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姿見に映ったのは、十六歳の、どうにも冴えない自分だった。柔軟剤のかおりのする、ぱりっと糊のきいた制服のカッターシャツに袖を通しても、いまだ「生まれ変わった」実感はわかない。なんせ、「たましい」として廃校舎や高校をさまよっていたときだって、モノにも触れられたしからだの感覚もあった。もっとも、それも、羽純や博己や笑里――律のことが見える仲間たち、の、前だけだったが。というか、それ以外の時間をどこでどうすごしていたのか、記憶がおぼろでよく思い出せない。眠っている「自分」のほうに戻っていたのかもしれないし、幽霊みたいに現れたり消えたりしていたのかもしれない。
先生が届けてくれていたらしい授業のプリント類もきちんとファイルされ、本や漫画のぎっしり詰まった本棚にも、ちりひとつ積もっていない。律の帰りを待って、掃除をしてくれていたのだろう。そう思いながら眺めていると、ふと、木原に借りっぱなしだった漫画が目に入った。
自室のドアの前で母が待っている。ひさびさの登校になるから、母も一緒に来て担任といろいろ話すらしい。退院までの経緯を説明したり、遅れたぶんの授業の補習を特別に受けさせてもらえるというから、その説明をうけたり、お礼をしたり、あいさつをしたり、もろもろだ。
それにしてもあか抜けない。やわらかいくせっ毛は撫でつけてもくるくるとはねるし、色白なのもコンプレックスだし、うすい胸板も、どうにも貧弱な気がして気に入らない。
「律? まだ?」
急かされて我に返る。全教科分のテキストを詰めてぱんぱんに膨らんだ鞄を手に、律は部屋を出た。
母の運転する車に乗って高校へと向かう。窓を開けるとすずやかな風が入り込んでくる。棚田の稲穂はなぎ倒され、それでも黄色く色づき、あぜ道のいたるところに朱い彼岸花が咲いている。
勢力の強い大型台風が、激しい雨と風でもって里山を洗い、空気をまるごと入れ替えてしまった。夏は去り、秋がきたのだ。
「母さん」
「なに」
「海斗おじさんの声、聞いたよ」
「……そう」
母の声はやわらかだった。おじさんがこの世を去るとき、もしかしたら自分のように、執行猶予期間を得てさまよっていたのかもしれないと思った。祖父が、母が、――自分の姉が、泣き叫ぶのを見ていただろうに。結局、逝ってしまった。
母はしずかに話しはじめた。
「海斗を突然失って。母さん臆病になってしまった。律が事故にあって意識をうしなってからもずっと、海斗のことがちらちらよぎって離れなくて。不安で、父さんにあたってしまってばかりだったの」
「……うん」
「海斗が律を連れて行く夢ばかり見ていた。だめな母さんね、律が戻ってくるって、信じてあげられなくて」
役所や商店の集まった中心部へ出て、それから高校のほうへふたたび坂道をのぼりはじめる。
「おじさん、さ。ぼくを助けてくれたんだよ」
――連れて行くと言っていたけど。きっとほんとうはちがうんだ。ぼくの心の底にある願いが目覚めるのを、待っていてくれたんだ。きっと。
「律。……戻って来てくれて、ありがとう」
母の声は、わずかにふるえていた。きまり悪くて黙っていると、すん、と母が鼻をすする音がした。
教室に入った律をまっさきに出迎えたのは、やはり博己だった。人目もはばからず抱き着かれて、犬にするみたいにぐしゃぐしゃと頭をかき回されて――嬉しいんだけどこそばゆいというか、自分より身長の高い博己にちょっと嫉妬をおぼえたりとか。でもやっぱり嬉しさのほうが断然勝っていて、律も博己を抱き返した。
「おいおいーっ。野郎同士で朝からなにやってんだよっ!」
博己の部活仲間の男子がはやしたてて、クラスのみんなが一斉に笑った。
「いいだろっ! 熱い友情の抱擁だっ!」
博己が言い返すと、
「熱い友情とか、恥ずっ」
男子のひとりがむずがゆそうに自分の腕をさすってみせる。
「おまえも混じるか?」
「ぜってーヤダ」
なんていう、ばかばかしいやりとりが続いて。律は可笑しくてたまらなくなって声をあげて笑った
おかえり小柴くん、おかえり、という女子の声がさざめく笑い声にまじって、胸がいっぱいになる。ちょっとだけ照れ臭い顔を隠しながら、自分の席につく。自分のすがたが、ちゃんとみんなにも見えている。それだけじゃない、こんなにあたたかく迎えられた。
だけど。あいつはいない。今日も休みなのか。
退院する少し前だろうか、博己が木原の家をたずねて行ったらしい。怯えていたそうだ。博己に対しても。
「困るな」
頬杖をついて、ひとりごちる。
「困る」
もういちど、つぶやいて、律は携帯を取り出し、木原にメッセージを送った。
――借りっぱなしだった漫画を返したい。そんで、よかったら続きを貸して。
殴ってやりたいとか、問い詰めてやりたいとか。そんなふうに思っていた気持ちは、どこかに消えてしまっていた。それよりも、この光のさざめく教室にあいつがいないことのほうが、気に入らないと思った。
屋上から空を眺めるのも、すっかり馴染みになってしまった。うすい、うろこ状の雲が高い空いっぱいに広がっている。吹き渡る風もはっか飴のようにすずしい。
フェンスのそばにいた羽純が振り返る。
「こんどの土曜日。いつもの小学校に来ること」
そう言いわたして、いたずらっぽく笑う。
「六年教室にて、小柴律おかえりパーティをするよ」
「なんだよパーティって。ガキくさ」
律の背後で、博己の声がする。律を追って屋上まで来ていたのだ。
「全快祝いとか、快気祝いとか、そんな感じだろ」
「えー。おっさんくさい響きー」
「お子様よりまし」
羽純がぶうたれて、博己の前につかつか寄ってきてこぶしをみぞおちに軽く突き立てた。上目使いで博己をにらむ羽純の目にも、ふふんと口の端をあげて羽純のこぶしをつかむ博己の顔にも。いままでとは少し、ちがう色が浮かんでいる。
「つき合ってる? ひょっとして」
律が言うと、羽純は頬を赤くして目をそらし、口をつぐんだ。博己は照れ臭そうに後頭部を掻きながら、「ま、ね」と。だけ、言った。
「クラスのやつらにも、部活のやつらにも、言ってない」
「ふーん」
わかっていたことだけど。羽純が笑里にも博己にも気持ちを告げる決心をしていたこと。博己だって――、溺れた羽純のために濁流に飛び込んで、必死で息を吹き込み続けて――だれが見たって羽純は博己にとって特別なんだってわかる。
覚悟してたのに。すべて飲みこんで「こちら側」を選んだのに。
きりきりと、痛む胸。だけど。そっと胸を手のひらで押さえる。「痛んでいる感覚がある」わけじゃない、ほんとうに痛いのだ。生きて、いるから。
生きて、いる。僕は。
「笑里は……。来るの? 土曜日」
わかんない、と。羽純はさびしげに、告げた。羽純のこういう表情を見ると、つい、抱きしめたい衝動にかられてしまう。だけど羽純は博己しか見ていない。
自分には、できないのだ。告げたくて戻って来たのに、きっと、ずっと、その日は来ない。
「行くよ、僕は。小学校」
律は空を見つめた。手を伸ばしても届かない、遠く高いところにある空を。
次回、ラストです




