第三十二話 仮面の男
「では、屋敷の留守を頼んだよ、エリーエル」
「ええ、行ってらっしゃいませ、お父様。お兄様達も、お勤めに励んで下さい」
運命の日となった誕生会の二日後。
エリーエルは皇宮へと出勤する父と兄達を見送りに、屋敷の前庭に来ていた。そこには、二頭立ての馬車が停められている。
「すまないね、エリーエル。私達はこれから何日か、屋敷には帰れないと思う。まあ、色々と処理しなければならない、仕事があってね」
クレイム伯爵は娘との別れを惜しみ、苦笑を浮かべた。
彼の愛娘が皇子の婚約者に選ばれたという事実は、帝国政府からも正式に発表される事に成り、クレイム伯爵の周辺は俄かに騒がしくなっていた。
皇帝の譲位と並行してさらに仕事が増えた事により、伯爵と二人の息子達は、しばらくの間皇宮に泊まり込みで対応に当たる事になったのだ。
「はい、お父様達のお立場は良く理解しておりますわ。御留守の間、お屋敷の事はわたくしにお任せ下さい。このエリーエルが、問題無く取り仕切りますわ」
彼女には、そうした諸々の事情を考慮し、伯爵から自宅待機が命じられていた。
女主人としての自信を漲らせてそう言う娘に、伯爵は少しだけほろ苦いような笑みを浮かべる。
「そうだね、今の君なら任せても大丈夫そうだ。屋敷の方は頼んだよ」
そう言って、彼は娘の後ろで控える三人の男女にも視線を向ける。
そこにいたのは、ライガとセディル、それに使用人の服を着たアンナであった。
「君達には、娘の事を頼みたい。くれぐれも宜しく頼むよ」
いつもの柔らかい伯爵の言葉だが、その意味するところを、ライガとセディルは正確に理解していた。
これから帝都で起こるかも知れない、ちょっとした『騒動』。
それを伯爵が収束させる結果如何によっては、この屋敷が襲撃され、エリーエルが狙われる可能性があるという。
二人は、その万に一つの緊急事態に備えて、この場に呼ばれているのだ。
ライガは無言で頷き、セディルは腰を折って承知しました、と声を出す。
「はい、伯爵様。行ってらっしゃいませ」
何も知らないであろうアンナも、お世話になっている屋敷の主人に明るい声でそう言った。
娘の護衛を密かに依頼した二人の、その落ち着き払った頼もしい様子に、伯爵は娘へのものとは違う笑みを浮かべる。
「うむ、ああそうだ、エリーエル。ついでと言ってはなんなのだが、これを預かっていてくれないかな」
そして伯爵は、エリーエルにそう声を掛けると、自分の一般魔法【大袋】で作り出した見えない場所から、一つの小箱を取り出した。
「何でしょうか、これは?」
受け取ったエリーエルが、手の中の小箱を、細い柳眉を不審げに曲げて蒼い瞳で見つめる。
それは木材と金属で出来た何の変哲も無い小箱で、彼女の片手の上に乗る程度の大きさだった。
「今の仕事に、少しだけ関わる物でね。私が持っているよりも、君に預けて置いた方がより安全だと思うんだ。この数日間、預かっていてくれるだけで良いから、屋敷に戻って来た時、私に返すのだよ」
「?? ……判りましたわ、お父様。お預かり致します」
これが何か良く判らないものの、父親の頼みなら、引き受けない理由が無い。エリーエルは、その小箱を【大袋】の魔法を使って、自分の物入れにしまい込んだ。
「それじゃあ、行って来る。良い子で屋敷に待っていなさい、エリーエル」
「お父様、それは子供に言い聞かせる台詞ですわ。わたくしはもう、淑女ですわよ」
父親の些細な親心に、少しだけ頬を膨らませて可愛い抗議をする娘。
昔から背伸びする性格だったが、今のエリーエルは、自らにさらなる背伸びを課しているのだ。
「はははっ、そうだったね。ではクレイム家の当主として、君を信じよう」
