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第9話 認識器の窓を

夜になると、俺は写し取った絵図を床に広げた。

ミミの猟犬型の、認識器の線だ。

昼は迷宮前広場で修理屋を続け、夜はこの紙と向き合う。

蝋燭を近づけるたびに、線の意味が一本ずつ分かってくる。

無駄な線が、一本もない。

ギルドの教本の陣が、子どもの落書きに見えてくる。

これを描いた人形師は、天才だ。

それなのに、ギルドでその名を聞いたことがない。

板の裏の隅に刻まれていた紋だけが、名前の代わりのように、絵図の端に写してある。


「いいか、エリス。この猟犬型はな、ふだん、ほとんど何も見ていないんだ」


椅子の上の彼女に、俺は話しかけた。

眠る前に話しかけるのは、起動した日からの決まりだ。


「鼻と感知の窓だけを、薄く、広く開いている。何かいると気づいたときだけ、そっちを見るんだ」


「ピ」


「人だって、そうだろ。物音がしたら、そっちを向く」


「ピ」


「なのに俺は、お前に全部を見せようとした」


見ようとするほど頭が魔力を吸い、脚が痩せる。

しかも目に頼っていたから、水の中のコアを見誤った。

人の形の鼻は小さく、見張りには使えない。

だから彼女には、ふだん、目と耳と感知の三つの窓を、薄く開けさせておく。

感知の窓は、いちばん強い魔力の点を拾うように描き直す。

魔力は、水では曲がらない。

感知が点を示したら、そこで初めて、目を大きく開いて確かめる。


「位置を決めるのは感知で、目は確かめるだけだ。分かるか」


「ピ」


「……分かってないよな」


「ピ」


返事だけは、いつもいい。

その夜のうちに、彼女の頭の蓋を開け、認識器の線を描き直した。




十日ほど修理屋を続けて、ようやく材料が揃った。

目の詰んだ白樺の角材と、新しい鑿。

それから、小さな水晶を二粒。


足を彫り直すのに、まるまる三日かかった。

継ぎ目には、粘体の膜を割いて塗りつけた。

彼女の足を溶かした、あの粘体の膜だ。

最後に、目を替えた。

ガラスの目を外すと、見慣れた顔に、暗い穴が二つ開いた。

手が、止まった。

急いで水晶をはめ込み、うなじの起動陣に魔力を送る。


水晶の奥で、陣の輪が淡く灯った。

その目が、俺のほうを向いた。

首が、ほんの少しだけ傾いだ。


「エリス、十歩、歩いてみろ」


「ピ」


こつ、こつ、と床板が鳴る。

足音の間が、そろっている。

首が、ふらふらと周りを追わない。

膝も、沈まない。

成功だ。

調子に乗って、もうひとつ試した。


「エリス、跳べるか」


「ピ」


ダン。

ドッ。

トン。


跳んだ彼女の頭が天井にぶつかり、それから、きれいに着地した。

すぐに、階下から天井を棒で突く音がした。


「昼間っから何の音だい」


上と下から、同じ天井を叩かれたことになる。

天井板には、小さなへこみが残った。

家主には、黙っておくことにした。




油のランタンと、古着の黒いワンピースとマントを買った。

魔導ランタンも、灰色のワンピースも、マントも、粘体の火で駄目になった。

防具屋では、古い革の脛当てを値切って買った。


それから、武器屋の戸をくぐった。

今度は、俺の武器だ。

粘体は人形と相性が悪く、冒険者が倒すものだと聞いた。

組んでくれる冒険者は、俺にはいない。

なら、俺がやるしかない。

戦ったことは、一度もないが。


弓には腕がいる。

長剣は、狭い通路では振り回せない。

棚の槍の前で、足が止まった。

気がつくと、穂先の継ぎ目を指でなぞり、柄の反りを片目で確かめていた。

父が開き、母が続けた店で、毎日やっていたことだ。


「兄ちゃん、狭間流かい」


店の奥から、髭の店主が、俺の手元の槍を顎で指した。

柄の短い、細長い穂先の槍だ。


「いえ。どこの流派にも入ってません」


「ほう。じゃあ、なんでそいつを選んだ」


「迷宮の天井は低いので。長い柄だと、突く前につかえます。それに、俺の腕じゃ重いのは振れません」


「十字槍は」


「横の刃に魔力を込める槍ですよね。俺には、武器に魔力をどう込めるか分かりません」


店主は、しばらく黙って俺を見ていた。

それから、腹を抱えて笑い出した。


「入門もしてねえ素人が、狭間流の師範と同じことを言いやがる。若えのは、たいてい長剣を欲しがって、自分の脚を斬るってのに」


母も、店先で同じことを言っていた。


「中古の狭間流の短槍だ。銀貨八枚」


これで、潜る支度は整った。

財布の中は、また空になった。




翌朝、彼女を連れて白い塔へ向かった。

