第13話 一階層を超えて
ミミが差し出してくれた白湯を飲み終わったころ、俺の気持ちは落ち着いていた。
「……取り乱して悪かったな。もう大丈夫だ。心配するな」
「……カイ様。ミミはカイ様についていきます。深層部に何があるのかわからないけど、ミミは一緒にいきますのでっ」
「……ああ、ありがとう」
場の空気を変えるため、ミミにボロ布と素焼きの小瓶を手渡した。
小瓶には、二階層の入口で倒した粘体から取った粘核液が入っている。
換金のとき、膜だけは売らずに残しておいたものだ。
「……エリスの整備をしてみないか」
「えっ、いいんですか」
「ああ、この液を足の関節部分に塗ってくれ」
「はい。やってみますっ」
床に寝かせた彼女の膝を、ミミが真剣な顔で覗き込んだ。
布に一滴ずつ液を取り、関節の継ぎ目に染み込ませていく。
「継ぎ目に沿って、薄く。それでいい……うまいじゃないか」
ミミの手が止まった。
「ほ、ほんとうですか」
「ああ。初めてとは思えない」
顔は膝に向けたまま、平静を装って手を動かし続けている。
だが、尻尾が正直だった。
ぱたぱたと床を叩いていた錆色の尻尾が、ぶんぶんと横に振れる。
――こつん
尻尾の先が、脇に置いた小瓶を弾いた。
小瓶はころりと転がり、蓋の隙間から、どろどろと液がこぼれた。
「あああっ!」
液が床を伝い、俺が置いていた木片のほうへ流れていく。
彼女の胸から削り取った、酸に焼かれた白樺だ。
「ご、ごめんなさい! 大事なものを……!」
耳がぺたんと伏せ、ミミは慌てて後ろ手に自分の尻尾を押さえつけた。
これ以上悪さをしないように、床に縫い止めるみたいに。
「……いい、触るな」
俺は木片を拾い上げた。
削ってから時間がたっても、木にはまだ酸が残っていて、焦げたような黒ずみがじわじわと広がっていた。
だが、液が触れたところだけ、その黒ずみが止まっていた。
溶けるどころか、白樺がうっすらと飴色に変わっている。
それだけだった。
「……ひょっとすると」
「……カイ様?」
「ミミ。お前の尻尾が今日一番の手柄かもしれないぞ」
伏せていた耳が、ぴくりと立った。
押さえつけた手の下で、尻尾の先が、そろそろと遠慮がちに揺れ始めた。
*
翌朝、釘と革紐、程度の良い刷毛、それに素焼きの小瓶と木の栓を屑屋で安く手に入れ、古着屋で彼女に一番安いシャツとズボン、ブーツを買った。
ミミにも靴をと思ったが、借金返済までこれで良いと固辞された。
次に、ゴミ捨て場で廃材を拾い集めた。
ミミは張り切りすぎて、前が見えないくらい両手に積み上げている。
家に帰り、廃材を膠で固めて釘で打ちつけ、大盾を組み上げた。
裏には折りたためる支え棒を付ける。
地面に突き立てれば、盾が自立する仕掛けだ。
「ミミが塗りますっ」
ミミが刷毛を握り、大盾の表面に粘核液を薄く伸ばしていく。
こぼした分を差し引くと、残りはわずかだ。
ムラなく、一滴も無駄にしないように。
白樺が溶けなかったのだから、この大盾も、酸では溶けないはずだ。
「前回の撤退は、粘体がミミに酸を飛ばしたせいだった。この盾の陰なら、お前は安全に居られる」
「……ミミが、持つんですか」
「ああ。担いでみろ」
ミミが全身の力で盾を引き起こし、なんとか背中に背負う。
後ろ姿は、盾に隠れてまったく見えない。
「……うぅ、重い」
前へ後ろへ、ふらふらと揺れる。
「無理なら言え。縁を削って調整する」
「……大丈夫です」
「なら、もういいぞ」
ミミが盾を床に下ろした瞬間、ドスンッ、と大きな音が響いた。
ドン、ドン。
階下から、棒で天井を突く音がした。
「うるさいよ! 何を倒してるんだい!」
家主の問いかけは聞こえなかったことにして、次の作業に入る。
俺の分も作った。
片手で持てる小ぶりの丸盾だ。
瓶の底に残った粘核液を刷毛でかき集めて塗ると、小瓶は空になった。
右手に槍、左手に盾。
コアを一撃で突けない俺は、酸を浴びる。
その分は、この盾で受ける。
俺の盾ができたころには、ミミは寝床で寝息を立てていた。
「エリス、明日は頼むぞ」
「ピ」
ランタンの灯を消し、床で横になった。
*
次の朝、俺たちは迷宮へ向かった。
迷宮への通路の壁を、なるべく見ないように意識した。
「ピピ」
「……やっぱり……ここを通ると、エリスは変な鳴き方をしますね」
振り向くと、ミミは大盾を担いで、よたよたしている。
「……ああ。それより大丈夫か」
「……大丈夫……ですっ」
一階層を進むと、まもなくロウが低く唸った。
ミミのフードの下で、耳が動く。
「……雷鼠です……二匹……前方にいます……」
「エリス、行けっ」
「ピ」
彼女が静かに走り出し、一匹目の頭に短剣を突き刺す。
飛び退いた二匹目には、蹴りが飛んだ。
天井に叩きつけられた雷鼠の青白い火は、消えていた。
「ミミ。関節を整備した効果が出たな」
「……はい!」
さっきまでペタンコだったミミのフードが、少し立ち上がった。
さらに雷鼠を五匹倒し、二階層への階段口に着いた。
迷宮ギルドの番所で通行料を払い、割符を受け取る。
