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第6話 地図師エリス

「ピピ」


隣で、彼女がもう一度鳴いた。

首を傾げたまま、ガラスの瞳が、壁の文字の上で止まっている。

俺は、その横顔から目を逸らした。


この名前の持ち主に初めて会った夜のことが、勝手に浮かんできた。

五年前。

俺は十七で、オートマタギルドの見習いになって二年目だった。




見習いの仕事は、先輩職人の雑用だ。

人形には、触らせてもらえない。

工房を片づけ、明日の材料を並べ終えるころには、たいてい夜が更けている。

見習いが自分の腕を磨けるのは、そこから先の時間だけだった。


その夜も、俺は作業台の隅で、木と糸と真鍮でできた手の模型をいじっていた。

人の手の動きを、人形で再現する。

誰にも頼まれていない、俺ひとりの研究だった。


人差し指を曲げる糸を引いたとき、工房の入口の呼び鈴が、けたたましく鳴った。

一度ではない。

二度、三度、四度。

こういう鳴らし方をする客は、たいてい厄介だ。


入口には、鉄製のボア型の手綱を握った若い女が立っていた。

ボア型は右の前脚を浮かせて、三本の脚で踏ん張っている。

革鎧を着て、腰に短剣と、革でできた長い筒を下げている。

冒険者だ。

ただ、手綱を握る手が、指の先までインクの染みだらけだった。


「修理なら、今日はもう受けられません。職人は皆、酒場に行ってます」


女は返事をせず、俺を頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするように眺めた。


「あなた、見習いよね」


「……そうですけど」


「ねえ、見習いくん。この子、直せる?」


女は、ボア型の首を軽く叩いた。


「見習いは、勝手に人形を直しちゃいけない決まりなんです」


「ええ、困ったなあ。二丁先の坂を下ってたら、急に脚がおかしくなっちゃって」


「ああ、あそこは急ですからね。古い人形は、よく下りで前脚を傷めるんです」


「でしょ。明日までにこの子が歩けないと、うちのチームが迷宮に潜れないの。リーダーの子を借りてきたのに、壊しましたなんて言えないし」


「お願いしますっ」


女は両手を頭の上でぱんと合わせ、目をつぶって固まった。

そのまま、動かない。

片目だけが薄く開いて、こちらを窺った。

目が合うと、慌てて閉じた。

このままでは、俺の研究の時間が、まるごと消える。

折れるしかなかった。


「……秘密ですよ。それと、直せる保証はないので、お代はいりません」


「ほんと? ただで?」


女の顔が、ぱっと明るくなった。

花が咲く、というのは、こういう顔のことを言うのだと思った。


「……どうしたの、固まって。早く早く」


「あ、はい。今やります」


工房の床にボア型を伏せさせ、魔力を落としてもらった。

右の前脚を外し、付け根を覗く。

胴と脚をつなぐ軟骨が、斜めにすり減っていた。

下り坂で、前脚にばかり重さを受け続けた減り方だ。


「ねえ、それ、手?」


女が、作業台の隅を覗き込んでいた。

指を半分曲げた、手の模型。

関節ごとに、丸い真鍮の蓋がはまっている。


「人の手の動きを、人形で再現したくて」


「どうして? 人形って、四つ足でしょ」


「人の手にしかできないことも、あるので」


言ってから、少し恥ずかしくなった。

ギルドの職人に言えば、鼻で笑われる答えだ。

女は笑わなかった。


「ふうん」


それだけ言って、模型の指先を、インクだらけの指でつついた。


俺は工房の素材棚から、岩トカゲの軟骨をひとかけ、こっそり拝借した。

削って形を合わせ、付け根にはめ込む。

最後に、木槌で叩きながら、脚と胴の角度を少しずつ詰めた。


「これで、たぶん直ったと思います。起動してみてください」


