第12話 エリスって誰ですか
翌朝、スープのうまそうな匂いで目が覚めた。
床に寝ころんだまま顔を向けると、ストーブの前でミミが鼻歌まじりに鍋をかき回していた。
「あっ、カイ様。おはようございます」
「……おはよう。腹でも減ったのか」
「ちがいます。カイ様に食べてもらおうと思って」
「無理をするな。飯くらい自分でつくれる」
ミミの三角の耳が、しゅんと垂れた。
言い方が悪かったか。
「早く足を治せという意味だ。……気持ちはうれしい」
「っ、はいっ! これからは、ミミがご飯の支度をしますね!」
耳がぴこぴこと跳ねる。わかりやすい奴だ。
「おはよう、エリス」
「ピ」
椅子に座ったまま、彼女が短く鳴いた。
返ってくるのは、相変わらずこれだけだ。
だが、昨夜、記録板に浮かんでいた〈刻七 守る:ミミ〉の一行が頭から離れない。
彼女は、ミミの名を覚えた。
ならなぜ、俺の名は出てこない?
「カイ様ぁ。聞こえてますか」
「……ああ、すまない。いただこう」
スープの皿を床に並べて、向かい合って朝食をとる。
ミミはまだ足を引きずっている。
休んでいろと言っても聞かないのは、昨日と同じだ。
こういうときだけは、本当の奴隷になってくれないかと思う。
「今日も一階層までだ。いいな」
「はいっ!」
ぱかぱかとブーツを鳴らして、楽しそうに俺の後ろをついてくる。
その横には猟犬型がぴったりと付き、一歩うしろを、彼女がミミを見守るように歩いていた。
迷宮へ続く通路。
名前の壁の前で、俺はいつものように足を緩めた。
「ピピ」
また、彼女が鳴いた。ミミが怪訝そうに振り返る。
俺にも、なぜそう鳴くのかわからない。
*
探索は順調だった。
猟犬型とミミが先に敵を見つけてくれるので、ほとんどが不意打ちで片づく。
雷鼠は六体、あっという間だ。
ミミは投石紐で、夜蝙蝠を見つけるたびに撃ち落とした。
六発六中。
「見ましたか、カイ様! 全部当たりました!」
「……ああ、上出来だ」
「えへへ」
ドヤ顔で胸を張る。
マントからはみ出た尻尾の先が揺れていた。
鼻の穴が大きくなってるぞ、ミミ。
二階層の入口が見えてきたときだった。
猟犬型が低く唸る。
フードの中でミミの耳が動き、次の瞬間、肩がびくりと跳ねた。
「……粘体です」
前方の水たまりが、ずるりとこちらへ動いてくる。
ミミの顔から血の気が引いていた。
無理もない。
足を焼かれたのは、この魔獣のせいだ。
「後ろの曲がり角まで下がってろ」
「……は、はいっ」
ミミが一歩、二歩と下がる。その背に、粘体の中心が向いた。
まずい。
粘体の体がぷくりと膨らむ。酸を飛ばす前触れだ。
槍を構える。間に合わない。
その瞬間、横から白い影が割り込んだ。
彼女が、ミミの前に立っていた。壁のように。
ジュッ。
酸っぱい臭いが鼻を刺す。
彼女の胸のあたりの服が、煙を上げて溶けていく。
また、彼女はミミを守った。
行動盤に、刻んでいない動きで。
「ピ」
短い声とともに、彼女が駆けた。前傾姿勢で滑り込み、短剣を粘体の中心に突き立てる。
パキッ
コアが二つに割れ、粘体は形を失って、ただの水になって地面に広がった。
静寂。
彼女は、地面に腰を下ろしたまま動かない。
駆け寄って、胸を確かめる。
白樺が、酸でえぐれていた。
ミミも猟犬型と一緒に駆けてくる。
「エリスは……エリスは、大丈夫ですか!」
「傷は浅い。だが無理は禁物だ。今日は引き上げよう」
「……ごめんなさい。ミミのせいで、エリスが」
「そんな日もある。帰って直せば済む。気にするな」
ぱかぱかと鳴るブーツの音が、行きより重く聞こえた。
*
魔獣の素材を換金し、白樺の角材とパンを買って家に戻る。
彼女の動力を落として仰向けに寝かせ、まず行動盤を取り出した。
記録板に、今日の最後の行が浮かぶ。
〈刻十二 被弾 酸性 耐久残り七割〉
〈刻十三 守る:ミミ〉
まだ余裕はある。
そして、二度目の「守る」。
やはり、俺は刻んでいない。
盤を袋に戻し、鑿を取った。
