逃亡とシスターと琥珀と
「……っ!」
スコルは、ヨハン神父のその依頼に言葉を失った。
・・・
コンコン、と扉の外からノックの音が響いた。
「すみません、遅れました。開けますね。」
扉越しに、くぐもったアーサーの声が聞こえた。
スコルが時計に目を向けると、アーサーと別れてから、まだ十分ほどしか経っていなかった。
もっと長く話していたような気がする。しかし、そんな考えもすぐに頭の隅へ追いやられた。
扉が内側へ開き、アーサーが姿を現した。
先ほどとよく似た服に着替えていたが、泥や血の汚れはもうない。
アーサーは勝手を知った様子で部屋に入ると、ヨハン神父の向かい――スコルの隣に腰を下ろした。
「おお、アーサー、来たか。」
ヨハン神父は朗らかな声で迎えた。
先ほどまでの張り詰めた空気が嘘のように、その口調は穏やかだった。
「いやぁ、みんなが桶を準備してくれていて、体を拭いていたんです。」
泥と血を落としたアーサーは、さっぱりとした様子で爽やかな笑みを浮かべた。
「……それで、もう何かお話ししました?」
アーサーが問いかける。
「ああ、君が無茶をしていたと聞いたぞ。よその御人に心配をかけるのはおよしなさい。」
ヨハン神父がアーサーへ釘を刺した。
アーサーは一瞬、困ったような表情を浮かべたが、すぐにいつもの穏やかな笑みを取り戻した。
「……面目ないです。」
その返答に、スコルはわずかに表情を険しくした。
しかし、隣に座るアーサーは、その変化に気づいていない。
ヨハン神父は話題を切り替えた。
「アーサー、事件の詳細を聞きたい。話せるか?」
「あ、はい。……まだ、詳しいことは聞いていなかったんですね。」
アーサーは不思議そうに目を瞬かせた。
「うむ。まだじゃ。」
「……そうですか。分かりました。」
アーサーは改めてヨハン神父に向き直ると、あのとき何が起きたのかを順を追って話した。
・・・
「……詳細は分かった。お主もそうじゃが、メアリーも随分と無茶をしよる。自分の力量に見合わない魔術を行使するなど、悪手も悪手じゃろうに。」
「詠唱が長かったのですが、やはり難しいものなんでしょうか。」
「当たり前じゃ!」
アーサーの素朴な疑問に、ヨハン神父は思わず声を荒らげた。
そして、頬杖をつくと、心底困ったように続けた。
「崩れゆく天塔、人は地へ、天は遠くは、聖魔術ではあるが、シスターの研修では習わないはずじゃ。……どこで知ったんじゃ。」
ヨハン神父は腕を組み、数秒ほど考え込んだ。
すると、何かに思い当たったのか、はっと顔を上げた。腰をかばいながら椅子から立ち上がると、談話室の本棚へ向かう。
「……いや、そんなはずはない。わしも歳じゃからな。きっと思い違いのはずじゃ。」
ぶつぶつと独り言を漏らしながら、本棚を漁り始めるヨハン神父。
アーサーとスコルは、その後ろ姿を呆気に取られたまま見つめていた。
やがて、ヨハン神父が一冊の本を取り出し、ぱらぱらとページをめくっていると、その肩がぴくりと震えた。
「……あ、あっちゃった。」
「え?」
「は?」
ヨハン神父が、ギギギ、と音でもしそうな動きで振り返る。
その顔は、腰を痛めたときと同じくらい青白かった。
そして、震える声でこう告げた。
「術式、ありよった。」
・・・
「つまり、神父様が大教会から借りた文献を、シスターメアリーが勝手に読んで、扱い方も分からないまま術式だけ覚えてしまったと?」
「……若さゆえ、未熟さゆえの過ちと思っとったが、わしも人のことは言えんな……。」
スコルに事の顛末をまとめられ、しおしおと萎れたヨハン神父は、いつもよりさらに老けて見えた。
「ぐぬぬ、効率の悪い魔術じゃから、さして気にも留めとらんかったわ……。」
その言葉に、アーサーがそっと手を挙げた。
「僕は魔術が使えないので、よく知らないのですが、効率の悪い魔術と良い魔術って、何が違うんですか?」
素朴な質問だった。
魔術を扱う者にとっては基礎の基礎だが、魔力すら持たないアーサーにとっては、未知の世界だった。
ヨハン神父は「そうよな」と呟き、少し考え込んだ。
「簡単に言えば、効率の良い魔術は、現代の魔術師たちが改良を重ねてきたもの。反対に、古い術式には効率の悪いものが多い、といったところかの。」
ヨハン神父は腕を組み、続けた。
「魔術は改良が進むほど、聖句そのものの形から離れていく。術式を整理し、無駄を省くことで発動が速くなり、より実用的になるわけじゃ。現代の魔術師たちは、聖句の再解釈や術式の改良を繰り返し、より良い結果を求めて研究を重ねておる。そうして、効率の良い魔術が生まれていくんじゃよ。」
へぇ、とアーサーは感心した。
しかし、とヨハン神父は言葉を継ぐ。
「だからといって、古の魔術が悪いとは一概には言えんの。古の術式には、現代の術式では再現できん結果をもたらすものもある。その一つが、メアリーの使った術式――崩れゆく天塔、人は地へ、天は遠くじゃな。」
アーサーは思い出す。
魔狼の動きを止めた、幾何学模様の光の針――あれが、古の魔術だったのか。
「あれは、対象の影に光の針を突き刺すことで、相手の動きを封じる聖魔術じゃよ。対象の質量や魔力量に左右されず、動きを封じることができる。じゃが、発動には聖歌を捧げ、さらに詠唱する必要がある。おまけに、大量の魔力を消費する魔術での。術者の魔力量にも大きく左右されるゆえ、現代ではすっかり埃をかぶっておった術式なんじゃよ。」
ヨハン神父は、本の頁を指でなぞりながら続けた。
「メアリーは、この術式を使う前にも三度、魔術を行使しておったんじゃろう? ならば、相当な負担だったはずじゃ。あの子の魔力量では、そもそもこの術式を成立させられんはずなのじゃが……。」
そこで言葉を切ると、何かに思い至ったように顔を上げた。
「……魔素で無理やり補ったか? それでは、長くは持たんじゃろうに。」
独り言のように呟いたヨハン神父に、アーサーが答えた。
「……確かに、すぐに消えそうだったので、必死になったのを覚えています。」
「……そうか。無理に術式を成立させたゆえだの。」
納得したように、ヨハン神父は頷いた。




