嵐と魔物の襲撃
4人の中でいち早く体制を整えたルールカが、血の気の引いた顔で周囲を警戒した。その瞳には、一瞬にして日常が打ち破られたことへの驚愕と、迫りくる危機への本能的な予感が宿っていた。エリーゼが立ちあがり全員に怪我がないことを確認しあっていると、水夫の叫ぶ声が聞こえた。
「皆さん。落ち着いて聞いてください。この船は魔物の襲撃を船底に受けて浸水が始まっている。動けるものは直ちにデッキに向かい、水夫の指示に従ってください。」
避難を指示する声には危機感がつまっている。魔物、襲撃、浸水。これらの言葉から導き出されるのは1つの結末。絶望的なイメージがこの船に乗員しているすべてに思い描かれた。
「行くわよ。」
そのイメージを跳ねのける者がいる。ルールカ・アンチュアだ。
「心配しなくてもいい。私の後ろについてきなさい。」
こういう場で迷うことなく場を仕切れることが出来るのは場慣れしたルールカという冒険者だ。死と生の境界線を何度も体験した実績があり、緊急事態に陥った烏合の衆をまとめるだけのリーダーシップが彼女にはある。そして彼女以外の面々も烏合の衆にはなっていなかった。
ルールカを先頭にしてデッキに駆け上がった彼女らを豪雨と豪風が出迎えた。風圧でマストが悲鳴を上げ、その上で水夫たちが触手を相手に戦っている。すでに船体は傾き始めて、その上時刻は夜の時間帯。闇に沈んだ海面は、恐ろしいぐらいに真っ暗だ。
「嵐とクラーケンね・・・日頃の行いのせい?。」
「心当たりはないわね。」
エリーゼと緊張感のないやりとりをしつつ、デッキ後部に向かう。そこには救命ボートが用意されており、水夫の手によって海面に下ろす準備が整えられていた。
「女、子供から乗り込め。お前たちからだ。急げ。」
冒険者として騎士として、不本意だがあの魔物に敵わないと、そんな感情を振り切って行動した。ミルキ、レイニ、エリーゼ、最後に自分がボートに乗り込んでいく。
全員がボートに乗ったところで水夫の指示が飛ぶ。
「よく聞け。今はまだ本船にロープでつないであるから流されることはないが、危ないと思ったら迷わずロープを切れ。生きていれば必ず助けが来る。」
4人が頷いたのを見届けると、水夫はボートを海面に降ろしていった。荒れる海原に放り出された小舟は、魔物が暴れるたびに右へと左へと激しく揺さぶられ、生きている心地がしない。
それでも4人は転覆しないように体重を使ってバランスをとって、一瞬一瞬に集中する。魔導船が魔物の襲撃を受け、浸水が始まった際、エリーゼは冷静に状況を分析した。救命ボートに乗り込み、荒れる海原に放り出された小舟は、まるで巨大な手のひらで弄ばれるかのように、右へ左へと激しく揺さぶられた。波飛沫が容赦なく顔に打ち付け、塩辛い水が口に入り、全身を冷たい風が容赦なく叩きつける。ミルキは、胃の底からせり上がる吐き気に耐えながら、青ざめた顔でただひたすら目を閉じ、ボートの底にへばりついていた。巨大な波がボートを揺さぶるたび、心臓が喉元まで飛び出しそうになり、このまま暗い海に引きずり込まれるのではないかという、純粋な恐怖に全身が硬直する。エリーゼはただ一人、本船の傾き具合と嵐の方向、そして遠ざかる魔物の粘りつくような気配に目を凝らしていた。
叩きつける豪雨と豪風のなかで絶妙なバランスの中でルールカは本船にじっと目を凝らしていた。
「どうしたの?ルールカ。」
「あの子・・」
言われたエリーゼが視線を辿ると、
「あ・・・」
その瞬間、悲劇が起きた。横腹に魔物の触手をくらった船体が激しく傾き、そのはずみでデッキの端に立っていた少女が海に向かって投げ出されていく。まさに一瞬。悲鳴を上げる暇もなく、小さな体が黒い海の中に飲み込まれて消える。
