挨拶と魔術と逃亡と②
メアリーが目を覚ましたのは、日が傾き、空の果てから藍色が滲み始める頃だった。
帰路につくにも、メアリーはまともに歩ける状態ではなかった。
荷台車に乗せようにも、道はガタガタで、荷台は荷物でいっぱいだった。
とてもではないが、消耗しきった身体には酷な状況だったため、スコルに背負って運んでもらうことになった。
しかし、
「……歩けます。」
顔を赤くしたメアリーは、頑として背負われることを拒んだ。
「まともに立てねぇくせに何言ってんだ。乗れよ。」
大剣を荷台車に載せたスコルは、その逞しく大きな背中をメアリーに差し出す。
「いえ、問題ありません。ルミナーレ様がその御身をもって教えてくださいました。決定権は自分自身にあるのです。それは、誰にも侵せないものだと。」
「……。」
呆れた様子のスコルに、別のシスターがそっと耳打ちする。
「この子ったら、殿方に触れるのが恥ずかしいだけなのですよ。」
「――なっ、ちがっ! 違います!」
聞き捨てならないとばかりにメアリーは抗議するが、事情を知ったスコルはさらに呆れた。
「歩けます! もう十分休みました! ほ、ほら――!」
メアリーの声に振り向いたスコルの目に映ったのは、生まれたての鹿のように足をガクガクと震わせる彼女の姿だった。
(強情な女……。)
スコルが眉を顰めている間に、メアリーはおぼつかない足取りで一歩を踏み出した。
ガクン。
しかし、膝は体重を支えきれず、メアリーはその場に崩れ落ちた。
沈黙が流れる。
やがて、スコルが口を開いた。
「早く乗れ。」
「………はい。」
・・・
あれほど嫌がっていたにもかかわらず、温かな体温と規則的な揺れ、そして疲労のせいか、メアリーはすぐに夢の住人となってしまった。
スコルは小さな寝息を聞きながら、メアリーが目を覚ました直後のことを思い出していた。
メアリーが目を覚ましたのは、アーサーが村長への報告や、村の警備隊への魔狼の群れに関する情報提供などで席を外していたときのことだった。
スコルは彼女に話があったため、村の女性たちや他のシスターの監視のもと、ようやく話す機会を得た。
別に無体を働くつもりなどない。だが、年若い男女が一つの部屋で二人きりになるのは不健全だという。そういう理由らしい。
ベッドに横たわるメアリーは、普段のヴェールを外し、ブラウンの髪を下ろしていた。その姿は、いつもとは少し違った印象を与えた。
顔の両脇に垂れる髪は長く、後ろ髪は肩に触れる程度。その髪が白いシーツの上に無造作に広がり、彼女の疲労を物語っていた。
顔色は、先ほどよりもいくらか良くなっていた。
メアリーは魔術を限界まで行使したことで魔力欠乏に陥り、意識を失っていたのだ。
その後、他のシスターたちから少しずつ魔力の提供を受け、どうにか自力で上体を起こせる程度には回復していた。
「……スコル、さん。」
シスターに手を握られたまま、メアリーはスコルに声をかけた。
スコルは、もう一人のシスターがベッドの横に用意した椅子に腰を下ろした。
「気分は?」
スコルが短く尋ねた。
「……私は、もう、大丈夫です。――アーサーさんは?」
目を覚まして早々、まずアーサーのことを聞くとは。
スコルは片眉を上げて答えた。
「村長宅へ呼ばれている。アーサーを襲った魔狼は、親玉個体だったらしい。……その報告と、今後の対策について会議中だ。」
「そう、ですか。」
メアリーの視線が揺れた。
「……あんたも災難だったな。」
その言葉には、わずかに同情が滲んでいた。何気なくこぼれた、スコルなりの労りだった。
「……。」
「戦闘訓練のないシスターが、よくあそこまで耐えたもんだ。」
「……。」
メアリーの口元がわずかに歪んだ。唇をかすかに噛み、何かを押さえ込むように……。
そして、小さく息を吸うと、意を決したように口を開いた。
「覚悟はしていました。」
唐突な言葉に、スコルは面食らった。
メアリーは続けた。
「私、ああなることも覚悟の上で、アーサーさんについて行ったんです。だから、災難でもなんでもないです。」
「あんた、死にかけたんだぞ。」
責めるようなスコルの言葉に、メアリーははっきりと首を横に振った。
「確かにアーサーさんは、無謀だったと思います。ナイフ一本で魔狼五匹に挑みました。でも、それは私を信頼してくれていたからだと思うんです。」
メアリーは胸元に手を当て、思い出すように続けた。
「子供を群れから引き離す、最初のきっかけを作ったのはアーサーさんです。……逃げるときも、最後尾で背後を警戒し続けていました。」
「……。」
スコルは黙って、その言葉に耳を傾けた。
