第11話 人形が覚えた名前
家に戻ると、家主の婆さんを呼び出して、首輪をはめたミミを見せた。
「見てのとおり、ミミは奴隷です。これで家賃は一人分ですよね」
婆さんは、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「ああっ。だが、犬っころは二度とあたしの前に顔を見せるんじゃないよ。とっとと消えなっ」
その夜、ミミは床で寝ると言い張ったが、足が治るまでという約束でベッドに寝かせた。
床に寝転がって、暗い天井を見上げる。
しばらくして、ベッドの上から小さな声がした。
「……カイ様。明日、ギルドで、ミミの登録を消してください」
奴隷は物だ。物は冒険者にはなれない。
首輪をはめただけでは、まだ何も終わっていない。そういうことだ。
俺は、壁際の椅子に座る彼女を見た。
ギルドの名簿には、こいつも俺の持ち物として載っている。
名を付けることも許されない人形が、それでも誰にも取り上げられずにいるのは、俺のものだからだ。
ミミが欲しがっているのは、それと同じものなんだろう。
「……分かった」
返事の代わりに、小さな寝息が聞こえてきた。
明日の朝も、きっと背中が痛くて目が覚めるんだろう。
*
翌朝になっても、ミミはまだ足を引きずっていた。
布を詰めたぶかぶかのブーツが、歩くたびにぱかぱかと鳴る。
家で休んでいろと言ったが聞かず、結局、迷宮ギルドの受付までついてきた。
俺と、人型の彼女と、獣族の子どもと、継ぎはぎだらけの猟犬型。
目立たないはずがない。
広間じゅうの視線が、一斉に突き刺さった。
受付では、いつもの眼鏡の職員が対応してくれた。
「今日は、どのようなご用件でしょうか」
「この子の登録を抹消したい。俺の奴隷になったので」
「承知しました。手続きは、奴隷の主人の方が行うことになっています。奴隷の名前は」
「ミミです」
ミミが答えた。
職員は、顔も上げなかった。
奴隷の声は、ここでは声として扱われない。
「……ミミだ」
代わりに俺が答えると、職員はようやくペンを動かした。
「ミミですね。お調べしますので、少々お待ちください」
広間の誰もが、俺たちを見ている。
待つ時間が、いつもよりずっと長く感じた。
「お待たせいたしました。ミミという冒険者は、犬型を一体登録しておりました。こちらはいかがなさいますか」
「俺の人形として、登録しなおします」
登録用紙の番号欄に、「二号機」と書いた。
種別は犬型。コアは知性系。
「今つけている札をご返却ください。代わりに、こちらの札を」
〈ミミの一号機〉と書かれた札を、猟犬型の首から外す。
猟犬型が、クン、と小さく鳴いた。
〈カイの二号機〉と書かれた札を、新しくかける。
ちらりと、ミミの顔をうかがった。
うつむいた大きな目に、涙がたまっていた。
奴隷になる、と自分で言い出したとはいえ、理屈と気持ちは別物だ。
首輪をつけたときは平気な顔をしていた。
けれど今、形の上だけでも、猟犬型がミミの手を離れた。
こたえないはずがない。
「ミミの冒険者登録は抹消いたしましたので、持ち主のカイ様に銀貨一枚をお返しします。このまま迷宮に潜られますか」
俺は、うつむいたままのミミを見た。
「ミミ。来るか」
「……っ、はい」
「一階層までだ。足が治るまで、それより下には潜らない」
職員に向き直る。
「一階層まで潜ります」
「お気をつけて」
広間を抜けたところで、下を向いて歩くミミに声をかけた。
「札は俺の名前でも、そいつに指示を出すのはお前だ。俺の言うことなんか、聞きやしないからな」
「……はいっ!」
そこからは、しっかり前を向いて歩く、いつものミミがいた。
*
いつものように、迷宮の通路の壁を眺めながら歩く。
「ピピ」
「あれ? エリスの鳴き声、いつもと違いますね、カイ様」
「気にするな。行くぞ」
俺と、三つ。
迷宮の階段を、ゆっくりと降りていく。
背中に、誰かの視線が刺さった気がした。
振り返っても、階段の上には薄暗がりがあるだけだった。
一階層の通路を半ばまで進んだところで、猟犬型がぴたりと足を止めた。
後ろを振り返り、喉の奥で低く唸る。
ミミの耳が、フードの下でぴくりと動いた。
背後から、男たちの笑い声が近づいてくる。
「――あの声」
ミミが俺の袖を強く握りしめ、くいと引いた。
振り返って待ち構えていると、薄暗がりから現れたのは、三人組の冒険者だった。
先頭の大柄な男が、ミミを見て口の端を吊り上げる。
「生きてたんだな、犬っころ」
ミミの肩が、びくりと跳ねた。
「足を焼かれた痩せっぽちなんざ、拾う気もなかったが……ずいぶん小綺麗になったじゃねぇか。そのにいちゃんに尻尾でも振って、施しでも受けたのか」
後ろの男の一人が、にやにやしながらミミを眺め回した。
「よく見りゃ、可愛い顔してるじゃねぇか。獣族好きの物好きになら、そこそこの値で売れそうだぜ」
男たちが、ゆっくりと距離を詰めてくる。
猟犬型が唸る。だが、こいつには噛みつく命令がない。吠えることしかできない。
俺は槍を握り直して、ミミの前に半歩出た。
「首輪が見えないか」
「あぁ?」
「こいつは、俺の奴隷だ」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。
