第三十三話 日常の終わり
『ジーネボリス帝国』を統治する権限を持つのは、古の魔法帝国から、その『青い血』を引き継ぐ皇帝家、即ち『ジーネイア家』であった。
千年前の建国帝より数えて、第四十九代目の当主こそが、現在の皇帝ミルファウスⅣ世こと、ミルファウス・オルト・ジーネイアである。
彼は多くの功績を残し、国家を安定させ、『賢帝』と称えられた。
その即位中には、建国千年という節目も迎え、その記念すべき祭祀を皇帝として全うした。
この国にとって、その貴重な血統を伝える皇帝の権威は絶対であり、その者は神聖にして、帝国存立の象徴とも言うべき存在であった。
そのミルファウス帝も、新帝国歴1012年の今年、齢六十と成った。
今年になって体調を崩した老帝は、近々皇太子である第一皇子に、その皇位を譲る事を予定している。
それは時代の移り変わりにして必然。
水が高きから低きに流れるが如く、当たり前に流れ行く歴史の営みである筈であった。
「いよいよじゃな」
「はっ!」
そこは皇帝の寝所。
豊かで巨大な国家の主の部屋だけあり、天井の高い広々とした部屋には、高価な南方産の絨毯が敷き詰められ、緻密な細工を施された高級な家具が配置されていた。
その奥には、優に五、六人は寝そべれそうな大きさの天蓋の付いたベッドが置かれ、その前には二人の人物が立っている。
一人は、オーネイル・クレイム伯爵。
もう一人は、清潔な白衣をコートのように纏った老人。
頭部は綺麗に禿げ上がっているが、その瞳には深い叡智を宿し、顔に刻まれた皺の一つ一つが彼の豊富な人生経験を物語っていた。
そして二人は、ベッドに横たわる一人の人物に対し、確かな敬意の眼差しを向けていた。
それは薄い掛布団に身の半分を隠し、羽毛の枕に豊かな金髪の頭を埋めた老人。
彼は、威厳のある髭をたっぷりと喉元にまで伸ばし、老いても尚、逞しい筋骨を持っていた。その目は、溢れる魅力と知性を万民に注ぐかのように、炯々と輝いている。
この老人こそが、皇帝ミルファウスⅣ世。
三十年の長きに渡り、ジーネボリス帝国に君臨して来た賢帝であった。
「準備は整ったのじゃな、オーネイルよ?」
「はい、皇帝陛下。既に手筈は、全て配下の者達と打ち合わせ済みです。事が事ですので、割ける手勢は限られておりますが、要所は全て押さえられます。あの『証拠』を手に入れられたのも大きい。あれと、陛下の承認さえあれば、問題は無いかと」
クレイム伯爵は皇帝に一礼し、来るべき日に備えての準備状況を報告した。
白衣の老人は、二人の会話を邪魔せぬよう、一歩引いて控えている。
「うむ、わしの方も情報秘匿の為、事の直前にはなるが『皇帝親衛騎士隊』を動かそう。そやつらも多少の手勢は持っていようが、所詮、数には対抗出来まい」
皇帝は顎髭を扱きながら、矍鑠とした声で伯爵にそう告げる。
皇帝親衛騎士隊は、ジーネボリス帝国が誇るエリート部隊であり、皇帝直属の軍団であった。
彼らが動くのは常に皇帝の命令、即ち『勅命』が下された時のみ。
その存在そのものが皇帝の意志、とも呼べる武力集団なのである。
「陛下の騎士隊が動けば、事が大きくなり過ぎます。出来れば粛々と済ませたかったのですが……」
伯爵の声には、いくらかの無念が滲んでいた。
彼としては、全てをちょっとした『騒動』の中に押し込めたかったからだ。
「ふははははっ、わしに遠慮しておるのか、オーネイルよ。少しはわしにも、出番を用意して欲しいものじゃ。何しろこれは、『天使』を護る為の作戦なのじゃからのう」
