第三十四話 帝都の地下へ
「あの者は、いったい何を言っていますの?」
クレイム伯爵家の屋敷の二階のバルコニーに立ち尽くし、この家の令嬢エリーエルは、表情の抜け落ちた真っ白い顔でそう呟いた。
状況を理解したくないのか、聡明な筈の彼女が呆けきっている。
それは、いつもと変わらぬ筈だった日の午後。
突如、彼女の屋敷は数百もの武装兵によって取り囲まれた。『皇帝親衛騎士隊』という、ジーネボリス帝国が誇る皇帝直属の最精鋭軍団によって。
混乱する中、一人進み出た軍団を指揮する隊長から告げられたのは、皇帝と父であるクレイム伯爵の死、そして彼女の捕縛命令だった。
「皇帝陛下が、殺害された。犯人は、クレイム伯爵。その伯爵も、自殺してもう死んじゃった。それで、お嬢様も皇帝殺害に関係しているから、捕まえに来たって、そう言っていますよ」
セディルは呆けているエリーエルの側に立ち、今叫ばれた話の内容を、あっけらかんとした言葉で翻訳し、説明する。
音も無く近付いたライガも、無言で頷き、それを肯定した。
「本当かどうかは知らないけど、そういう事に成っているって事ですね」
真実など、この際どうでも良いのだろう。
少なくとも、帝国政府や騎士団はそういう認識で動いており、おそらく皇帝と伯爵が死んだという話も事実の筈。
既にセディルも、そうした現状認識に心理を切り替えていた。
七年に渡る『忍者』としての修行によって、彼の精神性は、驚きや悲しみ、恐怖を表すよりも、事態の打開策を優先するように改造されているのだ。
「そんな……、そんな馬鹿な話、ある筈がありませんわっ!!」
しかし忍者ではないエリーエルにとって、そのような話は、いきなり受け入れられるものではなく、彼女は否定の叫び声を上げた。
「皇帝陛下が死んだっ!? それもお父様に殺されたっ!? そ、それに、お父様が、じ、自害したなんてっ!?」
バルコニーから身を乗り出し、その手摺りを両手で掴んだエリーエルは、青ざめた顔で足を小刻みに震わせる。
「そ、そうですよ、お嬢様。伯爵様は、そのような恐ろしい事を為さるようなお方では、決してありませんっ!」
呆然とする彼女にアンナが近付き、彼女も震える手で、エリーエルの身体を支えた。
アンナにとっても、クレイム伯爵は恩人だ。
その伯爵が主君を殺して自害した、という話を突然聞かされても、到底すぐに受け入れられるものではなかった。
しかし、いくら否定の言葉を重ねようとも、屋敷を包囲する軍勢の存在は事実であり、皇帝親衛騎士隊の隊長ともあろう者が、このような場所で、そのような嘘を堂々と吐く筈もない。
エリーエルの理性的な頭脳はそう言っているが、それでも彼女は、その言葉を認める訳には行かなかった。
「クレイム伯爵の予想していた危機よりも、事態は遥かに深刻なものに成ってしまったようだ」
「伯爵様の敵のレベルって、25以上だったんですね」
二人の忍者は、事前に例え話として、敵がレベル20くらいまでの勢力ならば十分に対処出来る、とクレイム伯爵から聞いていた。
だがクレイム伯爵が対峙した敵は、伯爵自身や彼らの想定を大幅に超える規模と悪辣さを持っていた事が、この事態で証明されてしまった。
今や襲撃者を撃退し、エリーエルの誘拐を阻止するなどという、生半可な状況ではなくなっている。
伯爵の敵は、ジーネボリス帝国そのものを襲撃者に変えて、こちらに仕掛けて来たのだ。
「お前達、いったい何を知っていますの? お父様の敵!? そ、それはどういう意味ですのっ!?」
あの日突然、森の中の館から父親が呼び寄せて、エリーエルの専属警護に就けると言われた、別荘の管理人と平民の少年。
その二人が、この事態に関わりそうな言葉を口にしている。