女がボア型の首筋に手を当てる。

胴の奥で、低い唸りが生まれた。


「走れ」


ボア型は跳ねるように起き上がり、工房の中を一周して、女の足元に戻ってきた。

右の前脚は、もう浮いていなかった。


「わあ、元どおり。ありがとう」


「よかったです。じゃあ、これで」


修理に時間がかかった。

明日に向けて、早く眠らないといけない。


そんな俺の顔を見ないふりをして、女は言った。


「あなた、名前は?」


「……カイです」


「私はエリス。これからもよろしくね」


「いや、次は、ちゃんと職人に頼んでください」


「うん。人形の修理はね」


エリスはそう言って笑い、ボア型の手綱を引いた。


「じゃ、またね」


返事をする前に、一人と一頭は、夜の通りへ飛び出していった。




数日後の夜、また呼び鈴が鳴った。

今度は、一度だけだった。


「こんばんは、カイ」


エリスは、ボア型の手綱のかわりに、麻袋を提げていた。

名前で呼ばれたのは、それが初めてだった。


「この間のお礼。開けてみて」


袋の中には、岩トカゲの軟骨がいくつかと、迷宮蜘蛛の糸の束が入っていた。


「あの手の模型に、使えるかなって」


エリスは斜め上を見ながら、人差し指で頬をかいた。

覚えていてくれたのだ。

工房の隅の、誰にも見向きもされない模型のことを。


「ありがとうございます。でも、これだと貰いすぎです」


「そう? じゃあ、明日は休息日だから、一緒にご飯食べに行ってくれる?」


「えっ」


女の人に誘われたのは、生まれて初めてだった。

自分では分からなかったが、相当おかしな顔をしていたらしい。


「なあに、その顔。私と行くの、そんなに嫌?」


「いや、急だったので、驚いて……じゃあ、明日の朝、下町の噴水広場で」


「うん。迷宮じゃ干し肉と固いパンばっかりだったから、楽しみ。じゃあね」




次の日、俺たちは屋台を端から端まで歩いた。


エリスは、よく食べた。

鎧猪の串焼きを二本、揚げ芋をひと袋、蟻蜜をかけた焼き菓子を三つ。

俺は懐の銅貨を数えながら、串焼きを一本だけ買った。


「カイ、それだけ?」


「見習いの給金は、こんなものですよ」


「じゃあ、半分あげる」


エリスは焼き菓子を割って、大きいほうを俺の手に押しつけた。


噴水の縁に並んで座ると、彼女は腰の革の筒から、丸めた紙を抜き出した。

広げると、細い線が紙いっぱいに走っていた。

通路、分かれ道、段差、水場。

迷宮の、第五階層の地図だった。


「これ、エリスさんが描いたんですか」


「そう。私、探索士なの。罠を外したり、魔獣を先に見つけたり、道を案内したり。で、本業は地図師」


インクの染みの理由が、やっと分かった。


「いつか、迷宮の道を全部、地図にするの。最初の一枚から最後の一枚まで、私の名前で。それが夢」


エリスは、地図の線を指でなぞった。

その指が、通路の行き止まりで止まる。

そこに、小さな手の形が描き込まれていた。


「ここの壁にね、手の形の窪みがあるの。ちょうど、人の手の大きさの。押しても、何も起きないんだけど」


「人の手の形……」


「でしょ。カイの模型ができあがったら、押させてみてよ」


冗談だと分かっていて、俺は少しだけ本気でうなずいた。


それから、いろんな話をした。

エリスは、俺よりひとつ年上だった。

俺と同じで、両親はもういない。


「ねえ、その敬語、やめない? ひとつしか違わないんだし。エリスさん、も禁止」


「……じゃあ、エリス」


「うん。それでいい」


エリスが笑った。

笑うと、目尻が少しだけ下がる。

そのことに気づいたのは、たぶん、この日だった。


それからも、エリスは迷宮で手に入れた素材を、ときどき工房に届けに来た。

そのお返しに、休息日には二人で屋台を回るのが、決まりごとになった。


