↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/14

第7話 第一階層

迷宮の階段は、思っていたより長かった。

石の段を一段下りるごとに、地上の音が遠くなる。

壁には灯り茸がびっしりと生えていて、通路をぼんやりと緑色に照らしていた。

暗くはない。

けれど、明るくもない。


「ピ」

「ピ」

「ピ」


彼女は、一段下りるたびに鳴いた。

首が右へ、左へ、天井へと動く。

初めて見るものばかりなのだ。

そのたびに、膝がわずかに沈む。

頭に魔力を吸われると、脚が痩せる。

下町の部屋で転び続けた五日間で、嫌というほど知ったことだ。


「エリス、もうすぐ第一階層だ。足元を見ろ」


「ピ」


返事はしても、首は止まらない。


踊り場で、俺は彼女の右手に短剣を握らせ、革紐を手首に巻いて、きつく締めた。

腰の後ろには、魔導ランタン。

手には、行動盤。

刻んである命令は、模擬戦と同じ二つだけだ。


〈敵が攻撃範囲内 → 通常攻撃〉

〈自分の耐久が三割五分未満 → 撤退〉


俺自身は、戦えない。

この盤に刻んだ二行が、俺たちの持っているもののすべてだった。


第一階層に着き、最初の角を曲がった。

通路の奥で、青白い火花が散っていた。

雷鼠だ。

猫ほどの大きさで、背中の毛を逆立てている。

幻ではない。

鼠がこちらに気づき、火花がぱちぱちと強くなる。


俺は一歩下がり、行動盤の起動陣に指を当てた。

盤の上に、彼女の耐久が浮かぶ。

〈耐久 十割〉


「頼むぞ、エリス」


「ピ」


鼠が走り出した。

まっすぐではない。

途中で横に跳び、壁に爪を立て、壁を伝ってこちらへ駆けてくる。

模擬陣の幻は、いつも左から跳んだ。

壁を走る鼠など、棋譜石には記録されていなかった。

彼女の首が、壁を走る鼠を追う。

体は、ついていかない。


彼女はふらふらと五歩ほど進み、そこで止まった。

盤の端に、文字が浮かぶ。


〈刻五 待機〉


また、だ。

考えている暇はなかった。


鼠が壁を蹴り、彼女の首筋めがけて跳んだ。

右腕が上がる。

短剣が、縦に走る。


〈刻七 通常攻撃:命中 威力不足〉


刃は鼠の脇腹をかすめただけだった。

鼠はそのまま、彼女の首に食らいついた。


〈刻八 被弾 雷属性 耐久残り九割〉


彼女が首を大きく振る。

鼠が振りほどかれ、床に落ちた。


落ちた鼠は、跳ね起きるのと同時に、彼女の足首に噛みついた。

その瞬間、バリバリッ、と音が弾けた。

青白い光が、彼女の脛を這い上がる。


〈刻十五 被弾 雷属性 耐久残り七割〉


噛みついたまま、雷を流し込んだのだ。

幻の牙は、木を削らない。

本物の牙は、削る。

彼女の体が、がくんとのけぞった。


「エリス!」


叫んでも、盤の文字は変わらない。


〈刻十七 被弾 雷属性 耐久残り六割〉


鼠は離れない。

足首にかじりついたまま、次の雷を溜めている。

あと二回、雷を喰らったら、撤退の線を割る。


そのとき、彼女の右腕が、頭の上まで大きく振り上がった。

刃先が、真下を向く。

腰が沈む。

短剣が、足首に食らいつく鼠の背を、上から貫いた。


〈刻二十 通常攻撃:命中 撃破〉


青白い火花が、ふっと消えた。

彼女は、しゃがみこんだ姿勢のまま、動かなかった。

短剣の先で、鼠の体が小さく痙攣して、止まった。


俺は、長く息を吐いた。

いつから止めていたのか、分からなかった。


「……よくやった、エリス」


「ピ」