エリーエルの脳裏で、いくつかの点と点が線で繋がり、事の全体像がほんの僅かだが浮かび上がって来た。
「管理人っ! 平民っ! お前達は、お父様からどのような『仕事』を命じられていましたのっ!?」
ようやく、エリーエルも気付いた。
彼女に護衛が就けられたのも、屋敷での待機を命じられたのも、彼女が皇子の婚約者に決定したからという理由では、無い事に。
今起こっている、この恐るべき事態を、父は事前に予測していたのだ。
「僕達が伯爵様から頼まれたのは、お嬢様を、この屋敷から浚おうとする悪漢から護る事ですよ」
クレイム伯爵が死に、事態がこうも動き、変化した今、エリーエルにこの事を秘密にする意味はもう無かった。
セディルは伯爵からの依頼内容を、彼女に話す事にした。
「わ、わたくしを、この屋敷から浚おうとする悪漢!?」
「その筈だったんですけど、そのただの悪漢役を、よりにもよって皇帝親衛騎士隊に変更した『誰か』がいたんですよ。多分それが、伯爵様の敵。この騒動の黒幕じゃないのかな?」
セディルは、クレイム伯爵から依頼された仕事の内容と、現在推測出来る結果について、エリーエルにそう話した。
皇帝と伯爵が死に、襲撃者が帝国の精鋭軍団にすり替えられた。
それが意味する、現在の状況とは。
「つまりですね、えーと、『負けちゃった』んですよ、伯爵様は」
端的に言えば、そういう事だった。
その事実を、再びあっけらかんとした言葉で、その伯爵の愛娘に話すセディル。
「お父様が……、負けた? ……誰に?」
「ですから、『敵』にですよ」
「敵……、お父様には、敵がいましたの……?」
当然エリーエルは、そんな話を聞くのは初めてだった。人格者で、誰に対しても優しく威厳のある自分の父に、ここまで邪悪な計略を仕掛けて潰そうとする敵がいる。
それは、箱入り娘として大事に護られて来た彼女が、初めて知った『大人世界の闇』であった。
「それ以上の話は、後だ。今は、脱出を優先する」
セディルの状況説明を一言でぶった切り、ライガが行動を促す。もう、一刻の猶予も無く、時間を無駄に出来ない事態なのだ。
「了解です、師匠。さあ、お嬢様、このお屋敷から脱出しますよ」
「だ、脱出っ!? それよりも、早く彼らに、お父様の無実を説明しなければっ! 陛下とお父様を死なせたのは、その敵なのでしょうっ!?」
クレイム伯爵に敵がいて、その敵がこの騒動を引き起こしたと言うのなら、騎士団や帝国政府にその事を説明し、父の冤罪を晴らさなければならない。
エリーエルは、自分の身に安全よりも、真っ先に伯爵家の名誉を優先するよう訴える。
「無理です!」
しかし彼女の望みを、セディルは一言で否定した。
「皇帝殺害の罪を捏造されて、伯爵様も殺された時点で、もう勝負は着いちゃったんです。敵は多分、ついでにお嬢様も手に入れて置こうかって思っているだけで、勝ちそのものはもう動かないんです。だから、お嬢様が捕まっちゃうと、その謎の敵の『完全勝利』で全てが終わっちゃいますよ」
最早、勝敗は決している。
セディルは、その事実を受け入れていた。
そして負けた以上は、少しでも損害を少なくするべき。
敵が得る筈の『勝ち金』を少しでも減らし、クレイム伯爵家に何かを残すとしたら、それはエリーエルを逃がす事以外に無い。
クレイム伯爵も、言っていたのだ。
彼女さえ無事ならば、どうとでも成ると。
「くっ……」
エリーエルは、愚か者ではない。
セディルのその短い説明でも、事のあらましは大体理解出来ていた。
父は敵に敗北し、命を落とした。その敵が彼女を狙って、帝国の精鋭軍団を動かした。では、今、彼女が父の為、家の為に成すべき事とは。
「……判り、ましたわ……。わたくしを、この屋敷から逃がしなさい、管理人っ!」
