第4話 仔猫のお散歩
「こっちにおいで、リリアナ」
低く落ち着いた声がする。
ち、ちょっと待って。
目の前に迫った王子が、腕を掴んで引き寄せる。
王子と体が重なる。
「私、人間に戻ってる?」
すらっと細い手足、ブロンドの髪。
人間だった頃のリリアナ・ラグドールがそこにいた。
「どうしたの?」
リアン王子は、彼女の髪を触りながら言う。
「…ついに、貴方様が私のことを見てくれました」
私は、涙で潤んだ瞳のまま、王子にそっと口付けをしようとする。
「にゃん…」
そこで目を覚ますと、ソファの上で寝ていたのは、一匹の仔猫。
(……まだ猫のまま。夢でしたのね)
(今も十分、夢みたいですが――)
王子の声がすぐ近くで響く。
「よく眠っていたね、リリー」
優しい指先がふわふわの毛を撫でる。
「にゃぁん」
(やっぱり……私がどんな姿であっても、貴方様が好きなのは変わりません!)
王子はごく自然に私を腕に抱き上げて、扉へと歩き出した。
「今日は外出の日だよ。一緒に行こうか」
◇
「ここにくるのは、リリーを見つけたとき以来だね」
綺麗に刈られた草木をくぐって、ともに中庭を歩く。
王子が猫を連れている姿が珍しいからか、人々の視線が集まった。
「まあ……王子の猫ですって!」
「あの王子が猫を…?」
「首輪をご覧なさい、王家の紋章がありますわ……」
「なんと神々しい仔猫……」
――ふふん。そうでしょう、そうでしょう。
首にかけられた銀の首輪は、王子が私に贈ってくれたもの。
中央に刻まれた王家の紋章は、それだけで絶大な威光を放っているのよ。
使用人たちは誰もが微笑み、兵士でさえ背筋を伸ばし、まるで王族に接するように私を見送った。
――ああ、気分がいい。
つい先日までの私は、皆に嫌われ、避けられる存在だった。
リリアナという人間の姿では、どんなに城で笑顔を作っても嘲笑や陰口しか返ってこない。
『王子に色目を使いやがって……』
『この国を乗っ取ろうとする悪女よ……』
『一緒の空間にいるだけで吐き気がするわ……』
けれど、今は違う。
仔猫として王子に抱かれ、ご馳走を皿に盛られ、廊下を歩けば讃美の声が降り注ぐ。
――猫って最高。
「リリー、外の空気はどうかな?」
「にゃんにゃん!」
(リアン王子の隣を歩けるだけで、私、幸せです!!)
地面に降ろされた仔猫は、軽やかな足取りで石畳を散歩する。
小さな足音が響き、首輪のブローチが揺れる。
そのときだった。
中庭の角を曲がった先で、仔猫は何か固いものにぶつかった。
「にゃん…にゃん!」
(もう、一体どこの誰かしら。地面も見て歩いてください)
だが、見上げた瞬間、息が止まる。
白銀の髪。腰には剣。長い外套に包まれた高い背。
鋭い目つきは、空気を震わせるほどの冷たさを帯びていた。
ひと目見ただけでわかった。
……あの男。
リリーは、毛を逆立て、精一杯に「しゃああっ」と唸った。
「どうしたの?」
王子が小首を傾げる。
間違いない。
前世で私を“死”へと追い込んだ処刑人――。
ヴァルト・アイゼンベルク卿。
断頭台で私の首を落とした、冷酷な人間。
白い髪、冷徹な目、そして血の匂いを纏ったような雰囲気。
――私とリアン王子の「愛」の邪魔をした男の顔を、忘れるはずがないわ。
「……猫」
低い声が響く。
その眼光が仔猫に注がれた瞬間、背筋に氷の針が走った。
「王太子殿下。こちらの猫は飼われたのですか」
「二日前に庭にいたところを助けたんだ。名前はリリーだよ」
「…リリー」
名を繰り返し、ヴァルトは一歩、こちらへ踏み出す。
その視線はか弱き動物に向けるものではない。
敵とみなし、追い詰める時のそれ。
「妙だな……」
ぎらりと光る眼差しが仔猫へと向けられる。
「魔法の匂いがする――」
その瞬間、仔猫の心臓が跳ね上がった。
――まさか。まさか、気づいたの?
――私がただの猫じゃないことに。
「お前……本当にただの猫か」
処刑人の声は低く、重く、空気を張り詰めさせた。
「にゃ…にゃぁ」
リリアナは、とりあえず猫っぽく鳴いてごまかしてみることにした。
だが、ヴァルトは眉を1ミリも動かさずに言った。
「殿下、こいつは隣国のスパイ……かもしれません」
次の瞬間、外套が翻り、仔猫に白い手が伸びてくる。
「私に調べさせてくれませんか」
「にゃああああっ!!」
仔猫は必死に走り出した。
石畳を爪が弾く音が、甲高く響く。
しかし、いくら走ったところで、背後から迫る手はすぐそこにあった――。
(まさか、私、絶体絶命!?)




