ep.2 彼女は、掃除する _ 休暇明け
隣人が目を覚ます、一時間前。キュルヴィ協会の寄宿舎に身を寄せる女の運び屋、ハイン・リッヒは、早朝から動き出していた。いつもならまだ寝ている時間なのだが、彼女は日頃の不精を解消すべく、まだ日が昇らない内に目を覚ました。
日頃の不精とは、言わずもがな。かなりの間、掃除をしていなかった自身の部屋のことだ。部屋の四隅には、丸々とした灰色の毛玉が、でんと構えている。更には、目覚ましに顔を洗う時に洗面台を見てみたが、酷いものだった。蛇口のバルブは汚れ、目の前の鏡に水垢が囲うようにしてできていた。目につく汚れは、その日一日の気分がげんなりして台無しになる。
そそくさと着替えを済ませて、オフホワイトの長袖にぴっちりとしたパンツとヒールの低いブーツを穿く。作業の邪魔になるので、普段羽織っているロングコートはベッドの上に置いた。
ベッドの下や、キャビネットと壁の間のせせこましい隙間と、長期間使用してない机と椅子には埃が積もっていた。ゴミが溜まりそうな細かい所に目を光らせ、高いところにある埃ははたきで落とし、落ちた埃を箒で掃き出していく。
そうすること、数十分後。部屋の扉の前には、高さにして三〜四cmほどの塵埃の山が集まった。ハインは、目から下半分を覆い隠していた布を指で引き下げると、疲れたように零す。
「部屋は、とりあえずこんなもんかしら……」
そう言って、次に扉を開けたままのユニットバスを覗き込んだ。じとっと目を細めて、神妙な面持ちを浮かべる。
(うーん……、ここは時間がかかりそうね)
それから、さっとユニットバスから顔を引っ込めると、今度は目を瞑り、腹に手を当てて、何かを考え始める。
「……お腹の空き具合からして、朝の八時、てところかしら」
どういった原理で計っているのかは一切不明で不可思議だが、確かなことは、彼女の腹時計はかなりの精度を誇っているということだ。
それはともかくとして、ハインには時間以外にももう一つ気になることがある。
そのまま視線だけを動かして、部屋の壁を見た。実際は壁ではなく、その向こう側にある部屋――隣人のことが気になった。耳を澄ませてみると、足音や何かを動かしている物音など、気配を感じ取れる。くぐもった足音は、やがて壁から遠ざかっていった。
(起こしちゃったかな……)
元々質素な部屋造りのせいか、寄宿舎の壁は薄い。
掃除をしている物音で、隣人の男が目を覚ましたものかもしれない。そんな予測もできたが、申し訳なく思う気持ちを抱えたまま、彼女は次の作業に取り掛かった。
次にユニットバスに籠り、掃除ブラシで蛇口周りの汚れを擦っていた。しばらくそうしていると、前屈みで辛くなった腰を持ち上げる。「ふー…」と息を吐きながら、笑顔を浮かべた。
蛇口周りにあった黒カビはすっかり落ちて、シンクは、本来の白磁の輝きを取り戻した。美しい艶を放つ洗面台は、まるで新品同様だ。更に鏡も念入りに磨き、これもまた一点の曇りもない仕上がりとなっている。綺麗になったことで光を反射し明るくなったユニットバス内からは、つるん、ぴか、といった擬音が聞こえてきそうだった。
ようやく掃除が終え、一段落つく。手袋を外し、持っていたブラシと一緒に空のバケツの中へと放り込んだ。
あとは、部屋の扉前にある塵埃の山を麻袋の中に片づける。箒で箕の中にゴミを掃き入れて、綺麗に取り除くと、それを麻袋の中に入れた。そのまま麻袋の口を縛ると、その上から膝を押し当て、少し空気を抜いて嵩を減らした。
それを終えたハインは、ロングコートを取りにベッドへと向かう。すると、コンコン、と彼女の部屋の扉を来客を告げるノックが聞こえた。
「はーい、」
手に取ったロングコートを手早く羽織り、襟元に入り込んだ漆のような艶やかな黒髪を手の甲で払い上げながら、扉の前に向かった。
足元にあるゴミの入った麻袋を持って、部屋の扉の前に立つ。
「もう準備出来たのかしら…?アイツから来るなんて珍しいこともあるのね……」
隣人が訪れたのだろうと適当に予想して、ハインは独りごちると部屋の扉を開けた。