深窓の令嬢には相応しくないが、彼女は白い歯を食い縛り、小さな拳を握り締めて、その言葉を可憐な唇から絞り出した。
屋敷の中は、蜂の巣を突いたような大混乱に陥っていた。
突如、武装した帝国の軍団によって包囲され、屋敷の主の死と、帝国に対する大逆の罪を突き付けられたのだ。
クレイム伯爵家に仕える騎士や文官、使用人、馬丁や料理人に到るまで、落ち着いていられた者は皆無であった。
「おおっ、エリーエルお嬢様!」
主不在の屋敷を伯爵に代わって取り仕切る、執事のバーベルは、セディル達と共に階段から降りて来た得エリーエルを見つけ、青い顔をして駆け寄って来た。
「落ち着きなさい、バーベル」
彼女の顔色も決して良いものではなかったが、それでもエリーエルは気丈に振る舞おうとしていた。
その幼い女主人の矜持に、初老の執事は少しでも慌てた己を恥じ、身を引き締める。
「バーベル、お前は何かお父様から聞いていらして?」
「はい、もしも屋敷への襲撃があった時には、騎士達が屋敷を護り、お嬢様を彼らと共に脱出させるよう、伯爵様から仰せ付かっておりました」
執事バーベルは、淀みなくそう言った。
彼も、何らかの騒動が発生する可能性については、伯爵から聞かされていた。
武力を持たない彼は、その時には、屋敷の防衛を騎士達に任せ、残りの者達を纏めて退避するよう命じられていたのだ。
「しかし、お嬢様。あれは襲撃者ではありません。皇帝陛下直属の、皇帝親衛騎士隊です。しかも、皇帝陛下が伯爵様に、弑されたなどと……」
そう言って、彼も絶句する。
改めて口にしてみると、この屋敷で暮らし、クレイム伯爵と接していた者にとっては、到底信じられない話であった。
「そうですわ、そんな事はありませんわ。でも、今この場でお父様の無実を彼らに証明する事は、難しいのです」
キュッと花弁のような唇を引き締め、蒼い瞳に涙を湛えたエリーエルが、ついさっき受け止めたばかりの現実を口にした。
「では、お嬢様は?」
「わたくしは……、屋敷を脱出します。身を隠し、然るべき時に、身の潔白を証明しますわ」
彼女はあくまでも、父の無実を信じている。
そしてジーネボリス帝国に対しても、それを証明出来ると思っているのだ。
そこへ、伯爵家の騎士達も駆けて来た。
「お嬢様っ! 既に屋敷は皇帝親衛騎士隊によって、完全に包囲されています。彼らは、魔法による転移を阻止する『結界』の構築も、終わらせているようです」
クレイム家の騎士達を統括する騎士長ヘンリルが、エリーエルに外の状況を説明する。
彼らも伯爵の命令により、非常事態に備えて武装して屋敷の警護に当たっていたが、流石に帝国軍が攻めて来る事は想定の範囲を超えていた。
魔術師系魔法の最高位、第十レベルには【空間転移】の魔法がある。
この魔法は一度訪れた事のある場所に、パーティ全体で瞬間移動出来るという効果を持っている。
行使出来るのは、『マスターレベル』以上の魔術師系の者だけだが、これを使えば、半径百キロ圏内ならばどこにでも行く事が可能になる。
彼らはそれを阻止する為に、緊急に屋敷全体を包む『結界』を張り、魔法を使う事も、エリーエルだけ空を飛んで脱出する事も不可能にしたのだ。
屋敷の中に、その魔法を使える者が本当にいるかどうかは、彼らには関係が無い。
皇帝親衛騎士隊は、本気でエリーエルの逃亡を阻止し、絶対に彼女捕縛するという強い決意を抱いているのだ。
(まあ、皇帝が殺されたのなら、あの人達は、その犯人を絶対に許さないよね)
皇帝直属という言葉に偽りは無く、親衛騎士隊は、その実力と忠誠心によって国の内外に名を轟かせている。
主君の死に、最も憤っているのも彼らなのだろう。