「甘いと思うなら、それで結構です。……でも、私は、なかったことにしたくないんです。あの大きな魔狼から、私たちを守ったのも彼です。それだけは、決して、否定させません。」
メアリーはまっすぐにスコルの目を見据え、断言した。
「アーサーさんは、私に逃げる時間をくれました。でも、それを捨てて、助けることを選んだのは私です。」
少し興奮した様子でスコルに詰め寄るメアリーを、周囲のシスターたちがたしなめた。
しかし、メアリーは構わず続けた。
「その結果、私が彼とあそこで果てようが、後悔はしなかったでしょう。それだけの覚悟くらい、私にはありました。」
先ほどまでの不安げな眼差しは、すでに見る影もなかった。今はただ、芯のある鋭い視線がスコルを射抜いていた。
「……スコルさん、遅れて申し訳ありません。――私たちを助けていただき、ありがとうございました。」
まっすぐな、飾り気のない感謝の言葉だった。
「私は、アーサーさんが教会に来てからの二年間、ずっとあの人を見てきました。……その姿を見て、私も自分にできる最大限のことをしようって、常日頃から思うんです。」
その視線は、少しもぶれなかった。
「あの人が、最大限に努力するのであれば、私もそれに倣いたい。そう、思っています。」
そう言って、メアリー・ラヴィエールは微笑んだのだ。
・・・
――『ただのシスター、女じゃなくて、私として、選択したんです。』
「……っと……思ったより重めぇな。」
スコルは、ずり落ちそうなメアリーを抱え直して、そう呟いた。
「……それ、メアリーの前で言うのだけはやめてね。」
アーサーは、スコルの軽口に苦言を呈する。
乙女の体重をとやかく言うのは、マナー違反だ。
行きと同様、アーサーが荷台車を牽く馬の手綱を持って、先導する。
その後ろをシスター、スコルが着いていくような形で歩いていた。
街灯は少なく、暗くなれば魔獣に遭遇する確率も上がるため、出来るだけ早く帰りたいところだ。
村人に一泊していけ、と言われたが、貴重な食料をこちらに割くのが申し訳なくて、帰ることにした。
スコルは、先頭を歩くアーサーの背中を見た。
裕福ではない教会では、成人男性に必要な栄養も十分に取れないのだろう。どこか頼りないその背中が、メアリーの言うほどの覚悟を背負えるのか、疑問だった。
スコルは少し歩みを速め、アーサーの隣に並んだ。
そして、アーサーに視線を向けないまま、声をかけた。
「このシスターは、あんたの恋人か?」
ブフッ、と吹き出す音が周囲から漏れた。
シスターたちは何事もなかったかのように澄ました顔をしているが、音の主が彼女たちであることは明白だった。
アーサーは突然の問いにぽかんとしたあと、呆れたような顔になった。
「彼女はまだ十八歳だよ。年下だ。そんなんじゃない。」
その言葉に、スコルは眉をひそめた。
「その割に、あんたへの信頼は随分と厚いようだが?」
「……そりゃ嬉しいね。でも、そういうんじゃないよ。年が離れすぎている。」
「あんた、いくつだ?」
「二十八。」
スコルは、まさか自分よりも年上だとは思わず、目を見開いた。
「……あんた、随分と童顔だな。」
「喧嘩売っているのかい?」
笑顔でそう聞かれたが、アーサーの目は笑っていなかった。
どうやら、コンプレックスだったらしい。少し卑屈で穏やかな性格だと思っていたが、予想よりも気が強い面もあるようだ。
シスターたちは不自然に顔を伏せ、唇を噛んでいる。ポーカーフェイスを保てていない。
「スコルこそ、今何歳なんだい?」
アーサーが少し不機嫌そうに尋ねた。
「二十三歳。」
「二十三!? 年下に説教されていたのか……。」
アーサーは再び肩を落とし、どんよりとした空気をまとった。
「あんた、十八歳と二十三歳に守られて、恥ずかしくないのか。年長者なのによ。」
ぐさり、とスコルの何気ない言葉がアーサーの胸に突き刺さった。
ぐっ、と言葉を詰まらせる。
「面目ない……。」
「このシスターは、あんたを無謀なやつだと言ってたぞ。」
「……何も言えないです。」
「だが、助けた俺に否定はさせたくないと、啖呵を切ったんだ。」
「……え?」
アーサーは思わず、スコルの顔を見た。
スコルは、メアリーが恩知らずな女ではないことくらい、分かっていた。
「俺は結果しか知らない。俺が来て魔狼を殺した。これが結果だ。」
スコルは前を向いたまま、続ける。
「でも、足掻いたのはあんたらだ。それを否定すんな、だとよ。」
アーサーは何も言えなかった。
「……末恐ろしい女だよ。」
そう言って、スコルは背中で眠るメアリーをちらりと見た。
・・・




