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「折角掃除したのに、やっぱり意味なかったな」
博己がそうこぼしながら、飛び散ったガラスの破片を、箒で掃いて片づけている。台風のため窓が割れたうえに、空いた穴から砂埃が吹きこんで溜まって、床がざらついていた。屋根瓦も飛んでいるし、今度雨が降れば、確実に水がしたたり漏れるだろう。
博己も羽純も律も、靴を履いたまま教室にいる。いままで、自分たちの学び舎に土足であがりこむことはしのびなくて、それぞれ持参した上靴やルームシューズを履いていた。だけどさすがに、上靴のうすっぺらいゴム底じゃ破片を踏んだとき危ない気がした。
「もうここに忍び込むのも限界かもな」
博己がため息をつく。
そもそも、かつて大人たちにこってり絞られたのに、それでもみんなが教室に集っていたのは、ここに律がいたからだ。律の「たましい」の、ようなもの――の、住処となっていたからなのだ。
守りたくとも、朽ちていく。時が流れて、使うもののいなくなった学校は、たんなる木のかたまりと成り果て、自然の摂理にしたがってゆっくりと崩壊していくだけ。
笑里はまだ、来ない。
ようやっと片づけを終えて、三人は机を合わせて紙コップを並べる。棚に置いていたサイフォンも、吹きこんだ風にあおられたのか、床に転がっていた。そっと拾いあげると、まるいガラス底にひびが入っている。
「もう、使えない」
そっと、つぶやく。笑里が持ってきたサイフォン。
「それ、……あたしに」
羽純が律の手からサイフォンを受け取った。
「あたしが持ってちゃだめかな。笑里の」
華奢な肩が沈んでいて、なにか声をかけようにも、うまい言葉が浮かばない。どうしようもないことなのだ。同じ人を好きになったのだから、もう、どうしようもない。
持ってきたジュースを、博己が紙コップに注いでいる。スナック菓子を紙皿に開けた。
「かんぱーい、って気分でもねーな」
博己がちからなく笑ったけど、律はコップのジュースを高々と掲げた。
「かんぱーいって。言ってよ、だれか」
笑ってみせると、博己も羽純も、紙コップを掲げてふちを律のそれと合わせた。紙だから、かちんともこちんとも鳴らない。かんぱい、と羽純が言う。博己も。
今日で最後なんだろうな、と思っていた。この教室に来ること。
もう一度生きることを決めた律を、祝う日であったはずなのに。さよならだけが胸のなかにある。
秘密の隠れ家も。秘密の片思いも。四人の絆、も。
と。
ぱたぱたと、廊下を駆ける足音が聞こえた。空耳かと思ったけど、どんどん近づいてくる。近づいて、止まって、立てつけの悪い引き戸がみしみしと鳴った。
「なにこれ、開かないっ」
声が聞こえる。博己が教室入口まで行って、一気に引き戸をあけた。
「……あ」
その拍子に、笑里の目が、まっすぐに博己の目をとらえた。
「笑里。待ってた」
しずかに博己が告げて、笑里は、うつむいて自分の髪をしきりにさわりながら、律のそばまで来た。
「……律。おかえり」
顔をあげて、もう一度。
「おかえり。律」
にっこりと笑った。やわらかな髪がふんわり揺れて、さわやかな、深緑を思わせるような香りがほのかにひろがる。
「笑里。香水、変えた」
羽純がつぶやいた。
「まあね」
とだけ、笑里はこたえる。羽純のほうは見ない。それでも、笑里の小さな変化に、いち早く気づいてしまうのは羽純なのだ。
ぎこちない会話がぽつぽつと続いて、途切れて。お菓子とジュースばかりが減って、なんだか律は可笑しくなってしまった。恋愛なんてものでこじれて、こんなにぎくしゃくするようになるなんて、現役でこの教室に通ってたころは、想像もしなかった。
