挨拶と魔術と逃亡と
「……よ、かった……。」
魔狼たちが完全に沈黙した森に、木の葉の擦れ合う音に紛れて、小さく掠れた声が漏れた。
ぼろぼろと涙をこぼすシスターは、全身を汗と土で汚し、震える手で自身の修道着を握りしめていた。
顔色が悪い。よほど無理をしたのだろう。呼吸も浅く、不規則だった。
「……よかったぁ……。」
一歩踏み出そうとした、その瞬間。
ぐらり、と華奢な体が傾いた。
倒れかけたその体を、先ほどまで大剣を振るっていた太い腕が咄嗟に支える。
「あ、あれ……あれぇ? た、立てない……?」
呂律が怪しい。
メアリーは「あれ? あれ?」と繰り返しながら、焦点の定まらない目で不思議そうにしていた。
地面に座り込んだままのアーサーは、そんな痛々しい姿を見て、思わず視線を逸らしてしまった。
今回の危機を乗り切れたのは、間違いなく彼女のおかげだった。
危険な目に遭っている子供を放っておけない。
その考え自体が甘かったのだろうか。
自分には力がない。それなのに、もし本当に魔獣が現れたら、そのときどうするつもりだったのか。
そこまで考えが及んでいなかった。
危険に晒した。
その事実だけが、アーサーの心に重く影を落としていた。
「……シスターが戦闘している姿なんざ、初めて見た。」
スコルがメアリーに声をかける。
「あんた、今まで戦ったことねぇだろ。」
そう言って一度言葉を切り、少し視線を逸らして、小さく続けた。
「――よく、耐えたな……。」
その言葉に、メアリーの目がゆっくりと見開かれる。
言葉の意味を理解したのか、ふっと頬が緩んだかと思うと、メアリーは完全に脱力し、そのまま意識を失った。
スコルはそっと、メアリーを俵のように脇に抱え直す。
そして、体をアーサーへと向けた。
「……あんた、魔術使えないのか?」
「………っ。」
ズキリと胸を刺す、あまりにも直球な問いだった。
身体的なハンデがあっても、魔術の行使には関係がない。だからこそ、その力が喉から手が出るほど欲しかった。
思わず返答できず、視線を彷徨わせるアーサーに、スコルは続ける。
「餓鬼はさっき逃げたのを見た。助けても、結局恩なんて感じちゃいないだろうよ。」
冷たい鋼のような瞳が、剣のようにアーサーを貫く。
「……力もねぇくせに、お人好しでいるのは、ただの自慰行為に過ぎねぇってこと、今回で分かっただろ。」
唇を噛み締める。
確かにそうだ。力がない。それがどれだけ苦しいか。そんなこと、ずっと分かっていたじゃないか。
震える呼吸を飲み込んで、アーサーはスコルへ返した。
「……分かっていたよ。僕には力なんて無いって。」
「力がねぇって知ってて行動するのは、無責任って言うぜ。知っているか?」
「――恐ろしかったんだ。」
アーサーは汚れた右手で顔を覆う。
「ただ、恐ろしかった。行かなくちゃいけない、と。耳元で囁くんだ。」
「……誰が?」
吐き捨てるように問うスコルに、アーサーは自嘲気味に返す。
「……自分が。」
左腕が、もう無い左腕が痛む気がして、そっとそこに触れた。
「僕が腕と目を失くしたのは、戦争に行ってたからなんだ。」
「………。」
スコルからの返事はない。
「……嫌なものを見たし体験した。――それが、急に思い出されて、体が動いていたんだよ。」
「トラウマ、ってやつか。」
アーサーのその言葉に、スコルは答えた。
「戦場から帰ってきた奴らは、感情に歯止めが効かなくなってる奴が多い。……きっとあんたもそうなんだろうよ。」
スコルの経験則として、そういう傾向があった。穏やかだった人間が、戦場から帰ってきたら、おかしくなってしまった。
痛々しい姿を、嫌になる程見てきた。
アーサーもそうだと知っても、同情はするが今回のこととは無関係だ。
「あんたは比較的穏やかだから言うけどな、力がねぇなら、逃げろ。立ち向かうだけ無駄だ。」
「……頑張るよ。」
言葉を詰まらせながら、そう力なく笑って返すアーサーにスコルは眉を顰めるのが見えた。
何笑ってんだ、と責められるだろうか。
卑屈になりがちな思考を振り払う。
魔狼の爪が食い込み皮膚が裂け、血が滲む右腕で体を支えて立ち上がろうとした時、目の前にグローブをはめた手が差し出された。
「……立てよ。シスターは俺が連れていくが、あんたは自力で歩け。さもなくば、ここに置いて行く。」
「ありがとう……スコル。」
アーサーは差し出された手を、握った。
今朝と同じ、ゴツゴツとして太い、男らしい手。アーサーを引き上げるために力を込められた手は痛いほどだった。
・・・
傷だらけのアーサーと、意識を失ったメアリーを目にした村人や教会の面々は、それはもう大慌てだった。
小柄とはいえ、成人女性を大男が俵のように抱えているのだ。その光景は、さぞ衝撃的だったのだろう。
一行は急いで村長宅へと招き入れられ、手当てを受けることになった。
アーサーは傷の手当てを受け、全身包帯だらけになった。
一方、メアリーは汗と土で汚れた身体を拭き、着替えさせるため、村の女性たちに付き添われて別室へと運ばれていった。
村長の話によると、例の子供はまだ村に戻ってきていないらしい。
彼は一体どこへ行ってしまったのか。手掛かりは得られず、捜索は再び振り出しに戻ってしまった。
それから数時間――メアリーが目を覚ますまで、一行は村に滞在することになった。
・・・