「状況は最悪を超えたが、ここはクレイム伯爵の指示通り行動させて貰う。お嬢様は、俺達が屋敷の外へ逃がす。あんた達は、兎に角、時間を稼いでくれ」
襲撃者の肩書きは変更されてしまったが、伯爵が事前に命令していた、エリーエルを守護しつつ逃がす作戦自体は変わらない。
ライガとしては、予定通り屋敷を脱出し、彼女を隠れ家に連れて行く考えだった。
「ま、待って欲しい。それなら、私達も何人か同行する」
騎士長ヘンリルがそう言うと、何人かの若い騎士達も頷いた。彼らとしても、長年クレイム家に仕えて来たという誇りがある。
いくらクレイム伯爵からの指示とはいえ、一介の冒険者達だけに主家の令嬢を任せる訳には行かない、と思ったのだろう。
「うん、でもね、騎士様。今この家は、皇帝陛下の殺害を一族ぐるみで行ったって事に、されているんですよ」
身長差がある為、下から見上げるように、セディルが騎士達に話し掛けた。
「お嬢様と一緒に逃げるって事は、その罪にも加担する事に成るんです。ジーネボリス帝国そのものを敵に回して、家族にまで累が及ぶかも知れない。それでも、僕達と一緒に来るんですか?」
現実を踏まえた容赦の無いセディルの指摘に、騎士達も苦い物を口にしたように顔を歪め、言葉に詰まる。
事は、『皇帝殺害』。
それも長く国に尽くし、建国千年の祝祭を上げ、民からも慕われた賢帝が、譲位の直前に忠臣によって殺害されるという、帝国の長い歴史の中でも稀に見る凶悪事件と成ってしまった。
当然、帝国政府は何としてでも、事件の早期解決を図ろうと動く事に成る。その為には、事件の犯人一味を早急に逮捕し、処断する必要もあるだろう。
その処置が苛烈を極めるであろう事も、皇帝親衛騎士隊が総力を上げて、この屋敷を包囲した事で、容易に察しが付く。
そして騎士隊が今求めているのは、事件の首謀者とされるクレイム伯爵の娘エリーエルの捕縛なのだ。
この状況で彼女に助力すれば、最悪その者個人だけでなく、家族まで連座して罪を問われかねない。
自分一人の命ならばいざ知らず、彼ら騎士達にも親兄弟、そして妻子がいる。
軽はずみな判断で、容易に決断して良い事ではないのだった。
「お前達は、残りなさい」
表情を殺した美しい人形の様な顔で、エリーエルが騎士達にそう命じた。
「お、お嬢様……」
「その平民の言う通りですわ。お前達の忠義は疑いません。でも今は、わたくし達とは距離を置いておかなければ成りません」
当主も、その息子達も不在の今、この伯爵家を取り仕切るのは彼女であった。
その女主人の命令に、執事と騎士達はそれぞれの敬礼で応えた。
「管理人、お前は良いのですね?」
「ええ、俺には、この国に身寄りはいない」
ライガには、もう親はおらず兄妹親戚もいない。妻も亡くし、唯一の血縁者である娘とも縁を切ってしまっている。
「平民」
「僕も、流れ者ですから」
セディルの母親はこの国の人間だが、彼はそもそも生まれ育った村では、妹共々存在しない事に成っている。その妹も、今は隣国のロルドニアに居るので、この国で負った罪科で累は及ばない。
二人共、エリーエルと一緒に逃げて手配されたとしても、ジーネボリス帝国から出て行けば良いだけの、身軽な立場なのだった。
「では、行きますわよ。脱出出来る場所へ案内しなさい、管理人」
幼い頃から見知った家中の大人達に毅然とした態度で背を向け、エリーエルは、セディル達に付いて行こうとした。
「待って下さい、お嬢様!」
呼び止めたのは、アンナだった。
ただの街の女で屋敷の使用人でしかない彼女だが、エリーエルの事は赤子の頃から、自分の娘のように世話を焼いて来た。
亡き伯爵夫人にも可愛がられ、彼女が亡くなる直前には、エリーエルが成人するまでお願いねと頼まれていた。
アンナは悲壮な覚悟で、エリーエルに同行を求めるのだった。