そう言って、彼は高潔な賢帝と呼ばれる者には相応しくないような、悪戯な笑みを浮かべる。
クレイム伯爵は皇帝の言葉を聞き、改めて頭を垂れる。
「お主には感謝しておるぞ、オーネイル。エミーシャを引き受けてくれて、あの子を幸せにしてくれたのじゃからな……」
その気真面目な男に、皇帝は身内を見るような穏やかで温かい眼差しを送った。
「私如きには、勿体無い程の妻でした」
伯爵は亡き妻の名を聞き、一瞬、彼女の生涯に想いを馳せた。その出会いと、真相を知った時の驚きと覚悟も、今となっては懐かしい。
「そのエミーシャが残してくれた、『至上の宝』。エリーエルだけは、何としても守らねばならんっ!」
体調を崩した老人とは思えぬ力強い声が、皇帝の喉から迸る。
「あの子の為にも、捨て置けぬのじゃ。天使を、そのような事に利用しようという輩共がのう」
皇帝の声に、強い怒りが籠る。
それは、クレイム伯爵が見せた怒りと同種のもの。
彼らは、同じ『敵』と戦わんとしているのだ。
「隠居のついでに、悪しき者共は一掃してくれるわ。余生はのんびりと、書物でも読みながら過ごしたいからのう」
譲位が決まり、彼が皇帝でいるべき時も後僅か。後顧の憂いは自ら取り除き次代に引き渡す、と皇帝ミルファウスは断言する。
「やはり皇太子殿下には、この一件の事はご説明なさらないのですか?」
「あやつに話すのは、事が治まってからにしようぞ。この一件に関わらせるには、あやつ人が良過ぎるわ」
怒りの声から一転、皇帝は溜め息を吐くようにそう言った。
皇帝とクレイム伯爵が秘密裏に進めているこの作戦は、次代の皇帝と成る皇太子ですら知らない、極秘作戦であった。
「すまぬのう、あやつの世話まで、お主にさせる事になるとは。少々頼りないが、孫のアレイファスが育つまでの繋ぎと思うて、支えてやってくれ」
皇帝は、息子よりも孫の方の才能を買っているらしく、伯爵にそう頼んで来た。
「いえ、皇太子殿下は、決して愚か者ではありません。そして、公平な心をお持ちのお方でもあります。物事に対する偏った見方や考え方を持たないという事は、為政者として得がたき資質と心得ます」
目を伏せたクレイム伯爵は、自らが相談役を引き受けた次期皇帝に対して、その父親とは別の角度からの見方を示した。
それは決してお世辞ではなく、彼の冷徹な人物評価に基づく意見である。
「ふーむ、そうだと良いのだがな」
顎鬚を弄びつつ、皇帝は目を閉じた。信頼するクレイム伯爵の考えを、暫し思案する。
そして、いくらかの門答を経て、作戦決行の日時が決まった。
それは、皇帝の譲位を国の内外に正式発表する日。
即ち、三日後に決まったのであった。
「さあ、最早遠慮は要らぬ、存分にやるが良い、オーネイルよ」
「……本当に良いのですか?」
クレイム伯爵は硬い表情で、皇帝に再度その意志の確認を取る。
「無論じゃ。わしは、皇帝ぞ。優先すべきは、常に国であり民である。それが腐った膿ならば、身内とて潰して出さねばならぬのだ」
皇帝として国家に果たすべき責任は、個人の情愛に優先する。ミルファウスは鋼の意志を瞳と言葉に込めて、クレイム伯爵にそう告げた。
「……承知致しました、陛下。一命を賭しても、このお役目果たさせて頂きます」
皇帝が覚悟を決めている以上、クレイム伯爵にも否は無い。この瞬間から、帝国の汚泥を拭い去る秘密の作戦は、始まったのであった。
「うむ、老いたりといえどもこのミルファウス、呆けてはおらぬぞ。お主の後ろ盾を務めるくらい、どうと言う事もないわ」
そうカラカラと嗤った皇帝は、むくりとベッドの上で上半身を起こした。