銅貨三枚。
人形と奴隷は、ただで通れる。
階段を下りてまもなく、ロウがまた唸った。
ミミの肩が、ビクッと跳ねた。
「……カイ様。粘体が……二体です……」
顔は真っ青で、足がガクガクと震えている。
「ミミ。盾だ」
「で、でも……」
「ミミッ、早くしろ!」
ミミがビクッとして、ドスンと大盾を地面に突き立てた。
支え棒を引き出し、固定する。
ミミとロウが盾の後ろに入るのを見て、命令を出す。
「エリス。行け」
「ピ」
俺も彼女のあとを駆ける。
右側の粘体が、彼女に向かって酸を飛ばした。
彼女は難なくよけ、その粘体に短剣を突き刺した。
パキッ
直後、後ろでビシャ、と音がした。
よけた酸が、大盾にかかったのだ。
俺は左側の粘体に盾を向けながら、右手の槍を突き出した。
手応えがない。
槍先は、水を切っただけだった。
水の屈折で、コアは見えている場所にない。
わかっていたのに、外した。
粘体の体が、ぷくりと膨らむ。
「くっ」
とっさに盾を構える。
ジュッ、と煙が上がった。
だが、酸は盾を溶かさなかった。液を塗った表面が、うっすらと変色しただけだ。
「……なるほどな」
屈折の分、狙いを少し下へずらして、もう一度突く。
パキッ
コアを壊すことに成功した。
大盾のほうへ振り向くと、盾の横から、ミミがそろりと首を出していた。
「カイ様っ。成功です!」
ミミは盾の表面を確かめ、大盾が無事なのを見て、ほっと息をついた。
彼女は短剣を引き抜き、何事もなかったように俺の横へ戻ってきた。
粘体の体は、水になって地面に広がっていた。
その中に、核の下に張りついていた薄い膜が、二枚、ぷるんと残っている。
「ミミ。乾く前に包め。破れると中身が漏れる」
「はいっ」
そのときには、いつものミミの顔に戻っていた。
その日は、そのまま粘体を狩り続けた。
ロウが見つける。
ミミが盾の陰に隠れる。
彼女が一体を受け持ち、俺がもう一体を引き受ける。
七体、倒した。
俺の槍は、半分は外れた。
外すたびに、盾が酸を受けて煙を上げた。
それでも、盾は一度も溶けなかった。
*
夜、ミミは膜を裂き、中の粘核液を小瓶に詰めていった。
「浅く入れろ。深いと、ほら、こぼれるぞ」
「は、はいっ」
舌の先を出して注ぐミミの手元は、真剣そのものだった。
七本の小瓶に木の栓をして、膠で封をした。
「明日の納品は、お前が行け」
ミミが顔を上げた。
「えっ……ミミが、ひとりで、ですか」
「道具屋の場所は教えたろう。値段は向こうが言う。先に言うな。足元を見られるな」
「……はい」
返事は小さかった。
店に入るのが怖いからだろう。
翌日、彼女とロウは家に残し、俺はミミの数歩後ろを歩いた。
道具屋の前で、ミミが足を止める。
小瓶を入れた肩掛けカバンの肩紐を握る指が、白くなっていた。
「ミミ。俺は外にいる」
「……はい。行ってきます」
深呼吸をして、扉を押す。
俺は、半開きの窓の下に立った。
中の様子は、声も姿も窓越しに見える。
「あ、あの……」
「あ? なんだ、ガキが」
カウンターの奥で、店主が顔を上げた。
フードで耳を隠した小さな影を、じろりと眺める。
「ここは遊び場じゃねえぞ。浮浪児に売るもんはねえ、出ていけ」
「あの、ミミは……」
「あ、なんだ?」
ミミの肩が、小さく震えた。
俺は窓枠を握りしめた。入ってはいけない。これは、ミミの仕事だ。
ミミはぎゅっと目を閉じた。
それから、襟元の布を、自分の手で引き下げた。
首輪が、見えた。
「ミミは、カイ様の奴隷です。使いで来ました。これを……売りに、来ました」
声は震えていた。
店主の目が、首輪を見て、ミミの顔を見て、カバンに移る。
「……使いの奴隷か。先に言え」
舌打ちをして、小瓶を一本つまみ、封と色を確かめる。
「……ほう。ちゃんと封までしてあるな。粘核液か。七本も。誰が狩った」
「カイ様と、エ……」
ミミは慌てて口をつぐみ、言い直した。
「カイ様と、カイ様の人形です」
「粘体は、狩る奴が少なくてな。酸で装備が傷む。割に合わんと、みんな嫌がる。入ってくるのは、月に二、三本がいいところだ」
店主は帳場から銀貨を取り出して、数えた。
「よし。一本、銀貨一枚。七枚だ。……さっきは悪かったな。次からは、首輪が見えるようにしろ」
「は、はいっ」
扉が開いて、ミミが出てきた。
銀貨の入った巾着を、両手で胸に抱えている。膝が、がくがく笑っていた。
「カイ様……ミミ、できました。ぎ、銀貨、七枚です」
「ああ。見てた。上出来だ」
ミミは目を丸くして、それから、ぷいと下を向いた。
巾着を抱えたまま、マントの裾だけが、ぶんぶんと左右に揺れている。
今度は、何も倒さなかった。
銀貨七枚。
二階層で普通に潜る冒険者の稼ぎは、一日に銀貨三枚から五枚だ。
それを、たった半日の狩りで超えた。
彼女を溶かした相手が、今度は俺たちの稼ぎになる。
皮肉な話だ。
だが、悪くない。
その夜。
「エリス。明日も頼むぞ」
「ピ」
彼女の関節の継ぎ目が、粘核液で、つやつやと光っていた。