「私も、一緒に行きます」
「アンナ……」
唐突な申し出に、エリーエルの顔には、困ったような嬉しいようは表情が一瞬浮かんだ。しかし彼女は敢えてそれを消し去り、首を横に振る。
「アンナは残りなさい。お前まで、こんな事に巻き込む訳には行きませんわ」
「でも、今のお嬢様を、お一人には出来ませんっ!」
不安を愛情で押し殺し、アンナはそう言い切った。
「両親はもういませんし、夫も亡くなっていますので、私もこの国で迷惑を掛ける相手は誰もいません。お嬢様、お願いします。私もお連れ下さい」
アンナも天涯孤独の身の上だった。
セディル達と同じく、罪に連座するような身内が帝国内にいないのだ。
いつも大人しく控え目なアンナが、青い顔をしつつも一歩も引かない姿を見せている。それは、子供を護ろうとする母の姿のように、セディルの目には映った。
「お嬢様、押し問答している時間はありませんよ。こうなったら、アンナさんにも来て貰ったらどうですか?」
正直、エリーエルの面倒を見る意味でも、アンナの同行はありがたい。
彼女は戦闘とは無縁ながらも、『厨房師』の職に就いており、一般人に比べれば多少の無理が利く。それに属性が『中立』なので、これから向かう場所に行っても、『混沌』属性の三人とは『魔素』の反発が起こらないのも幸いだった。
「良いですよね、師匠?」
「……好きにしろ」
足手纏いが増えるだけの筈だが、ライガの応えは否では無かった。
いつもの鋼の無表情ながらも、心の中では、今のエリーエルにはアンナが必要だとライガも判断している、とセディルは師の心中をそう読み解いた。
「……一緒に、来てくれるのですわね……、アンナ」
「はい、お嬢様」
俯いたエリーエルがおずおずと指先を伸ばし、アンナのエプロンを幼い迷子のようにそっと掴む。彼女も内心では、アンナと離れる事に不安があったのだろう。
それを見て、アンナは柔らかく微笑んだ。
屋敷からの脱出を決めた四人は、時間稼ぎをバーベルと騎士達に任せ、急ぎ屋敷の厨房から行ける『地下食料庫』に移動していた。
「ここから、屋敷の外へ脱出出来ますの?」
連れて来られた意外な場所で、エリーエルは天井に吊るされたランプの明かりで照らされる、地下室の中を見回した。
屋敷に暮らす多数の人間の食事を賄う為に、そこには詰まれた穀物袋やたくさんの野菜の入った箱、塩漬けの肉や魚の入った樽、棚に置かれたチーズ、食用油や調味料の入った無数の壷、様々な種類の酒瓶など、大量の食料品が納められていた。
「はい、脱出路は確認済みです。ここには、地下へと続く通路の入り口があるんです」
セディル達が選んだ脱出経路は、屋敷の外まで続く地下通路だった。その道を通れば、屋敷の外の古井戸まで行ける事を、彼らは既に一度確認している。
「それじゃあ、お嬢様。まずはこの『古着』に着替えて下さい。そのドレス姿じゃ、正体が丸判りに成りますから」
『収納鞄』に手を突っ込み、セディルは街の市場でライガが買った、エリーエル用の変装衣装を引っ張り出した。
それは下層民の少年の姿に変装出来る、男物のシャツとズボン、粗末な靴と大き目の帽子だった。
「古着? 古着とは、前に誰かが着ていた服、という意味ですわね?」
「そうですよ。古着って言ったら、普通そういう物です」
当たり前の事実だが、エリーエルは生まれて初めて古着を目にし、唇を噛み締める。
自分専用に職人が仕立てた服以外、袖を通した事の無い彼女が、果たしてこれを着てくれるのだろうか。
「……アンナ、着替えを手伝いなさい」
しかし意外な事に、エリーエルは古着にも男の子の格好をする事にも、異議の申し立てを行なわなかった。
(おおっ、この逆境が、お嬢様を成長させている!)
