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隼人

挿絵(By みてみん)

 日豊本線、wikiより引用


 ここから先は日豊本線に乗って宮崎、大分を経由して福岡まで行きたかったのですが、台風が直撃。宮崎までの陸路が閉鎖されました。

 さすがに宮崎まで走るのは花海咲季でも無理です。移動は延期しましょう。


 駅周辺でふらふらしていると、市内の名所を一周するバスがありました(250円)。乗ってみましょう。

 車内放送では明治維新、島津藩、西南戦争といった単語が流れます。最近の話題ばかりでテンションがあがりません。

 窓から景色を眺めていると、県立図書館がありました。なんかいい本あるかもしれません。降車します。


挿絵(By みてみん)


 塚崎古墳や隼人などの資料があればと探してみた結果、「律令制と支配構造」という論文集を発見しました。

 特に興味深い論文は二つ。「毛人と蝦夷」、「古代国家の「辺境島嶼」支配とその変遷」


 内容にいく前に、隼人についの概要をば。


 隼人、九州南部にいたとされ、古代の異民族として蝦夷と並べられることが多い存在です。

 ただ、実態については疑義が多く、中華思想の影響下で生まれたフィクションとの説も有力です。

~

 隼人は九州南部の民族や文化をもとに生み出されたものではなく、律令体制の整備に伴って、天武朝に中華思想を実体化する装置・異民族として政治的に生み出されたものと理解されている。九州南部の人びとが遡及的に隼人として記述されることはあっても、そもそも古墳時代に隼人は存在しないのである

~ 季刊 考古学162号より引用


「毛人と蝦夷」では、隼人と蝦夷について、より詳しく研究しています。


~

 7世紀後半以降、ヤマト政権は天皇を頂点とする中華思想が形成され、化外(天皇の統治権の及ばない地域、朝鮮半島と国内の夷狄)と化内(朝廷の支配地域)の区別が生じた。天皇は化外に対しても威光を及ぼすとされた。

 化外とされた人々の記述は朝廷による脚色を受けている。しかし、脚色があることと完全な架空であることは違う。化外とされた人々は、その設定に先立つ前史を持っている。

 7世紀以前、蝦夷は毛人と表記されていた。化外の概念が生まれて以降は蝦夷と表記されるが、それ以前から実在する毛人を継承している。

 対して隼人は先行する集団の名称は知られていない。

~ 「毛人と蝦夷」より要約


 続いて「古代国家の「辺境島嶼」支配とその変遷」より。

 ここではまず、ヤマト政権の勢力範囲について説明。


~

 壱岐、対馬では古墳時代からヤマト政権との結びつきが窺えるのに対し、大隅諸島(種子島、屋久島)は勢力圏外であった。

 大隅諸島との通交記事は616年が初出。漂着などの形で接触を持ち、舒明天皇(6世紀前半)使節も派遣した。

 690年には「異民族」支配が目指され、武力的な探索も行われている。

~「古代国家の「辺境島嶼」支配とその変遷」より抜粋・要約


 また、当時の国境の概念について


~

 白村江の戦いの後、対馬に金田城が築かれる。金田城の兵力は100程度。この人数で対馬を防衛するのは不可能なので、監視が任務だったのだろう。

 白村江の戦いの後に筑紫が国防の場となり、大宰府が整備されて国境線の考え方が確立したという見解がある。しかし、対馬の防衛意思が弱いことから、国防の焦点はあくまで筑紫にあったと思われる。

~「古代国家の「辺境島嶼」支配とその変遷」より要約


 また、隼人の実態に迫るうえで、明治のアイヌの状態も参考になります。


~

 19世紀末、明治天皇が函館を巡幸した際、アイヌの人々が集められた。

 当時、函館周辺のアイヌは和人と雑居しており、言語もアイヌ語と日本語のバイリンガルだった。

 そのため、北海道開拓使はわざわざ遠方のアイヌ村落から人を集め、伝統的な衣装を着ることも命じていた。

~「写真が語るアイヌの近代」 大石拓 (新泉社)より要約


 これらの資料から、当時の隼人について推し量ると以下のようになるでしょう。


 6世紀、磐井の乱を鎮圧後、九州は大和の支配下となる。

 ただし、現代の領域国家のように面を支配していたわけではなく、豪族の拠点を結んだ、点と線の支配だった。

 南九州の資料は乏しいが、特筆すべき反対勢力もいなかったのだろう。また、対馬、屋久島、種子島は自領としての認識もないか、あっても薄かった。


 701年、大宝律令発布。公地公民により、名目上は領域国家となり、被支配階級の人々も戸籍に登録された。

 このとき、南九州の一部の人たちは「隼人」という設定のもとに朝貢を命じられた。中華思想の演出装置としてである。


 南九州は5世紀から古墳を造営しており、夷狄としての実態はなかっただろう。

 ここで思い出して欲しいのは、薩摩国分寺の説明。聖武天皇の勅命は50年後に実行されている。

 九州南部に反対勢力がいたわけではない。ただし、朝廷の影響力は弱く、情報伝達も遅い。夷狄と認識することに抵抗は少なかっただろう。

 そして、明治以降のアイヌの人々のように、異民族らしく振舞うような圧力が働くことで、夷狄としての「隼人」像が再生産され、増強されていったのではないだろうか。

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