そして室内靴を履くと、ベッドから出て部屋の中心へ歩いて行き、両手を天井に向けてぐっと大きく突き出すと背伸びをして息を吐く。
「ぬううんっ! ……しかし『芝居』とはいえ、寝台に寝そべってばかりいるのも、退屈なものよ!」
そのまま老帝は、体操でも始めるみたいに首や腰をぐるぐる回す。その姿はやたらと元気の良い老人のものであり、とても体調を崩した高齢者には見えなかった。
「陛下、ご自重下さい。今は、敵の目を欺いている真っ最中。そのお元気な姿を、他人に見られる訳には参りませんぞ」
そう言って皇帝を窘めたのは、白衣を纏う老人。
ミルファウスの専属侍医を長きに渡って務めて来た、名医のラミレス医師であった。彼は個人的にも皇帝と親しく、身分の垣根を越えれば、二人は四十年来の友人同士でもある。
「判っておるとも、ラミレス。お前がこの芝居に付き合ってくれたからこそ、作戦は上手く行っているのだからな」
「医師としては、仮病に加担するのは気が引けましたがね」
そう言ってラミレス医師は、肩を竦めた。
敵の目を欺く為、皇帝が体調を崩したとの偽情報を流せたのは、名医として高い評価を持つ、彼の協力がものを言ったのだ。
「わはははっ、まだまだ死んでなどやらぬわ。折角、アレイファスとエリーエルが婚約してくれたのだ。曾孫の顔は、ちゃんと見てやらなければならんからのう」
「それは、医師として保証致しますぞ。陛下は、後二十年は生きられる健康体です」
ラミレス医師は、医者として皇帝の健康状態にそう太鼓判を押した。
「うむ、わしも頑張らねばな。ようやくこの日が来てくれたのだ。オーネイルよ、お主も良く承知してくれた。この事でも、礼を言わねばならぬ」
「いえ、全てはあの子の幸せの為であります」
皇帝の感謝の言葉に、クレイム伯爵が一礼し、ラミレス医師も頷いた。
エリーエルをジーネイア皇帝家に入れる事は、皇帝の悲願だった。その事を、クレイム伯爵と、そしてエミーシャの出生の秘密を知るラミレス医師もまた承知していた。
ミルファウスは、エリーエルの母エミーシャには与えられなかったものを、彼女には与えたかったのだ。
「そうじゃ、全てはあの子の幸せの為じゃ。時にオーネイルよ、そのエリーエルの警護はどうなっておる? あの子にまで危害が及ぶとは思えんが、万が一の用心は必要であろう」
「はい、それは問題ありません。あの子には事が終わるまで、屋敷に居て貰います。屋敷は、騎士達で固めておりますので、最悪の場合の襲撃への備えも万全です。それに……」
クレイム伯爵も娘の安全確保には、最も気を使っている。
そこに抜かりは無かった。
「それに、何じゃ?」
「あの子には今、『信頼出来る男』を専属警護に就けております。彼ならば、如何なる危機からも娘を護ってくれる事でしょう」
伯爵は作戦遂行の為ではなく、エリーエルの警護にこそ『最強の駒』を配置しているのであった。
エリーエルは、屋敷の二階の部屋から張り出した、広いバルコニーでお茶を飲んでいた。
この数日、彼女は父親のクレイム伯爵から自宅待機を命じられており、どこにも出かける事が出来ずに、無聊を持て余していた。
しかも、屋敷には騎士の数がやけに多く、いつもより警戒が厳重になっているので、抜け出す事も出来ない。
彼女がアレイファス皇子の婚約者に決定した事は、既に帝都ジーネロンの街中にも、知れ渡ってしまっている。
あの誕生会の後、帝国政府からも正式に発表された事実であり、帝国中にこの事が広まるのは、もう時間の問題だろう。