伯爵は娘への笑みを絶やさずにそう言ったが、ライガとセディルは、その目が決して笑っていない事に気付いていた。
彼がこれから赴く場所は、ある意味では『戦場』である。
魑魅魍魎が蠢き、嫉妬と打算、尊大と卑屈が入り混じる、『政治』の舞台と言う名の魔境であった。
そこでの彼の戦いの結果に、この家の行く末と子供達の未来が掛かっているのだから。
「じゃあ、僕達も行くよ」
「頑張って仕事をしてくるよ、エリーエル」
エリーエルの二人の腹違いの兄、シリアルドとエヴンスも、妹に笑顔で出発を告げる。
幼くして母を亡くしたエリーエルだが、彼女には、優しくて頼もしい父親と家族思いの兄達がいた。
友達にも恵まれ、その身を案じてくれる人達も大勢いた。
彼女はその生まれや身分、富などに関係無く、今日までごく普通に幸せな子供として生きて来る事が出来た。
だから、彼女は愛する大事な家族の為に、これから自分も貢献する決意でいるのだった。
「はい、心配はご無用ですわ。わたくしこそが、クレイム家の『守護天使』ですもの」
そう言って微笑むエリーエルの姿は、正に天使そのものであった。
その姿には、見慣れている筈の父と兄ですら魅了され、息を飲まされた。彼女の言葉に偽りは無く、今のエリーエルを見れば、誰もが疑う事無く理解するであろう。
彼女こそが、これからのクレイム伯爵家を、そしてジーネボリス帝国を大いなる繁栄へと導く『偶像』と成るであろう、と。
レイドリオン大陸西方に君臨する三大国の一つ、ジーネボリス帝国の首都ジーネロンは、サドラス湖のほぼ中央に浮かぶニフレイム島に築かれた湖上の都である。
滅亡した『魔法帝国エル・ゲネア』の大都市を再建したこの街は、一千年の時を経て、十数万の人口を抱える大陸屈指の都へと発展を遂げていた。
その島の北部、少し小高い丘の上にこの国を治める皇帝の居城は聳えている。
皇帝家の紋章『竜と聖樹』の旗を掲げる石造りの宮殿は、質実剛健な機能美を備える巨大な建造物であり、帝国の国力を目に見える形で世界に表していた。
この場所こそが、ジーネボリス帝国を動かす紛れも無き中心地。皇帝の下、帝国政府の要人達が日々忙しく働く場であった。
その宮殿では今、二つの話題が大きく取り沙汰されていた。
一つは皇帝の健康不安とそれに伴う、皇太子への譲位。
そしてもう一つが、若き皇子アレイファスの婚約者についてである。
いずれも、この国の行く末を大きく左右する重大関心事であるが故に。
皇宮に出勤して来たクレイム伯爵オーネイルと、その二人の息子達は、宮殿内に入ると同時に大勢の貴族達の視線を一身に浴びる事となった。
既に彼の愛娘エリーエルが、アレイファス皇子の婚約者に決定した事は、誕生会での発表を通じて、貴族社会の隅々にまで知れ渡っている。
元々、貴族家に生まれた天使という超稀少種族である事に加え、皇子本人はおろか、皇帝や皇太子まで彼女を皇帝家に入れる事を望んでいるらしい、との噂は流れていた。
その為、エリーエルがアレイファス皇子の婚約者候補の筆頭だった事は、誰もが承知していた。
しかし、皇子の婚約者を自分の家から出す事は、当然のように多くの貴族が狙っていた。
水面下では熾烈な競争があったのだが、結局、皇子の婚約者は本命であるエリーエルに決まったのであった。
ならば、彼らが次に取るべき一手とは。
「おめでとうございます、クレイム伯。この度のアレイファス皇子殿下とご息女とのご婚約。真に帝国にとっての、慶事でありますなぁ」
派手な服を着た中年の貴族が、満面の笑みを浮かべながらクレイム伯爵に近付いて来た。
未来の宰相にして、皇子の義父にも成る筈の彼に、早速擦り寄って来たのである。