フードを深くかぶった彼女を、人形だと気づく者はいなかった。


通路の壁の前で、俺はまた足を止めてしまう。

右から五列目、上から四十二段目。


「ピピ」


隣で、彼女がまた、あの音で鳴いた。


迷宮の階段で、上ってくる冒険者のチームとすれ違った。


「あんなの、誰が助けるんだよ」


「一階層であのざまじゃ、今日死ぬか明日死ぬかの違いだろ」


「にしても、うるせえ犬型だったな。ずっと吠えてやがった」


誰かが、第一階層でしくじったらしい。

他人事ではない。


階段を下りるあいだ、彼女は一度も鳴かなかった。

首も、右へ左へと振れない。

狙いどおりのはずだった。

それなのに、少しだけ物足りなかった。


第一階層での彼女は、前とは別物だった。

壁を走る雷鼠を、体ごと追う。

噛みつかれる前に、短剣が届く。

三匹狩って、一度も噛まれなかった。

新しい脛当ては、傷ひとつ付かないまま、すねの上で揺れている。

買って損をした、と思うくらいだった。


しばらく進むと、見覚えのある形の部屋に出た。

床の真ん中の水たまりが、ずるり、と起き上がる。

粘体だ。

塊の真ん中に、くすんだ小石が浮いている。

刻んである二行は、前と同じだ。

変わったのは、彼女の頭の中の線だけだ。

これで外したら、あとがない。


「エリス、頼む」


俺は槍を構えた。

いざとなったら、彼女を引きずり出す。

今度は、ランタンを投げる前に。


「ピ」


水晶の奥で、陣の輪が、一度だけ強く光った。

彼女の目は、小石より少し奥、少し下で止まっていた。

あの日、俺が叫んでも届かなかった場所だ。

短剣が、まっすぐに伸びた。

ぱきん、と小さな音がした。

粘体が、ただの水のように崩れて、床に広がった。

一撃だった。

構えていた俺の槍は、行き場をなくして宙に浮いていた。

盤を見る。


〈耐久 十割〉

〈刻三 通常攻撃:命中 撃破〉

〈刻三 技能:急所狙い 発現〉


見たことのない行だった。

急所を狙え、などと刻んだ覚えはない。

どこを狙うかは、彼女の頭が決める。

その頭が、狙う場所を、自分で覚えたのだ。


「……すごいな、エリス」


「ピ」


返事は、いつもと同じだった。

ただ、水晶の奥の輪が、いつもより少しだけ長く光っていた気がした。

俺は、残った膜を拾って袋に入れた。




第二階層へ下りる階段が見えてきたころ、犬の吠える声が聞こえた。

ワンッ、ワンッ、と、途切れることなく吠え続けている。

うるせえ犬型。

その吠え声に、聞き覚えがあった。

下町の俺の部屋で、直ったばかりの喉で吠えた声だ。

左手の通路を覗くと、粘体が二体、床を這っていた。

その手前で、継ぎはぎの猟犬型が、脚を踏ん張って吠えている。

粘体の奥に、誰かがうつ伏せに倒れていた。


「エリス、行け」


「ピ」


彼女は駆け出し、天井すれすれに粘体を飛び越えて、倒れている人と粘体のあいだに降りた。

今度は、天井に頭を打たなかった。

守れ、とは刻んでいない。

降りた先が、たまたま粘体の前だっただけだ。

たぶん。

もう一体の粘体が、猟犬型のほうへ這い寄っていく。

俺が、やるしかない。

水の中の石は、見えている場所にはない。

少し奥。

少し下。

さっき、彼女が見せてくれた。


「うわあっ」


情けない声を上げて、俺は穂先を突き出した。

一度目は、水を突いた。

二度目は、床を突いた。

三度目に、穂先が何か硬いものに当たった。

ぱきん。

ほとんど同時に、前方でもう一つ、ぱきんと鳴った。


俺の膝は、まだ笑っていた。

猟犬型が吠えやみ、倒れた人のもとへ駆け寄った。

継ぎはぎだらけの、すり切れたフード。

抱き起こすと、やはり、ミミだった。


「ミミ、しっかりしろ」


「……う、ぅ」


額から、血が流れている。

左脚のブーツが溶けて、その下の肌が赤くただれていた。

俺は、拾った粘体の膜を割いて、額の傷に貼りつけた。

生きているあいだは酸を吐くくせに、死んで残る膜は傷口をふさぐ。

脚には、シャツの袖を破いて巻きつけた。


「エリス、戻るぞ」


「ピ」


ミミを背中に負う。

急いでいるのに、脚が空回りして、ちっとも前に進まない気がした。

上り階段の先を、彼女が歩いていく。

新しい右足で、一段ずつ。

ついこのあいだ、俺はこの階段を、片脚をなくした彼女を背負って上った。

今日は、彼女が先を行く。

背中で、ミミが小さく何かをつぶやいた。


「……カイ、さん」


「しゃべるな。もうすぐだ」


階段の上に、地上の光が見えた。



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