あれほど迷っていたのに、少しも詰まらなかった。
「人の奴隷を盗めば、罪になる。さっきギルドで、広間じゅうが手続きを見てた。こいつに何かあれば、誰の仕業かすぐに分かるぞ」
男はフードの陰に目を凝らし、ミミの首元の首輪に気づいた。
その顔から、笑いが消える。
「……チッ。首輪付きかよ」
男の目が、俺の隣へ移って、わずかに揺れた。
いつの間にか、彼女が俺の隣に立っていた。
ミミを背にかばうように、まるで壁のように。
「……人型なんか連れてやがる。気味の悪い野郎だ」
男は唾を吐き捨てた。
「行くぞ。奴隷盗みなんざ、割に合わねえ」
足音が遠ざかっていく。
通路に静けさが戻ると、ミミの膝から力が抜けた。俺の袖を握ったまま、その場にへたり込む。
「……カイ様。今、ミミのこと、『俺の奴隷だ』って」
「言葉のあやだ」
「はい」
ミミは、涙のにじんだ目で笑った。
俺は、ゆっくりと彼女を見た。
彼女はまだ、ミミの前に立ったまま、男たちの去った闇をじっと見つめている。
*
気を取り直して、一階層の奥へ進んだ。
しばらく行くと、猟犬型がまた足を止めた。今度は唸らない。鼻先を通路の先に向けて、じっと動かない。
「三匹います。水たまりの向こう、右の窪みです」
フードの下で耳をそばだてたまま、ミミが小声で言った。
目を凝らすと、薄闇の中で、青白い火花がちりちりと弾けている。
雷鼠だ。
小さな体に雷を溜め込み、近づく者に浴びせてくる。投石でどうにかなる相手じゃない。
ミミは一人のとき、この光を見たら引き返していたのだという。
「ミミは、ここにいろ。猟犬型と一緒に、動くなよ」
「はい」
先に向こうに気づけたのは大きい。
俺は槍を構え、彼女と左右に分かれて窪みへ回り込んだ。
一匹目が気づいて、毛を逆立てる。
バチッ、と青い光が走る前に、槍の穂先がその胴を縫い止めた。
二匹目が彼女に飛びかかる。
彼女は半歩だけ身を引き、短剣で首の付け根を正確に突いた。急所狙い。迷うそぶりもない。
三匹目の放った雷が、俺の脇の岩を焦がした。
腕の毛が逆立つ。その隙に回り込んだ彼女が、回し蹴りで、小さな体を壁まで吹き飛ばした。
――終わった、と息をついたとき。
頭上で、羽音がした。
「カイ様、上っ!」
天井の暗がりから、夜蝙蝠が一匹、まっすぐ俺の顔めがけて降ってくる。
槍を引き戻すより早く、ひゅん、と風を切る音がした。
ごつっ。
鈍い音とともに、夜蝙蝠が足元に落ちた。
振り返ると、ミミが投石紐を手に、肩で息をしていた。
「……小さいのなら、倒せるって言いましたよね」
ちょっとだけ得意げだった。
「ああ。助かった」
夜蝙蝠の羽なんて、一枚で銅貨一枚にしかならない。
それでも、さっきまでうつむいていた顔に、ようやく色が戻っていた。
*
俺は小刀で、倒した雷鼠の歯を抜いていった。
夜蝙蝠の羽をもぎ終えたミミが、じっと俺の手元を見ている。
「カイ様、歯の抜き方を教えてください」
二匹目の雷鼠のあごをつかんで、刃を入れるところを見せた。
「歯の根元には、まだ雷が残ってるから、そこに刃が当たると痺れる。こうやって、歯茎のほうに刃を入れるんだ。やってみろ」
壁際に転がっている三匹目を、ミミに任せた。
初めてのわりに、きれいに歯を抜いている。
「うまいじゃないか。これからは、ミミに任せる」
「ありがとうございますっ」
誇らしげな顔だった。
その日は結局、雷鼠を六匹、夜蝙蝠を二匹仕留めた。
歯が六本、羽が四枚。
歯一本で銅貨五枚、羽一枚で銅貨一枚。
銀貨三枚と銅貨四枚。ミミが一人では、決して手にできなかった額だ。
素材を見つめるミミの目は、どこか眩しそうだった。
*
その夜。
ミミが寝息を立てはじめたのを確かめてから、俺は腰の袋から、彼女の行動盤を取り出した。
毎晩の点検だ。
表には、枠が二つ。
〈敵が攻撃範囲内 → 通常攻撃〉
〈自分の耐久が三割五分未満 → 撤退〉
中古の木の盤に刻めるのは、これで精一杯だ。
裏返す。
記録板には、今日の戦いで彼女が読んだ命令と、その結果が浮かんでいる。
〈刻十 通常攻撃:命中〉
〈刻九 通常攻撃:命中 技能・急所狙い〉
〈刻九 通常攻撃:命中〉
〈刻八 通常攻撃:命中〉
〈刻八 通常攻撃:命中 技能・急所狙い〉
新しい順に指でなぞりながら、今日の戦いを思い返す。
悪くない動きだった。
一番古い行で、指が止まった。
〈刻七 守る:ミミ〉
刻七。
あの男たちと向き合っていた時刻だ。
もう一度、盤を表に返す。
枠は二つ。攻撃と、撤退。
「守る」なんて命令は、どこにもない。
そもそも俺は、彼女に人の名を教えたことすらない。
粘体からミミをかばったあの日にも、刻んでいない行が浮かんだ。
だが、そこに名前はなかった。
熱にうなされるミミの手を握っていた、冷たい手。
ベッドの脇で、じっとミミを見ていた横顔。
男たちとミミのあいだに、壁のように立った背中。
全部、ミミのそばにいた。
そしてずっと、聞いていたのだ。俺が呼ぶ、その名を。
盤を袋に戻して、彼女の顔を見た。
彼女は椅子に座ったまま、ベッドの上の小さな寝顔を、じっと見つめていた。
人形が、人の名を覚えた。