「ええ、ありがとうございます。ベルセール子爵」
魂胆は見え透いているが、伯爵は堂々とした態度で挨拶を返した。
その子爵の挨拶を皮切りに、次々と貴族達がクレイム伯爵達を取り囲んで行く。皆、最大級の幸運を引き当てた彼にあやかろうと、本心はどうあれ、にこやかに話し掛けて来る。
クレイム伯爵と二人の息子達は、流石に慣れた様子で彼らの阿諛追従に対応し、皇宮の大広間には、ちょっとした人だかりが生まれた。
「やあ、オーネイル殿。来ていたんだね」
そして、そんな貴族達の集まりの中に、のんびりとした口調で誰かが声を掛けて来た。
通路の奥から、取り巻きと共に現れた新たな人物。
年の頃は、三十代の半ばくらい。
背の高い金髪碧眼、その顔は端正に整っているが、人の良さそうな柔和な表情と整えられた口髭が目を引く男性だった。
身に着けている服も装飾品も、一見地味だが全ては一級品。
それだけで、彼が高位の貴族である事は誰でも気付くが、その場にいた者達は、全員がその人物の顔と身分を知っていた。
貴族達皆がサッと一歩引き、行儀良く頭を垂れる。
当然のように、クレイム伯爵とその息子達もそれに続いた。
「はい、皇太子殿下。本日から、皇宮での仕事に復帰致します」
「そうか、ゆっくり家で休ませてやれなくて、すまないね。ご息女の件でも、あの子の願いを聞き届けてくれたみたいで、父親としても礼を言うよ」
男性は上品に、それに親しげに伯爵と立ち話を始める。
彼こそが、ジーネボリス帝国皇太子エンドレイス・ケル・ジーネイア。
今年三十六歳に成った彼は、間もなく皇帝からの譲位を受けて、帝国の新たな皇帝として即位する予定のの人物であった。
「いえ、こちらこそ。娘を皇子殿下の婚約者としてお選び頂き、当家としても、これ以上の栄誉はありません」
エリーエルとエンドレイスの嫡男アレイファスとの婚約の一件は、皇帝と共に彼も事前に承認していた。
息子からも、どうしても彼女を婚約者にと、望まれていた父親の身としては、即位の前に肩の荷を一つ下ろして機嫌が良かった。
「うん、これからあなたには、色々と知恵や力を借りる事になると思う。まあ、宜しく頼むよ」
「はっ、臣下として、国家の為、皇帝家の為に、身命を賭して職務に励みましょう」
「ああ、うん、そこまで固くならなくても良いよ。私もそういうの、苦手だからね」
温厚なエンドレイスは、堅苦しく答えるクレイム伯爵に、そう言って鷹揚な笑顔を見せたのだった。
そんな遣り取りを、周囲にいた貴族達は、黙って聞いていた。
皇太子とクレイム伯爵の間の信頼関係を察し、ある者はこれに嫉妬し、ある者はこれからの立ち回りに頭を巡らせる。
いずれにせよ、これからのジーネボリス帝国の運営は、この二人の双肩に掛かる事になる。
今この場で、それを疑う者はいなかった。
「おお、これはこれは、今話題のクレイム伯ではないかな!?」
突然、おどけた調子の声が響き渡る。
宮殿内の大ホールに集まる貴族達の下に、さらに二人の人物が現れたのだ。
一人は、上品で端正ではあるが、どこか退廃的な遊び人のような雰囲気を漂わせる三十代前半の男性。
そしてもう一人は、長身痩躯。
身には飾り気の無い黒衣を纏い、貴族のような華やかさは微塵も無く、どちらかと言えば禁欲的な神官や研究者といった風情の男。
その年齢は、推測し難い。
若いのか、老齢なのか、全く判断が付かないのだ。
その理由は、彼が被っている『仮面』にあった。
男は、顔全体を隠すように、つるりとした『鉄仮面』を被っていた。僅かに目の部分にだけ穴が開き、そこから鋭い光を宿す金色の双眸が覗いている。
「はい、お久し振りです、第二皇子殿下」
クレイム伯爵は端正な顔立ちの男性貴族に、皇太子に対したのと同様、臣下の礼を取った。