鼠の胸のコアは、短剣が背を貫いたときに、一緒に砕けていた。

小さな魔獣のコアは脆く、戦えばたいてい壊れる。

鼠の口をこじ開け、前歯をナイフで抜いた。

抜いた歯の根元で、まだ小さな火花がちらついている。

雷を溜めておく歯だ。

大きさにもよるが、一匹分を迷宮ギルドに持ち込めば、銅貨三枚から五枚になる。


その場で彼女の魔力を落とし、体を調べた。

足首に、牙の痕が三つ。

その周りの白樺が、焦げたように黒ずんでいる。

背中の蓋を開けると、脛へ下りる銀墨の線が、雷に焼かれて薄くなっていた。

懐の小瓶から銀墨を出し、細い筆で一本、引き直す。


再起動して、盤を見た。

〈耐久 九割八分〉


「よし。この調子でいこう」


「ピ」




それから、雷鼠を三匹狩った。

一匹ごとに、彼女の動きはよくなっていった。

壁を走る鼠にも、少しずつ首と体が追いつくようになる。

三匹目は、一度も噛まれずに仕留めた。


袋の中で、四匹分の歯が、かちかちと鳴る。

あと五匹も狩れば、今日の飯のほかに、中古の革の脛当てくらいは買ってやれるかもしれない。

足首の牙の痕を、これ以上増やさずに済む。

そんな勘定をしていたせいで、気づくのが遅れた。


通路の先が、少し広い部屋になっていた。

床の真ん中に、水が溜まっている。

灯り茸の光を映して緑色に濁った、浅い沼のような水たまりだ。

ただの水だと思った。


「……待て、エリス」


言い終わる前に、水たまりが跳ねた。

ずるり、と湿った音を立てて、水が塊のまま床から起き上がったのだ。

人の頭より一回り大きい、うっすらと緑がかった、水のような塊。

その真ん中に、くすんだ小石のようなものが浮いている。


粘体だ。


ギルドにいたころ、迷宮帰りの冒険者から聞いたことがある。

体は、ほとんど水と酸でできている。

刃は通らない。

倒すには、真ん中のコアを砕くしかない。


彼女の首が、音のほうへ、すっと向いた。

目と耳が、同じ方向を指している。

見えている。


粘体が、床を滑るように寄ってきた。

彼女は踏み込み、短剣を突き出した。

刃先は、まっすぐ塊の真ん中の小石へ向かった。


〈刻四 通常攻撃:命中 無効〉


刃は、小石のすぐ脇を抜けた。

指一本分、外れている。

切った跡が、すぐに閉じる。


粘体はそのまま、彼女の右足にのしかかった。

ジュウ、と音がした。

鼻を刺す、酸っぱい匂いが立ちのぼる。


〈刻六 被弾 酸性 耐久残り九割〉


彼女が、もう一度突く。


〈刻九 通常攻撃:命中 無効〉


また、脇を抜けた。

狙いは合っている。

合っているのに、当たらない。


水に差した棒は、水面で折れ曲がって見える。

水の中の石は、見えている場所にはないのだ。

彼女は、ガラスの目に見えたとおりの場所を、正確に突いている。


「もっと奥だ! 少し下を突け!」


叫んでから、分かっていた。

言葉の命令は、彼女に届かない。

届くのは、この盤に刻んだ二行だけだ。

そして、どこを狙うかを決めるのは盤ではなく、彼女の頭の陣だ。


〈刻十一 被弾 酸性 耐久残り八割〉

〈刻十三 通常攻撃:命中 無効〉


彼女は、同じところを突き続けた。

見えたとおりの、少しだけずれた場所を。

粘体が身じろぎするたびに、水の中の小石が揺らいで、また別の場所に見える。


粘体が、膝まで這い上がってくる。

灰色のワンピースの裾が、酸に食われて縮れていく。

白樺の肌が、泡を吹いて溶けていく。


〈刻十八 被弾 酸性 耐久残り六割〉

〈刻二十二 被弾 酸性 耐久残り五割〉


