第3話 転び続ける
俺の人形は、何も知らない。
自分が何なのかも、立ち方も、歩き方も。
四足の人形なら、それで困ることはない。
種類ごとに、認識と体の動かし方を覚え込ませた基盤コアがあって、その中身を新しいコアに写せば、初日から使い物になる。
人型の基盤コアは、この世のどこにもない。
だから、一から教え込むしかない。
起動して二日目の朝、立たせる調整を始めた。
人形の腰の後ろから、関節陣の盤を取り出す。
九つの窪みが三段に並んでいて、上の段は腕と肩に、真ん中は胴と腰に、下の段は脚に効く。
窪みにはめたルーンが、関節を動かす力の質を決める。
ロイにもらった袋から、傷物のルーン片を出した。
まずは、見習いの人形師が最初に習う配置にする。
下の段に、風、雷、風。
風は軽さを、雷は速さを生む。
椅子の前で、彼女の両手を取って引き上げた。
膝が伸び、腰が伸び、彼女は俺の手につかまったまま、ふらふらと立った。
手を離す。
上体が、ゆっくりと前に傾いた。
そして彼女は、両手を床についた。
拳を床につけ、腕を前に出し、脚を引きつける。
床の上を、のそのそと進み始めた。
ゴリラ型の歩き方だった。
認識器を描き移したとき、ゴリラ型の平衡の陣も一緒に移してある。
体の傾きを拾う陣だ。
その陣は、体が前に傾いたら「前脚をつけ」と命じるように描かれていた。
ゴリラ型にとって、腕は前脚なのだ。
「違う。お前は、立って歩くんだ」
「ピ」
また、椅子に座らせてから、手を持って立たせ同じように、手を離す。
しかし、彼女はまた、手をついてゴリラ型の歩き方をした。
四つん這いの人形を作るために、三年かけたんじゃない。
命令では効果がないため、傾いたときに手へ走る線を、頭の陣から切った。
それから、胸のあたりに置かれていた重心を、腰まで下げて描き直した。
もう一度、立たせる。
手を離す。
傾く。
今度は、手が出なかった。
かわりに、右足がわずかに上がった。
だが、足は前に出ないまま同じ場所に下り、膝が折れた。
前のめりに崩れた彼女を、俺が抱きとめた。
――二本脚で立つものは、立っているんじゃない。転び続けているんだ。
バルトロの声が、耳の奥でした。
なら、転ぶより先に、次の足を出し続ければいい。
理屈は、それだけだ。
その、それだけのことが、できなかった。
その日は夜まで、立たせては抱きとめた。
一歩なら、出ることはあった。
二歩目は、一度も出なかった。
何度目かに膝から崩れたとき、彼女の踵が床を打った。
すぐに、階下から天井を棒で突く音がした。
「夜中に何を転がしてんだい」
耳が遠いはずの家主の声だった。
「すみません」
床に向かって謝ると、腕の中で、彼女が「ピ」と鳴いた。
三日目、気づいたことがある。
彼女は、俺を見ているときほど、よく転んだ。
壁を見ているときは、少しのあいだ立っていられる。
俺が声をかけ、彼女の首がこちらを向き、瞳の輪が俺の顔に合った瞬間、膝から力が抜ける。
コアから出た魔力は、首のところで二つに分かれる。
頭へ行く流れと、体へ行く流れだ。
俺は、四つの窓すべてに、たっぷりと魔力を流していた。
せっかく人の形をした頭を作ったのだ。
全部を、ちゃんと見せてやりたかった。
そのぶんだけ、脚が痩せていた。
ゴリラ型なら、四本の手足で体を支えたまま、ものを見ていられる。
二本の脚には、その余裕がない。
見るか、立つか。
窓を絞れば、立てるだろう。
けれど、それでは見えなくなる。
俺を見ようとして転ぶのなら、見るほうを取り上げたくはなかった。
昼過ぎに、魔力ポットが空になった。