「ははは、お久し振りか。そう言えばそうだったよ。あなたも晩餐会や舞踏会に出れば、私ともっと顔を合わせる機会も増えるだろうに」
そう言って笑う男は、皇帝の第二皇子、今年三十三歳に成ったラドラティス・ケル・ジーネイアであった。
彼は皇帝の第二子であり、その皇位継承権は兄のエンドレイス、甥のアレイファスに続く第三位。
多少遊び好きで軽薄なところはあるものの、仕事は出来る男であり、帝国政府内でもキチンとした役職に就き、国内政治の安定に力を揮う人物でもあった。
「ラドラティス、クレイム伯はそれだけ忙しいんだよ。私達親子が、さらに仕事を増やしてしまったからね」
兄はいつもの穏やかな口調で、弟に話し掛けた。
この二人は意外と兄弟仲が良く、国の統治に関しては上手く父を助け、今日までやって来ていた。
「おお、兄上、この度は、アレイファスがクレイム伯のご息女と婚約したそうで。天使の乙女を皇室に迎えられ、これで帝国もこれから先の千年安泰ですなぁ」
両手を広げ、芝居を見せる芸人のように、おどけた調子で、ラドラティスは甥っ子の婚約決定を喜んで見せる。
「クレイム伯も、兄上の『相談役』に成る事が決まったそうですね。帝国の繁栄の為には、喜ばしい限りだ!」
ラドラティスがそう告げると、ホール全体にどよめきが起こり、クレイム伯爵は僅かに顔を歪めた。
娘が皇子の婚約者に成っただけでなく、その父親もまた、次の皇帝の相談役という重要な職責を与えられる。
その事実に、集まっていた貴族達が驚嘆したのだ。
クレイム伯爵家は、その家格を遥かに超える、異例の大出世を遂げる事に成ったのだ。
最早、貴族達がクレイム伯爵を見る目は、嫉み妬みを超えて、大きな羨望へと変わっていた。
「殿下、その事はまだ軽々に広める事ではないかと……」
しかしクレイム伯爵としては、それらの全てを手放しで喜んではいなかった。彼としては寧ろ、他の貴族達の反感を買わないよう、粛々と業務を積み重ねて行きたかったのだ。
「ふふふふっ」
その時、不気味に反響するような男の低い笑い声が、耳の鼓膜よりも頭の中に直接響くかの如く、皆に届いた。
第二皇子とクレイム伯爵に集まっていた皆の視線が、その先、鉄仮面を被った男に降り注ぐ。
「良いではありませんか、クレイム伯。全ては事実だ。あなたは間もなく、新皇帝陛下の相談役にして、新たな皇太子の義父と成られる方だ。謙遜する必要はありませんよ」
仮面を被っているせいだろう、男の声は、奇妙にくぐもって聞こえる。
「あなたはウォルドーズ伯爵、でしたか?」
クレイム伯爵は、声を若干押し殺したような口調で、彼の名を口にした。
仮面の男の名は、ガレッザ・ウォルドーズ。
帝国内に、領地と伯爵位を持つ男だった。
ウォルドーズ家は、帝国でも古い血を伝える由緒ある貴族家だが、彼は二十数年前にその当主と成った人物である。
しかし、その出自に関しては謎の部分も多く、本当にウォルドーズ家の血を引いているのか疑わしい、と噂する者もいる。
かの家は、彼が当主と成る少し前に『人獣』の群れに襲われ、一族郎党が死滅しているからだ。
その後、ガレッザが一族の系譜を主張して、領地と爵位の相続を帝国政府に申し出た。
そして彼は、それを証立てる確かな証拠を提示して見せた。その為、帝国は彼を新たなウォルドーズ伯爵として正式に認める事と成ったのである。
「はい、クレイム伯とはお目に掛かるのは、初めてになりますな。私は、この顔なので、ほとんどこの宮殿には参りませんので、ね」
そう言って、ウォルドーズ伯爵は低い声で笑った。
彼が被る鉄仮面。
それは伊達や酔狂で身に着けている物ではなく、彼にとっては正に実用品であった。