「そういえば、ロウの行動盤は?」
ミミは小さく首を振った。
「ありません。父さんが持ってたんですけど……なくなっちゃって」
盤を失っても、人形は最後に刻まれた命令のまま動く。
ただし、書き換えはできない。
ロウが敵を見つけても唸るだけで、決して飛びかからないのは、そのせいか。
攻撃は刻まれていないらしい。
溶けた部分を削り、膠で接ぎ木をする。
境目が目立たないよう、紙やすりで丁寧に仕上げた。
ミミは床に座って、ずっと俺の手元を見ていた。
胸の修理がひと段落したころ、ミミが正座をして言った。
「カイ様。ミミを、弟子にしてください」
「なんだ、急に。奴隷の次は弟子入りか」
軽くいなしたが、ミミの目は引かなかった。
人形師の技術は、並大抵では身につかない。
ギルドで朝から晩まで人形に触れていた俺でさえ、いまだに確信が持てず、手探りで直すことが多いのだ。
「ミミも、カイ様みたいに人形を直したいんです」
「まぁ……あの猟犬型は、継ぎはぎだらけだもんな」
ミミは猟犬型を見て、少し迷ってから、小さな声で言った。
「……ロウ、っていいます。あの子の名前」
手が止まった。
名前を付けた人形は、手放せなくなる。
この国の子どもが、文字より先に教わることだ。
「父さんに、誰にも言うなって言われてました。でも、カイ様には……教えたかったんです」
俺は猟犬型に目をやった。
名前を持つ人形を連れた子どもが、ここにもいた。
「……ロウか。いい名前だな」
ミミの顔が、ぱぁっと明るくなった。
「今まで、ロウが壊れたら父さんが直してました。でも、このままだと、もう直せなくなってしまって」
「俺が直してやる」
「違うんです」
ミミが、まっすぐに俺を見た。
「うまく言えないけど……ロウは、ミミの家で代々大事にしてきた人形なんです。だから、ミミが直さなきゃだめなんです」
手放せない、とは言わなかった。
だが、その目はそう言っていた。
よくわからない理屈だ。
それでも、想いは伝わってくる。
俺には、その気持ちが痛いほどわかった。
「……わかった。途中で投げ出すなよ」
「はいっ! ありがとうございます、お師匠様!」
「次は師匠かよ」
「……なんか、変ですね。やっぱり、カイ様でお願いします」
そう言って、ミミは笑い出した。
つられて、俺も吹き出していた。
こんなに声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
「カイ様。ひとつ、聞いてもいいですか」
「なんだ、さっそく熱心だな」
「エリスさんって、誰なんですか」
息が止まった。
頭の中が真っ白になって、言葉が何も浮かんでこない。
「あっ、ごめんなさい。聞いちゃいけないこと、でしたか……」
「……いや。どうして気になった」
ミミは床に寝かされた彼女に視線を落として、もじもじと指をいじった。
「この子もエリスって名前だし……迷宮の入口の壁の前で、カイ様はいつも歩くのが遅くなるし……この子も、そこだと違う鳴き方をするし。どういう人だったのかなって」
俺はゆっくりと息を吐いた。
「……エリスは、俺にとって、かけがえのない人だった」
「……」
「三年前に深層調査隊の地図係として潜って、帰ってこなかった。帰ってきたのは、布をかぶせられた、小さな……」
言葉が、喉で詰まった。
「違う。あれは、エリスじゃない」
声が震えていた。
「エリスは、あんな終わり方をしていい人間じゃなかった。だから俺は、深層部にたどり着く。もう一度、あの笑顔を取り戻すんだ」
「……カイ様」
ミミが、そっと俺の背に手を添えた。
「落ち着いてください」
自分でも、支離滅裂なことを言っているのはわかっている。
人形を人間にできるなんて、酒場の与太話を信じるほうがどうかしている。
それでも、俺にはもうそれしかないんだ。
肩で息をする俺の背を、ミミはずっとさすってくれた。
だが俺は、床に横たわる人形の顔から、目を離せなかった。




