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第4話 模擬戦

一晩じゅう、床板が鳴っていた。

こつ、こつ、と、木の足が床を踏む音。

ときどき止まり、また鳴りだす。


いったん歩けるようになると、人形の覚えは早い。

歩いたぶんだけ、体が覚えていく。

俺は眠るのも忘れて、彼女が部屋を往復するのを見ていた。

窓の前まで歩き、向きを変え、また俺の前まで戻ってくる。

往復するたびに、足音の間隔が、少しずつそろっていった。


明け方、階下から天井を突く音がした。

今度は、謝らなかった。

そのかわり、少しだけ笑った。


朝には、ぎこちなさこそ残るものの、彼女は転ばずに歩けるようになっていた。


眠い目をこすってでも、急がなければならなかった。

金がない。

俺の食い扶持にも、彼女の魔力ポットにも、金がいる。


迷宮に潜って魔獣を狩れば、素材やコアが手に入り、売れば金になる。

第一階層の弱い魔獣でも、一日分の食い物くらいは稼げる。

ただし、それは人形が戦えればの話だ。

俺自身は、戦力にならない。

工房で人形を作り、直すことはできても、まともな戦闘訓練は一度も受けたことがない。


戦わせる前に、揃えなければならないものがあった。


古道具屋の籠の底で、見習い用の棋譜石を見つけた。

中身は、第一階層に出る雷鼠の記録がひとつだけ。

棋譜石の起動に必要なチョークは店のサービスで無料だった。

市場の刃物屋で、刃渡りの短い安物の短剣。

古着屋で、フード付きのマント。

人型の人形だと、ひと目では分からないように。


最後に、行動盤。

人形に戦いの命令を刻むための盤だ。

離れていても、人形が受けた傷や魔力ポットの残りが、数字になって盤の上に浮かぶ。

これだけは、オートマタギルドが市場に出している店でしか手に入らない。


店番の若い男は、俺の顔を見て、ああ、という顔をした。


「人型の、カイさんですよね。追い出されたっていう」


「中古の、いちばん安いのをくれ」


男は何も言わずに、棚の奥から木製の盤を出してきた。

角が欠け、表面の陣も薄れかけている。

それでも、銀貨四枚した。


全部で、銀貨六枚と銅貨三枚。

残りは、銀貨五枚と銅貨二枚。

迷宮ギルドの登録料が、ちょうど銀貨五枚だ。

この子が戦えなければ、それで終わりだった。




部屋の家具を壁際に寄せ、床にチョークで大きな円を描いた。

直径は、大人が両手を広げて二人分。

その縁に、細かな陣を描き込んでいく。


模擬陣だ。

棋譜石に記録された魔獣の動きを、光の幻として再生する。

幻の牙は、人形の体を傷つけない。

受けた打撃は、耐久の目減りとして行動盤に記録されるだけだ。

ギルドの見習いが最初に描かされる、安全な練習場だった。


彼女の右手に短剣を握らせ、革紐で手首に固定した。

関節陣の盤の、腕と肩に効く上の段に、雷、風、土と並べる。

土は、重さと踏ん張りを生む。

風で軽く、雷で速く、土で強く。


それから、行動盤を起動した。

命令を刻もうとして、手が止まった。

「条件と行動」の組が、二つまでしか刻めない。

普通なら安物でも四つは刻めるが、中古の木製だからか。

それとも、命令を受け取る彼女の頭が、木の認識器だからか。


ひとまず、一つ目の枠に刻んだ。


〈敵が攻撃範囲内 → 通常攻撃〉


行動盤の裏には、記録板がついている。

彼女がどの陣を読み、どう動いたかが、時刻とともに文字になって浮かぶ。

ギルドでは「思考の記録」と呼ばれていた。


「エリス。円の中へ」


「ピ」


彼女が、少しふらつきながら円に入る。

俺は棋譜石を、縁の陣の上に置いた。


彼女の正面に、青白い光が浮かび上がった。

猫ほどの大きさの鼠。

背中の毛が逆立ち、ぱちぱちと火花を散らしている。

雷鼠の幻だ。


彼女の首が、鼠のほうを向いた。

瞳が、光を捉えている。

よし、見えている。


鼠が円の縁に沿って走り出し、左から跳んだ。

彼女の右腕が上がり、短剣を横に振る。

刃が、鼠の胴をとらえた。


〈刻十二 通常攻撃:命中 威力不足〉


青白い鼠は少し弾かれただけで、何事もなかったように、彼女の足首に食らいついた。


思わず、腰が浮いた。

幻の牙だ。

木は削れない。

分かっていても、左の頬の白い線が、頭をよぎった。


〈刻二十 被弾 雷属性 耐久残り六割〉


いったん、模擬陣を止めた。