(お父様も、それを警戒していらっしゃるのね。これからはご自分の娘と言うだけでなく、皇子殿下の婚約者をお預かりしているようなものですもの)
彼女は父の命令をそういう風に理解し、退屈を持て余しつつも、従順に従っているのだった。
そんな彼女を慰める為、アンナはお茶とお菓子を用意し、セディルは下僕として近くに立ち、警護のライガは彼らから見えない位置に待機していた。
セディルは、この国の皇子の婚約者に決まった少女の姿を眺める。
大富豪でもあるクレイム伯爵家では、一族の切り札とも言うべき彼女には、惜しげもなくその富をつぎ込んでいた。
黄金と宝石で出来たような少女は、身に着けている普段着のドレスでさえ、有名な仕立て職人に仕立てさせた一級品。
手袋も、靴下も、下着も、高価な絹素材で作られている。
化粧の必要すらない白い真珠色の肌、整えられた黄金の髪、手に持つティーカップも北のドワーフ王国で作られた高価な磁器だった。
しかしそんな彼女の様子は、いつもと少しも変わらない。
婚約者が決まり、しかもそれは未来の皇帝に最も近い少年。順調にそう成れば、彼女自身も未来の皇后にして国母という事に成る。
普通の貴族の乙女なら、そんな未来に胸を躍らせ、恋心に頬を薔薇色に染めている事だろう。
(でも、我らがお嬢様には、そんな様子が本当に何も無しなんだな~)
セディルは巻き直した包帯の下の顔を、適当に緩ませつつ、そんな事を考えていた。
少なくとも、恋する乙女はそこには居らず、いつものツンと澄ましたエリーエルが、瀟洒な椅子に座っているだけだった。
(お嬢様はファザコン気味だから、本当は頼りになる大人の男あたりが好みなんだろうな~)
気の毒だが、まだ子供のあの皇子様では役者不足。
セディルは声には出せない、そんな感想を胸に抱いた。
「退屈ですわ。平民、何か面白そうなお話はありませんの?」
その時、不意にエリーエルが口を開いた。退屈に耐えられなくなったのか、何でも良いから話をしろと、その蒼い瞳がセディルに言っている。
「面白いお話ですか? うーん……、夢と浪漫の話とか?」
「夢と浪漫? お前が起きたまま見ている、変な夢の話ですの?」
いきなりつまらない話を聞かされたように、彼女の細い片眉が少しピクッと吊り上る。
「は、僕の夢は何と言っても、レベルを上げる事です。折角、職に就いたんだから、目指すのはレベル35以上。行く果ては、『レベル99』の世界最強の冒険者ですね」
面白い話をしろと言われ、自身の大いなる夢を語るセディル。その黒い瞳には、一片の迷いも見られない。
「……そんなにレベルを上げて、何をしますの?」
心底呆れた様子のエリーエルだが、最後まで話を聞く気はあるようで、冷ややかな目で平民の少年を見つつ、続きを促した。
「まあ、レベル上げは副産物みたいなもので、冒険者に成った今は、やりたい事が一杯ありますよ。『地位』とか『名誉』なんてものは僕、全く興味無いんですけど、旅や冒険はしたいし、お金も稼ぎたいし、仲間も集めたい。今は隣国の『ロルドニア』にいる妹も、迎えに行かなくちゃならないですしねっ!」
レベルを1得ただけでも、夢は無限に広がる。少年は少女に、己の行く道を笑顔で堂々と話すのであった。
「冒険者……、お前はそれだけは、昔から変わりませんのね」
「変わりませんよ、僕は世界中を旅して巡って、いつかは世界の果てで『我が生涯に悔い無し』と叫んでから、野垂れ死に出来ればそれで幸せですから」
「……やっぱり、お前は頭がおかしいのですわね。レベル30以上に到った者は、この千年で、二人しかいませんのよ。その英雄達を、お前が超えられる訳がありませんわ」