黒板に残された「橘小ありがとう」の文字も。先生の残したメッセージも、花のかざりも。褪せてくすんでしまっているけれど。いまより小さくて幼かった四人が、教卓の下から、廊下側の窓から、今にもひょっこりと飛び出してきそうな気がして。
「辛気くさいなあ」
律は声を張り上げた。
「僕のための快気祝いパーティ? なんだろ? みんなもっと楽しそうにしなよ」
普段そんなふうに茶化して淀んだ空気を変えるようなキャラじゃないから。律のせりふはなんだかおおげさにひびいて。
「ぷっ」と。噴き出したのは笑里だ。
「律。棒読み、棒読み」
それで、羽純も笑った。博己も。なんだかよくわからないけどウケた、と、律も笑い声をあげた。
ふと、沈黙が訪れて、羽純も笑里も、博己までもが、うっすらと目に涙を浮かべている。
「律。信じてたよ。ぜったい、ぜったい戻ってくるって」
羽純が目じりに浮かんだ涙をぬぐった。
「待ってた。ずっと」
博己が柄でもなく、しんみりと告げる。
「おかえり」
笑里が、律の手に自分の手を重ねた。あたたかなぬくもり。
「あ。……僕」
胸がいっぱいで息がくるしい。自分だけが、自分のこと――事故で、からだは無事だったのに意識が戻らずに病院で眠ったままでいたこと――を知らずに、でもみんなは知っていて。知っていながら、笑って、懸命に「普段通り」を演じてくれていたのだ。
「ありがとう」
振り絞るように、告げた。いつの間にか、熱い涙が頬を伝っていた。
秋の夕暮れの、透き通ったオレンジが、稲穂を染め上げる帰り道。律は笑里とならんで歩いた。博己は羽純を送っていくだろうから。そんなふたりの寄り添うすがたを見せたくなくて、自分から笑里を送ると言って先にふたりで校舎を出たのだった。
とんぼが飛んでいる。季節はめぐり、春にとなりを歩いていたひとは、もうほかの誰かのもの。
「笑里。ありがとう」
「ん?」
「ほんとうは、来たくなかったんじゃないの?」
遠回りしようよ、と笑里は言った。ほたるを見た、羽純が溺れた、大野川のほとりをゆったりと歩く。せせらぎはやさしく、夕陽を浴びてオレンジ色に輝いていた。
「どうしようもないんだ。自分の気持ちなのに。どうにもならないの」
笑里の髪が風になびく。
「ごめんね。前みたいに四人で笑いたいけど、できそうもない。また、羽純をどこかにつき落としたくなるかもしれない。それが怖いの」
「うん」
「まだ、博己が好きなの」
「……わかるよ」
と、律は言った。律だってそうだ。まだ羽純のことを想っている。
時が過ぎて。この気持ちも、いずれは朽ちてしまえばいい。
だけど、それまでは。
「痛い、よね」
そっと、ことばを置いた。
大人になるまで。大人になってからも。いったいいくつの痛みをやり過ごさなければならないんだろう。
おじさん。
もう、おじさんの声を伝えるラジオはない。自分で捨てたのだ。羽純が拾って教室に置いておいたと言うけれど――きょう見たかぎりでは、どこにもなかった。
――わざわざ傷つくために、もう一度生きるのか。
耳の奥で響く声。これから何度も何度も蘇り、律に問うてくるだろう。
そのとき、自分は。
笑里とわかれて、ひとり家路につく。日は落ちて、たそがれ。やがて星がまたたきはじめて、長い夜がはじまる。
自室の窓をあけて夜の空気を入れた。携帯が鳴る。木原からの返信だった。そっと画面にふれて、くすりと笑む。
カーテンが揺れて。吸い込まれるように空に手を伸ばせば、かがやく星が手のひらに落ちてくるような気がした。
あの日羽純が流れ星にかけた願い。自分も、同じ気持ちだったんだ。
今度こそ、四人で。流れる星の雨を観よう。
――僕はそれまで、願うことをやめない。
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