古着への着替えを拒否しなかった事を、エリーエルの成長と捉え、セディルは妙に感心した。
そして彼女が着替えている時間を使い、彼は食料庫の中から、パンやチーズ、ベーコンや野菜、ワインやビール、蜂蜜酒の入った瓶などの食材を集め、『収納鞄』の中に詰め込んで行った。
脱出と潜伏が長丁場になるのなら、食料はどうしても必要になるからだ。
「用意は出来たか?」
ライガが、三人の女子供に声を掛ける。
屋敷の外では、伯爵家の騎士達が皇帝親衛騎士隊と交渉し、時間稼ぎをしてくれているが、それも長くは続かないだろう。
彼らは、一分一秒でも早く、ここから遠ざからなくてはならないのだ。
「良いみたいですよ、師匠」
着替え終わったエリーエルを見て、セディルがそう言った。
彼女は、人生初の粗末な服に身を包み、黄金の長い髪を帽子に突っ込んで隠していた。大き目の帽子は、彼女の目元まで深く隠してくれるので、何とか男の子のように見える。
「では行くぞ、ここだ」
食料庫の奥に、木製の重い棚が置かれている。食器や調理道具などが置かれた棚だ。
ライガは、その棚を軽く持ち上げて横にずらす。
すると、石造りの壁の奥に、ぽっかりと開いた黒い穴が現れた。
「こんな場所に、地下への入り口があったのですか……」
壁に開いた穴を見つめ、アンナが緑色をした大きな瞳を見開く。
この食料庫には何度も足を運んでいた彼女でさえ、この地下通路への入り口の事は知らなかったのだ。
「クレイム伯爵の許可を得て、屋敷の書庫を調べたら、この古い地下通路の調査記録が残されていた。この道を行けば、屋敷から離れた場所で地上に出られる」
「僕達が一度進んでみた時は、古井戸に出ましたね」
そこに行くまでは、特に危険なものは無かった。少なくとも、彼らが調査したルートを辿る限りは、大丈夫な筈なのである。
「でも、師匠……」
「判っている。その道は、もう使えん。屋敷の周囲を騎士隊が固めている以上、もっと遠くへ脱出しなければならんからな」
予定していた脱出ルートの変更。
脱出の不確実性が増してしまうが、状況が劇的に変化した以上、別の道を行くしかないのだ。
「行くぞ」
ライガは一般魔法の【照明】を発動し、明かりを放つ光球を宙に浮かべた。真昼を切り取ったような明るい光が投射され、通路の暗闇を照らし出す。
「お嬢様、行きますけれど、ご気分は?」
アンナがエリーエルを気遣い、声を掛ける。
「ええ、わたくしは大丈夫ですわ。少し……落ち着きましたもの」
血の気が引いたその顔色は良くないものの、エリーエルの蒼い瞳には、いくぶんかの力と光が蘇りつつあった。
「良く考えてみれば、皇帝陛下とお父様がお亡くなりに成ったとしても、それが『寿命』や『病気』でなければ、『蘇生魔法』で生き返らせる事が出来ますわ」
その当たり前の事実に気付き、エリーエルは、少し気力を取り戻した。
この世界では、『死』も絶対の終わりを意味しない。
死者と成っても、生者と成って蘇る手段が存在するからだ。
「クラリッザのお父上、ヘルス大司教様は、『マスターレベル』の『僧侶』ですもの。【通常蘇生】も【完全蘇生】の魔法も、行使出来ますわ」
彼女の友人クラリッザ・ヘルス嬢の父親で、帝国に於ける寺院の取り纏め役でもあるヘルス大司教の事は、エリーエルも良く知っている。
帝国内で重要人物が死んだ場合、彼が直々に蘇生の儀式を執り行うのが慣例に成っていた。
「皇帝陛下さえ蘇生されれば、あのお方はこの犯罪行為の真相究明の為に、必ずお父様の蘇生もお命じに成りますわ。ミルファウス陛下ならば、こんな不当な騒ぎを起こした者達には、必ず正義の鉄槌を振り下ろしてくださるでしょう」
そう改めて思いついた事を口にしている内に、エリーエルは皇帝と父の蘇生、それに自分をこんな目に遭わせた愚か者への正しき仕置きを予想し、瞳の輝きを強くする。
「シリアルドお兄様とエヴンスお兄様も、ご無事な筈ですわ。お兄様達だって、お父様の無実を晴らす為、今頃は帝国政府と交渉していますわね」
思考が混乱から脱して落ち着きを取り戻し、冷静に成って考えてみると、彼女はこんな陰謀が成就する筈が無い、と確信し出したのだった。
「そうだと良いですね」
状況はまだまだ不明だが、確かに死んだ皇帝と伯爵が蘇生される可能性はある。セディルでさえ、今のエリーエルにそれを否定する意見を言うのは憚られた。
「そうですよ、お嬢様。きっと、皇帝陛下も伯爵様もこの世に戻って来られますよ」
少しでもエリーエルを元気付けようと、アンナもそう言った。
「……こっちだ」
しかしライガは、何も言わず、エリーエルの方に敢えて視線も向けなかった。忍者として、様々な経験を持つ彼には、他の者とは違う意見があったからだ。
そして、四人の逃亡者は、未知の地底世界へと足を踏み入れる。
今この時を、生き残る為に。