威力不足の理由は、分かっていた。

腕だけで振っているからだ。

体の重さが、何ひとつ刃に乗っていない。

人間が何かを斬るとき、腕だけでは斬らない。

腰を回し、その回転に引っぱられて肩が回り、腕が振られる。


胴と腰に効く真ん中の段に、水、雷、水と並べた。

雷で腰を速く回し、両脇の水で、その回転を止めずに肩へ流す。

「攻撃範囲」も、ほんの少し狭めた。

鼠が跳んだ瞬間に振るのではなく、跳んだ鼠が落ちてくるところを、踏み込んで迎えるために。


二つ目の枠には、撤退を刻んだ。


〈敵が攻撃範囲内 → 通常攻撃〉

〈自分の耐久が三割未満 → 撤退〉


まず斬る。

本当に危なくなったら、逃げる。


二回目は、刃が空を切った。

それでも、斬る前に、足を踏み込むようになった。

三回目は、刃が鼠の背中をかすめたが、そのまま噛まれ続け、撤退が間に合わずに行動不能になった。

四回目は、撤退の条件を四割に上げたら、逃げるのが早すぎて、円の中をぐるぐる回るだけになった。


三割五分にした。

膝に油を差し、手首の革紐を締め直す。


「次で決めような」


「ピ」


俺が話し終えるのを待ってから、彼女は鳴いた。


五回目。

青白い鼠が、円の縁を走る。

彼女の首が、静かにそれを追う。

少し左に傾いで、それでも、ちゃんと立っている。


鼠が、左から跳んだ。

彼女は、すぐには振らなかった。

鼠が宙で弧を描き、落ちてくる。


足を踏み込む。

腰が回る。

腕が――走った。


短剣の刃が、落ちてくる鼠の脇腹を、横から深く薙いだ。

ばちっ、と光が弾ける。


鼠は床に落ちて転がり、跳ね起きて、右から回り込んできた。

彼女の首は、それを追っている。

けれど、体の向き直りが、首に追いつかない。

脛に噛みつかれた。


〈刻三十一 被弾 雷属性 耐久残り六割〉


向き直れ、エリス。

俺は心の中で叫んでいた。


彼女が、ぎこちなく右へ向き直る。

鼠がもう一度、跳ぶ。

彼女は、待った。


だん。

ひねり。

振り。


刃が、今度は鼠の正面から入った。

青白い光が、内側から膨らむように弾けて、細かな粒になって散った。


〈刻三十七 模擬戦 勝利〉


部屋が、静かになった。


彼女は短剣を振り抜いた姿勢のまま、少し傾いで立っていた。

ガラスの瞳が、光の粒の消えた宙を、まだ追っていた。


俺は、声を上げなかった。

拳も握らなかった。

模擬陣の幻は、棋譜石に記録されたとおりにしか動かない。

いつも左から跳び、いつも同じ間合いで回り込む。

匂いもなく、足音もなく、魔力もかすかだ。

本物の雷鼠は、もっと速く、もっと汚く、群れでいることもある。


それでも、勝ちは勝ちだった。


記録板に浮かんだ文字を、上から指でなぞっていく。

被弾。

向き直り。

被弾の少しあとに、一行だけ、見慣れない行があった。


〈刻三十四 待機〉


指が止まった。


行動盤の枠は、二つ。

攻撃と、撤退。

待て、とはどこにも刻んでいない。

鼠が攻撃範囲の外にいるあいだ、彼女は何もしないだけだ。

何もしないことを、行動盤は「待機」とは書かない。

何も、書かないはずだ。


刻三十一で噛まれ、刻三十七で勝った。

そのあいだに、彼女は一度だけ、跳んでくる鼠を見送っている。

落ちてくるのを、待つために。


中古の盤の、ただの誤記かもしれない。

それとも――。


俺は、記録板から顔を上げた。

彼女はまだ、少し傾いだまま、円の真ん中に立っていた。


円の中に入り、手首の革紐をほどいて、短剣を外す。


「よくやったな」


「ピ」


褒めても、腹が減ったと言っても、同じ「ピ」が返ってくる。

分かっている。

分かっていて、もう一度言った。


「よくやったよ、エリス」


「ピ」


古着屋で買ったマントを広げ、彼女の肩に掛けた。

フードを下ろすと、顔が影に沈む。

左の頬の白い線も、見えなくなった。

これなら、人の形をした人形だとは、ひと目では分からない。

少なくとも、ひと目では。


窓の外では、迷宮の入口を抱えた白い塔に、夕陽が差していた。


「明日、ギルドで登録を済ませよう。そして、迷宮に潜ろう」


「ピ」


あの塔の下へ。

ずっと下の、いちばん深いところへ。

そこまで、この子と歩いていく。


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