俺の手の中で、数字がひとつずつ減っていく。

三割五分を割れば、撤退が働く。

働いたところで、逃げられるのか。

右足は、もう塊の中だ。


〈刻二十六 被弾 酸性 耐久残り四割〉

〈刻二十九 被弾 酸性 耐久残り三割〉

〈刻二十九 撤退開始〉


彼女の体が、後ろへ下がろうとした。

右足が、動かない。

左足だけが、床を蹴る。

両腕が、ばたばたと無駄に宙をかく。

上体が大きく傾いても、右足は粘体に噛まれたまま、ついてこない。


「ピピ、ピピ、ピピ」


聞いたことのない速さで、彼女が鳴いた。


〈刻三十二 撤退:失敗〉

〈刻三十三 被弾 酸性 耐久残り二割〉


このままでは、溶かされる。

三年かけて彫った足が。

いや、足だけでは済まない。


俺は腰のランタンをつかんだ。

魔導ランタンの芯には、火のルーン片が入っている。

叩きつければ、火が出る。

粘体は、燃える。

たぶん。

だが、彼女の体は白樺だ。

よく乾いた、よく燃える木だ。


〈刻三十五 被弾 酸性 耐久残り一割五分〉


迷っている時間は、なかった。


「ごめん、エリス!」


ランタンを、粘体めがけて投げつけた。


ガラスの割れる音。

次の瞬間、塊の内側から、橙色の火が膨れ上がった。

粘体が、身をよじるように泡立つ。

水の煮える音が、部屋じゅうに響いた。

炎が塊を舐め、そのまま彼女の太もものあたりまで這い上がった。

ワンピースの裾にも、マントの裾にも、火が移る。


俺は走った。

外套を脱ぎ、燃える裾と足に叩きつける。

何度も。

何度も。

飛び散ったしぶきが手の甲にかかり、焼けるように痛んだ。

構わず、彼女の両脇に腕を差し入れ、力いっぱい後ろへ引いた。

ずるり、と。

右足が、粘体から抜けた。

二人まとめて、床に転がった。


〈刻四十一 撤退完了〉


部屋の真ん中で、粘体が燃えていた。

やがて火は小さくなり、塊はしぼんで、床に黒い染みと、縮れた膜だけを残した。

真ん中の小石は、熱でひびが入っていた。

拾い上げると、指の中で二つに割れた。


灯り茸の緑の光だけが、残った。

手の中の盤に、数字がまだ浮かんでいる。


〈耐久残り一割〉


腕の中の彼女を見た。


右足の、膝から下がなかった。

溶けて、焦げて、膝の真鍮の蓋だけが、黒くすすけて残っていた。

太ももの白樺も、ところどころ泡を吹いたように崩れ、黒く焦げている。

ワンピースもマントも、裾が膝の上で、焼けて縮れていた。


「……ごめんな、エリス」


「ピ」


「俺の不注意だ。勘定に気を取られて、部屋を見ていなかった」


「ピ」


彼女の瞳が、膝から先の何もない場所で、止まっていた。

俺は、焼け残った粘体の膜を拾って、袋に入れた。

粘体の膜は、関節に塗れば滑りがよくなる。

ギルドで教わったことだ。

この足を溶かしたやつで、次の足を直すことになるのかもしれない。


焦げた外套で、膝から先のない右足を包んだ。


「歩けないよな。おぶってやる」


「ピ」


彼女の腕を肩に回し、背中に負う。

第七倉庫から下町の部屋まで背負って歩いた、あの日以来だ。

あのときより、少しだけ軽かった。


雷鼠の火花を避けながら、来た道を戻る。

階段の上に地上の光が見えたとき、俺は初めて、自分の手の甲が赤く腫れ上がっていることに気づいた。


袋の中には、雷鼠の歯が四匹分と、焼け残った粘体の膜がひと切れ。

足一本を彫り直すには、まるで足りなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。