ウォルドーズ伯爵は、『錬金術師』の職に就いている。
錬金術師は、基本職である『魔術師』からの派生職であり、魔術師系魔法を習得するのと同時に、『魔法のポーション』を作り出す職業スキルを有する職でもあった。
その実力は、既に『マスターレベル』を超えているらしく、もう老人と呼ばれるべき歳の筈なのに、肉体的には全く衰えを感じさせない。
唯一点、その顔だけを例外として。
彼は若い頃に魔法薬の調合実験に失敗し、その薬を顔に浴びてしまった、と周囲には語っている。
その結果、顔の肉が腐って溶け落ちてしまい、頭蓋骨が剥き出しの姿と成ってしまった。
強力な魔法薬による影響は深刻な爪痕を残し、高位の僧侶系の回復魔法による『再生治療』を行なっても、その顔を元に戻す事は叶わなかったらしい。
結局、魔法の鉄仮面を被る事で失った顔の補完をし、見ると喋るには不自由しないのだと話している。
そうして、『仮面の伯爵』は誕生したのだった。
「ははは、そんな事は気にしなくても良いのにね。ウォルドーズ伯の深い知識と見識は、政に生かされるべきだと私は思うんだ」
ラドラティスは、ポンポンと気安げに彼の肩を叩いた。
「だから兄上、ウォルドーズ伯には、私の相談役に成って貰う事にしたんだ。これからは、私の仕事を手伝ってくれるそうだよ」
「そうなのかい? それは頼もしいね」
高レベルの知識人が弟の仕事を手伝ってくれると知り、エンドレイスは素直にウォルドーズ伯爵を歓迎した。
彼は善良な男であり、人の意見を良く聞く性格なので、優秀な人材が増える事を純粋に喜んだのだ。
しかしクレイム伯爵は、その話を聞いても無表情を貫いていた。
その目は、じっと仮面の伯爵を注視している。
いつもの温和な伯爵の目ではなく、娘やセディル達に向ける優しさも無い。
それは、『敵』を見る者の目であった。
「クレイム伯」
ウォルドーズ伯爵が、不意にクレイム伯爵に近付いて来た。
その動きは、後衛の魔術師系と云えどもマスターレベルを超えし者。その場の誰もが、認識するのが遅れるような動きだった。
「ご息女エリーエル嬢とアレイファス皇子殿下のご婚約、真におめでたい事だと申し上げまする。これを機に、あなたとも懇意にしたいものですな」
そう言って、彼はクレイム伯爵に右手を差し出した。
クレイム伯爵に、握手を求めているのだ。
伯爵の身体が、一瞬強張った。伯爵は、その手を差し出した男の顔を見る。
当然、その目に映るのは無機質な鉄の仮面。
『顔の無い男』の表情を窺い知る事は、誰にも出来ない。
しかし、仮面から僅かに覗くその金色の双眸にだけは、感情が現れていた。
男の目は、嗤っていた。
その目は、友好や尊敬など微塵も彼に求めてはいなかった。
クレイム伯爵は、その意味を悟る。
それは、『敵』を嘲笑う目なのである。
理解し、ぐっと奥歯を噛み締め、表情を目の前の鉄仮面と同様に引き締めるクレイム伯爵。
「こちらこそ、よしなにウォルドーズ伯」
そう言い、伯爵は右手で彼の手を掴み、握り締める。その左手は、血が出そうになるほど堅く握り締められたままでいた。
互いの、宣戦布告の儀はこれで終わった。
二人は、互い違いに歩み去る。
宮殿の奥へと向かう、クレイム伯爵。
その背を、ウォルドーズ伯爵は仮面の奥から、不気味な双眸でじっと見つめていた。
彼には唇も無いので、『生ける髑髏』と化した仮面の下の表情を変える事は出来ない。
だがもしもそれが出来たとしたら、それをクレイム伯爵が目にする事が出来たとしたら、後の悲劇は結末を変えていたかも知れない。
しかし、仮面はその全てを覆い隠し、残酷な運命の刃は、常のように善なる者の血で濡れる事になるのであった。




