奴国
翌日になっても日豊本線は復活せず。
駅周辺をさまよいながら情報を集めていると、博多行きの高速バスに一席だけ空きがありました。
これは据え膳。
宮崎、大分は諦め、博多へ行きます。
博多は弥生時代、一支国(壱岐の島)や奴国(福岡市内)のあった場所。
まずは壱岐の島に行くため、港へ向かいます。8時のフェリーに乗れば昼過ぎには帰って来れるはず。
と思っていたのですが、台風で欠航。10時発の便はありますが、それだと向こうで泊まることになります。島のホテルってクソ高いんですよね、ネカフェもないですし。
一支国は諦め、奴国へ行きます。
観光マップを見て行った気になりましょう
奴国の遺跡はいくつかありますが、今回は須玖岡本遺跡へ行きます。
港から出ているバスに乗車。博多駅を通過し、南下します。ひさびざに都会の景色。
住宅街のただなかに看板がありました。
住宅街から外れたところに丘。目的地です。
右手の丘が歴史公園、左手は実際に出土した地域
周辺図
遺跡内に青銅器の工房があります。
当時、日本に銅鉱石を還元する技術はありません。原材料は朝鮮半島から輸入していました。
国内では幅広銅剣や草葉文鏡など、儀礼用の青銅器が造られます。
幅広銅剣は九州の広域と、四国の一部で祭祀に用いられました。
2世紀になると、山陰地方では四隅突出型墳丘墓が、近畿と東海では銅鐸を用いた祭祀が発達。地域内での結束を固めます。
地域内での結束は、地域間での断絶を強調することにもつながります。
経済面も見てみましょう。
日本海側では対馬海流を利用した交易が盛んで、玄界灘を発し、山陰、北陸を結んでいました。仮に日本海地域とでも呼びましょう。
日本海地域では経済上の利権争いが激化、日本初の戦争の痕跡が出土しています。北陸では防御に秀でた高地性集落も多くつくられました。
漢委奴国王印の出土からもわかるように、奴国は漢を後ろ盾とし、列島内でも権威を持っていました。
2世紀末、漢が衰退すると島内の秩序も揺らぎます。祭祀様式ごとの分裂や日本海地域の経済紛争とも結びつき、倭国大乱が発生。
倭国大乱終結後も玄界灘は強い力を持っていましたが、一強ではありませんでした。大和が台頭したからです。
その後、筑紫では有明海に面した磐井一族が強勢となったことは先述の通りです。