「僕は超えますよ。そうしたら、いつかお嬢様も、僕にお仕事下さいね」
自らの飛躍を全く疑わないセディルは、いつの日かの仕事の斡旋を、未来の皇妃に求めたのであった。
「ふん、余計退屈に成りましたわ」
彼女の行く道とは、百八十度異なる冒険者の行く道。
未知の場所に旅する事には、少し心惹かれる想いを持つエリーエルだったが、流石にセディルのような冒険者馬鹿には成れない。
彼女の人生の行方は、もう決まってしまっているのだから。
「はぁ……、やっぱり退屈ですわ。本当は、皇宮に皇帝陛下のお見舞いに行きたいのに……」
自宅待機も三日目となると、彼女も本当に退屈らしく、小さな溜め息を吐く。
「僕のお話は?」
「面白くありませんでしたわ」
彼女が語らせた話だったが、どうにも不評だったらしい。
不満げな顔をするセディルだったが、エリーエルの皇帝への言葉に、何かを感じ取る。それは意外な事に、思慕の念のようなものだった。
「お嬢様は、皇帝陛下とお会いした事があるんですか?」
「ええ、ありますわ。幼い頃、お父様やお母様と一緒に宮殿に行き、お会いしたの。その時は、アレイファス様と一緒に、お膝の上に乗せて貰いましたわね……」
セディルと出会う前のさらに幼い日、彼女は皇帝に会い、初めての面識を得ていた。
「本当に、あの頃も今も、陛下はわたくしを孫のように可愛がってくれますわ……」
そう言って、彼女は何気なくその視線を皇宮の方へと向ける。
「ふーん、この国の皇帝陛下は賢帝とか呼ばれる、立派な人らしいけど、お嬢様の前では優しい『お爺さん』だったんですか?」
「陛下に向かって、お爺さんとは不敬ですわよ。でも……、そうね、そんな感じかしら……」
一言セディルの言葉を咎めたエリーエルだったが、その表現自体は否定し切れなかったらしい。
先程彼女から感じた思慕の念が、さらに強まったようにセディルは思う。
だから彼は、さらに一言付け加えた。
「じゃあ、お嬢様が皇子様と結婚すれば、皇帝陛下にとってお嬢様は孫と同じに成るんですね。それなら、喜んで貰えるんじゃないですか?」
「………………」
その問いにエリーエルは答えず、セディルから顔を逸らし、明後日の方向を向く。しかし、機嫌を悪くした様子はなく、その口元はほんの少し緩んでいた。
そんな少年少女の些細な会話を静かに聞きながら、アンナは微笑み、ライガは無言で壁に背を預けるのであった。
そして、日々は穏やかに過ぎ去る。
筈であった。
「あれって、何ですか師匠?」
午後のお茶が終わる頃の屋敷に起こった、その劇的な変化に、セディルも流石に目を丸くしてしまった。
「えっ、何故ですの? 何故、あの者達が、この屋敷に?」
二階のバルコニーから、屋敷を囲う壁の外を見たエリーエルも、自分が目にしているものが信じられない様子で、呆然としていた。
壁の外には、軍旗が立てられ、輝く槍の穂先が無数に光っている。
クレイム伯爵家の屋敷は、突如数百にもなる完全武装した軍勢によって、取り囲まれてしまったのだ。
「お、お嬢様、あ、あの旗印は、確か……」
生まれも育ちも帝都の民であったアンナは、その旗に描かれた紋章に見覚えがあった。その意味を改めて悟り、彼女は戦慄する。
皇帝家が掲げる『竜と聖樹』の紋章に、輝く黄金の剣を足したもの。
その旗を掲げる事を許される軍団は、ジーネボリス帝国にも一隊しか存在しない。
「あれは、『皇帝親衛騎士隊』だな。皇帝直属の最精鋭軍団。帝国の切り札の一つ、と呼ばれている」