市場で、替えを二本買った。
一本、銀貨四枚。
四日目の夜、下の段の配置を変えた。
右の風を外して雷を右に移し、真ん中に水を挟む。
風、水、雷。
水は、力を止めずに流す。
人が歩くときは、前に倒れかかった体を、出した足で受け止める。
受け止めた力を止めずに、次の一歩へ流す。
だから人は、少ない力で歩ける。
脚の力で立たせるのではなく、倒れる力そのものを、次の一歩に使わせる。
それなら、脚に回す魔力は少なくて済む。
そのぶんを、窓に残せる。
五日目の夕方だった。
手を離すと、彼女は前に傾き、右足を出した。
受け止める。
そして、止まらずに、左足が出た。
二歩。
初めて、二歩、続いた。
「……いいぞ」
三歩目の足が、床から浮いた。
そのとき、窓の外で、犬型の人形が吠えた。
彼女の首が、窓のほうを向いた。
魔力が、頭へ吸われる。
三歩目は、出なかった。
彼女の体が、まっすぐ前に倒れていく。
手は、出なかった。
俺が、切ったからだ。
ごつ、という硬い音がした。
抱き起こすと、左の頬に、白い線が走っていた。
頬骨の下から、顎の手前まで。
床板の継ぎ目の、釘の頭に擦れたのだろう。
白樺の肌がささくれて、削れた木の白さが、そこだけむき出しになっている。
彼女は、俺の腕の中で首を傾げた。
「ピ」
痛みは、ない。
人形だから。
分かっていても、指が震えた。
三年のうち、いちばん長く時間をかけたのは、この顔だった。
目尻の角度だけは、最後まで合わなかった。
それでも、ほかの線は全部、記憶のとおりに彫った。
その頬に、俺の陣が、傷を付けた。
本当に直すなら、顔の白樺を削り落とし、新しい木を継いで彫り直すしかない。
目の詰んだ白樺の角材と、膠と、何日もの夜がいる。
そして、彫り直した顔が、もう一度この顔になる保証は、どこにもない。
床に、袋の中身を並べた。
銀貨が十二枚と、銅貨が三枚。
たった五日で、手切れ金の半分以上が消えていた。
迷宮ギルドの登録料も、魔獣と戦うための装備も、まだこれからだというのに。
それでも、市場で紙やすりと膠と、いちばん安いニスを買った。
木粉は、材木屋の店先で、白樺の削りくずをひと握り、ただで分けてもらった。
ささくれを、目の細かい紙やすりで、一本ずつ寝かせる。
木粉を膠で練って、削れた溝に薄く詰める。
乾くのを待って、ニスを、筆で一度だけ引く。
蝋燭の明かりにかざした。
白い線は、ニスの下に沈んで、少しだけ目立たなくなった。
消えは、しなかった。
「ごめんな」
彼女は、俺が言い終えるのを待つように、一拍おいてから鳴いた。
「ピ」
手へ走る線を、元に戻すことは考えなかった。
戻せば、彼女は顔を打たずに済む。
そのかわり、ずっと四つん這いのままだ。
だから、俺が覚えておくしかない。
この傷を付けたのが、迷宮の魔獣ではなく、俺の陣だということを。
その夜、もう一度だけ、立たせた。
窓の鎧戸を閉め、蝋燭を一本だけ残した。
鳴るものも、匂うものも、できるだけ減らした部屋で、彼女の手を離した。
右足。
左足。
右足。
左足。
四歩目で、彼女は俺の正面に来て、止まった。
倒れなかった。
ガラスの瞳が、俺を見上げていた。
左の頬で、ニスの下の白い線が、蝋燭の光を細く返していた。
「……歩けたな、エリス」
「ピ」
気のせいか、彼女が微笑んでいるように見えた。
彫ったときのまま、少しも動くはずのない顔なのに。
いつか、ちゃんと直してやる。
金ができたら、いちばん目の詰んだ白樺で。
この頬を見るたびに、俺はきっと、同じことを思うのだろう。




