のサンゴそっくりである。さらに、その合間に聳え立つ、美しい石の結晶体――本当に宝石でできているのではないかと思ってしまうくらい、それらは美しかった。
「すごいね、こんな森があるなんて」
ハナエは歩きながら、あたりをきょろきょろと見まわしている。
朝へと向かう空の白さを透かして、結晶がきらきらと光を跳ねる。
「ええ、僕の常識では考えられない植生です。いったいどんな生態なのでしょうね……ああ、調べてみたい。実験道具を持ってくればよかった……」
アデルはリトに担がれたまま、目を輝かせている。
「なんだか、海の底みたいね。見たことない植物ばっかり! 白の国の植物は、あたしの国にもあったのに。バラとか、小麦とか……」
「ハナエ様の国と白の国は、気候が似ているのでしょうね。しかし、ここはまったく違う……気候というより、空気からしてまったく別物のように思えます」
リトは楽しそうに、ふたりの会話を聞いている。
ふと、目の前が開けた。
リトはアデルを肩から降ろすと、弾んだ声で言った。
「ついたぜ、ここが俺たちの住む『星読みの里』だ」
そこは、小さな村だった。
周囲を色とりどりの結晶に囲まれた集落には、丸太でこしらえた家が点在している。
不思議なのはその大きさだった。高さにして五メートルもありそうな大きなものから、犬小屋のような小さなものまで様々だ。よく見ると、木の上にも小さな家が築かれている。
ところどころに柵が作られ、その中にワカメのような植物が植えられている。どうやらこれは畑のようだ。
「それにしても、誰もいませんね」
アデルの言葉通り、見渡す限り人の姿がない。
それどころか、物音ひとつしない。
だが、視線は感じる。ハナエでさえもその気配を感じていた。誰かが息を飲んで、こちらをじっとうかがっているような――。
「ま、気にすんなって。俺の家はこっちだ、ついてこいよ」
そう言ってリトは歩き出す。
ハナエはアデルと並んで、リトの背中を追いかけた。
大きな緑色の結晶サンゴのすぐそばに、リトの丸太小屋があった。
サンゴに寄り添うように建てられた高床の家に、夜明けの風が気持ちよく吹き抜けていく。
「上がれよ。靴のままでいいぜ。テキトーに座ってて」
リトが言った。ハナエは糸が切れたように、目の前のソファに座り込む。昨晩からの疲れが、もう限界に達していたのだった。
透明な風が、頬を撫でていく。
(気持ちいい……)
まぶたが自然と降りてくる。
抗おうにも、一度閉じた目を開けることは困難だった。
「シチューなら温めればすぐ食えるけど、それでいいか?」
リトがキッチンから声をかけたが、返事がない。
居間を覗くと、ソファに倒れ込むように眠るハナエと、床に座り込んでうとうとと舟をこいでいるアデルが見えた。
「ま、仕方ねえか」
リトはクスッと笑うと、ふたりに毛布をかけてやる。
アデルが薄く目を開ける。
「ぼくは、へいきです……ハナエさまを、まもらなくては……」
「もう大丈夫だよ。まったく、ひとりで頑張りすぎなんだよ、お前も」
アデルの髪をくしゃくしゃと撫でて、リトが言い聞かせた。
「ちょっと寝ろ。話はそれから。な?」
けれどアデルは、必死で首を振って起き上がろうとする。
「……でも、ヨシュア、が……」
「ヨシュア?」
「くろの、くにに……つかまって……」
「わかった。そっちは俺に任せろ」
リトが頷くと、アデルはぎゅっとリトの袖を掴んだ。
「まだ……ぼく、は……」
ぱたり――と、袖を掴んだ手が落ちる。がくりと傾いた頭をリトが支えてやる。
アデルは静かに寝息を立てていた。
アデルを起こさないようにそっと頭を降ろすと、リトはハナエの前に屈みこんだ。
ハナエもよく眠っている。安らかな寝顔を優しく見つめて、リトがぽつりと言った。
「よくがんばったな、ハナエ。もう心配ねえから」
リトは立ち上がると、窓のすだれを静かに降ろした。朝の日差しが遮られ、心地よい薄闇が広がる。
リトはもう一度ふたりの寝顔を眺めてから、そっと小屋から出ていった。
次回は3/25の夜に公開予定です。