一年が過ぎたころ、仕上がった模型の指が、エリスの人差し指を、きゅっと握った。


「握った。ねえカイ、今、握ったよ」


エリスは、子どもみたいに声を上げて笑った。

俺も笑った。

あのころの俺は、よく笑っていた。

気がつけば、俺はエリスのことが、どうしようもなく好きになっていた。




出会って、二年が過ぎた。


見習いから職人に上がることが決まった日、俺は、エリスに気持ちを伝えると決めた。

いつものように屋台を回り、別れ際の噴水広場で、俺は切り出した。


「エリス。俺、職人に上がることになったんだ」


「わあ、やったね、カイ。おめでとう。自分の工房に、一歩近づいたね」


「エリスだって。次の深層調査隊、地図係に選ばれたんだろ」


第三次深層調査隊。

三つの商会が合同で組む大きな潜行で、その地図を任されるのは、地図師の誉れだった。


「……うん。でもね、最近は、別の夢もありかなって思ってるんだ」


「別の夢? 何?」


エリスは噴水の水面を見たまま、小さな声で言った。


「……カイの、お嫁さん」


顔に、火がついたかと思った。


「えっと……」


「うそうそ、冗談。本気にしないで」


エリスは、ぱたぱたと手を振った。

沈黙が続いた。

噴水の音だけが、やけに大きく聞こえた。


ここで何も言わなければ、もう一生、こんな機会は回ってこないのでは。

そもそも俺は、今日、それを言うために来たんじゃなかったのか。


「エリス」


「……なに」


「今日、言おうと思ってたことがあるんだ」


エリスが、こちらを向いた。


「俺と、一緒に住んでくれないか」


エリスは、何も言わなかった。

目が、ゆっくりと丸くなった。

それから、その目の縁に、みるみる水が溜まっていった。


「……ずるい。冗談って、言ったのに」


「俺は、冗談じゃない。下町の狭い部屋しか借りられないけど」


「うれしい」


エリスは、手の甲で目元を拭った。

インクの染みが、少しだけ頬に移った。


「じゃあ、調査から帰ってきたら。帰ってきたら、一緒に住もう」


「うん」


「約束だよ」


「約束する」


エリスは笑った。

目尻が下がって、溜まっていた水が、ひと粒こぼれた。




それから二週間後、エリスは第三次深層調査隊の地図係として、迷宮に潜った。


帰ってきたのは、チームのリーダーだったリッチの、ボア型の背中の上だった。

あのボア型は、俺が直した右の前脚で、ボロボロになりながら、彼女を地上まで運んできていた。

その背に乗った彼女の体は小さくなっていた。

布をかけられた彼女を、俺は見た。

見てしまった。

その顔を、俺は覚えていない。

覚えていないことに、した。


だから、俺が三年かけて彫ったのは、あの日の噴水の前で、目尻を下げて笑った顔だ。




「ピ」


呼ばれたような気がして、俺は壁から目を離した。


隣に、古着のマントを着た彼女がいる。


首から下がった銅の札が、通路の灯りを鈍く返し、それが俺に現実を突き付けてくる。


〈カイの一号機〉


下町の狭い部屋は、もう借りてある。

約束の半分だけは、守ったことになるのだろうか。


「……行こうか」


彼女の右手をつかんで歩き出そうとしたとき、関節の奥で、迷宮蜘蛛の糸の腱が、かすかに鳴った。

五年前、エリスが麻袋に詰めて持ってきた、あの糸だ。

木の指が、俺の指を、きゅっと握った。

握れ、とは、誰も命じていない。

人の手にしかできないことも、ある。

五年前、そう言ったのは、俺だった。

俺は、その手を握り返した。


「……行こう、エリス」


俺は通路の先へ歩き出した。

迷宮の入口が、冷たい息を吐いていた。


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