かろうじて踏みとどまった水夫が浮き輪を手に取ったが、すでに遅い。少女の姿は真っ暗な闇の中に沈んでしまっている。
「まだ間に合う!」
ルールカはそう言って服を全部脱ぎ始めた。
「エリーゼ。精霊に頼んであの子を照らして。」
「ルー。危険よ。」
「いいから。」
真剣なまなざしを向けられたエリーゼは、しぶしぶといった様子で海面に手をかざした。すると海底からわずかな光が目に届いた。
すぐさまルールカは頭から海に飛び込んだ。肌を突き刺すような冷たい海水が全身を包み込み、耳元では荒れ狂う波の轟音が響き渡る。魔物が暴れた荒波の水圧に身体が押し戻されそうになるが、彼女はそれに負けじと身体全体で水をかき、光が示す方向にまっすぐ進んでいく。
彼女の泳ぎは、まるで獲物を追う捕食者のように力強く、その視線はただ一点、光の先にある命を見据えていた。
ルールカが少女を救うために海に飛び込んだ後、エリーゼは迷わず精霊に頼んで海面を照らした。その間も彼女の頭の中では、過去の航海日誌や地理学の知識が高速で巡っていた。
固唾をのんで見守るボートの中。
「・・・ぶはぁ・・」
見ている者からしたら永遠に感じる数秒間の後、ぐったりとした少女を抱きかかえてルールカが浮かんできた。その姿を見た瞬間、ミルキの張り詰めていた緊張が一気に解け、肺から全ての空気が押し出されるかのような深い安堵の息が漏れた。全身の力が抜け、涙が頬を伝うのを感じた。生きていた。皆、生きていたのだと、震える唇で何度も繰り返した。
浮き輪を投げて、3人が一斉にロープを引っ張る。今にも転覆しそうな揺れの中で2人を引き上げるのは困難を極めた。
「はぁはぁ・・・」
「無茶しないでよ・・・その子はどう?」
「ショック状態なのが幸いで海水は飲んでないみたい。」
ルールカを介抱するエリーゼのすぐそばで、ミルキの胸に抱かれた少女は気絶状態のようだ。
「怪我はないみたいね・・・ん?これって・・・」
怪我の有無を確かめるためにミルキが少女の身体を診て、その中指にはまった指輪に気を取られた。見覚えがありすぎるそのデザインに目を見張る。
「この指輪…王国の刻印だわ。まさか、この指輪が、なんでこんなところで…」
ミルキは、鍛冶師としての知識が、思わぬ形で目の前の少女の正体と、彼女が抱える秘密の一端を暴き出したことに、息を呑んだ。この指輪が、今後の旅路で重要な鍵となる予感が、彼女の胸に広がった。
「ダメだ。もう・・・」
その叫び声がミルキの思考を止めた。先ほどの横腹の攻撃が致命的だったのだろう、本船の傾きは限界域に達していた。沈みゆく船に残った水夫が次々と海に飛び込んでいく。ルールカ達を乗せたボートと本船をつなぐロープはすでに切られているため、近づくこともできずに漂流を始めていた。
「・・・助けられないの?」
いまや完全に魔物に取り込まれ沈みゆく本船の姿を、険しいまなざしで眺めながらレイニは声を上げた。その背後でミルキが少女を抱きかかえたまま息を飲んだ。
「私たちも死ぬの?」
レイニの震える声が、荒れ狂う嵐の音に掻き消されそうになった。ミルキは、抱きかかえた少女の冷たい体温に、ただ息を飲むことしかできない。エリーゼは固い声で、自分に言い含めるように告げた。
「やれることはないわ。あとは神にでも祈りましょう。」
その言葉は、まるで深海の底に沈んでいくかのような絶望を、彼らの心に突きつけた。ルールカは、冷たい潮風に震えながら、くしゃみをした。その一瞬、彼女の脳裏には、故郷の温かい暖炉の炎がよぎり、家族の笑顔、美味しい食事、そして何よりも、まだ見ぬ未来への漠然とした期待が鮮明に蘇った。胸の奥底から、抗いがたい「性」への渇望が、燃え盛る炎のように込み上げてきた。このまま、こんな場所で、こんな形で、死ねるものか、と。彼女の瞳には、絶望の闇を打ち破るかのような、強い光が宿っていた。