ライガもバルコニーに姿を現し、屋敷を取り囲む軍勢を鋭い視線で見つめた。
最精鋭の名に恥じぬ素早い動きで、皇帝親衛騎士隊は、瞬く間に屋敷全体を包囲網の中に閉じ込めてしまった。
「これが襲撃者なの、師匠?」
だとしたら、予想よりも戦力の規模が桁外れだ。
クレイム伯爵の予想では、屋敷が襲撃され、エリーエルを連れ去ろうとする者が現れたとしても、屋敷の騎士達で防戦は可能な筈だった。
しかし今、屋敷を取り囲んでいる軍勢は数百人という規模であり、クレイム家の騎士達でどうにか出来る範囲を完全に超えている。
「いや、あの軍団は皇帝直属の精鋭。皇帝の命令でしか動かない」
クレイム伯爵が全ての情報を教えてくれなかったので、彼らにとっても襲撃予定者は謎だった。
しかしそれが伯爵の政敵だとしたら、少なくとも帝国政府とは関係無く、ましてや皇帝と通じている事はありえない筈だ。
「皇帝の命令でしか動かない軍団が、動いている。それなら皇帝が、クレイム伯爵の敵。という可能性は低いか……」
セディルは先程のお茶会の席で、エリーエルから聞いた、皇帝の話を思い返す。
それらの話が事実ならば、皇帝はクレイム伯爵家に好意的だったらしい。孫の婚約者として、彼女を望んだという話も、伯爵から聞いている。
だとするならば、セディルの脳裏にもう一つの嫌な可能性が浮上する。
「師匠、皇帝直属の軍団が、皇帝の命令無しに独自に動いているとするなら、考えられる状況は、一つだけですよ」
「ああ」
ライガもそれに気付き、その鋭い目に戦闘機械の狂猛な光を灯す。
「ま、待ちなさい、お前達、いったい何の話をしていますの? 皇帝親衛騎士隊が、陛下の勅命無しに動く事など、ありえませんわよっ!?」
エリーエルにとっては、正に青天の霹靂だろう軍勢の出現。それも皇帝直属の最強軍団が、自分の屋敷を包囲しているのだから、混乱するのも当然だろう。
その時、屋敷の正門前に一人の男が立った。
その立派な体格と武装からして、この軍勢の指揮官に他ならない。
彼は、口元に拡声効果を持つ魔道具を近付け、屋敷にいる全ての者達に向けて叫んだ。
「クレイム家の者達に告げるっ!」
魔道具の効果で、数倍に拡大された声は良く通った。
「数時間前、皇宮に於いて皇帝陛下が『殺害』されたっ! 犯人は、クレイム伯オーネイルっ! 既に伯爵は大逆の罪を認め、『自害』したっ!」
指揮官の口から迸ったのは、そのような内容を意味する言葉だった。
「「……え?」」
しかし言葉は聞こえても、その内容が余りに現実離れしていた為に、エリーエルやアンナには、意味のある言葉としては捉えられず、思わず不思議な声を漏らしてしまう。
「我々、皇帝親衛騎士隊は、皇帝陛下殺害に関与した容疑により、クレイム伯爵家令嬢エリーエル・クレイムの身柄を拘束する。大人しく彼女を引き渡せっ!」
そして続く言葉は、ライガとセディルが伯爵から依頼された、万が一の事態と同じ状況を生み出そうとしていた。
二人の冒険者の身に、同時に戦慄が走った。
敵の狙いは、あくまでもエリーエルの確保にあるのだ。
「どうやら伯爵の敵は、こちらが予想してい以上に強大で悪辣だったようだ」
「最悪ですよね、師匠。厄介事に成っちゃいました」
皇帝親衛騎士隊が、皇帝の勅命無しに自らの判断で動く唯一つの理由。
それは、皇帝がもうこの世にいない、という時。
万が一の最悪を想定していたライガとセディルは、それを超える絶望的な事態に対処しなければならなくなったのだ。
この時をもって、幸せの日々は壊れた。




