エルフのエリーゼ
その日、月の色は水から緑へと移ろい始めていた。しかし、ルールカ・アンチュアの胸には、季節の移ろいとは裏腹に、拭い去れない不穏な予感が渦巻いていた。王立騎士養成アカデミーへの入学を祝う送別会の喧騒は、グラスの触れ合う甲高い音、人々の笑い声、そして楽団が奏でる陽気な調べが混じり合い、まるで耳の奥で遠く響く幻聴のように彼女の意識を通り過ぎていった。ギルド長のハーンスが告げる激励の言葉も、商業ギルドのアバックが寄せる期待の眼差しも、全てが薄膜一枚隔てた向こう側の出来事のように感じられた。彼女の視線は、テーブルに並べられた豪華な料理、特に山と積まれた追加のケーキへと向けられていた。バターと砂糖の濃厚な甘い香りが鼻腔をくすぐるたび、これから始まるケーキ争奪戦を思うと、喉の奥に微かな苦みが広がる。ルールカは、その不安を押し殺すように、冷たい銀のフォークをぎゅっと握りしめた。その硬い感触だけが、かろうじて彼女を現実世界に繋ぎ止めているようだった。この甘さが、束の間の安らぎか、それとも嵐の前の静けさなのか。彼女の心は、甘味なる世界への期待と、抗いようのない予感の間で揺れ動いていた。
「ギルド長のハーンスだ。入学おめでとう。ルールカ。君なら間違いなく首席を目指せるだろうが、油断禁物だぞ。」
「ありがとうございます。ここで学んだことを肝に銘じて活かします。」
「おぉ。ルールカ入学おめでとう。商業ギルドのアバックだ。今後の君の活躍に期待しても?」
「ありがとうございます。アバックギルド長。期待に沿えるように励みます。」
才気ある一定の年齢に達した者たちは男女問わず王国の中央にある王立騎士養成アカデミーへと旅立っていく。それは、単なる学びの場ではない。隣国との緊張が高まる中、王国の未来を担う指揮官を育成する、まさに希望の砦。このアカデミーに入学できることは、即ち貴族の爵位を得るに等しく、その重責は幼き者たちにも容赦なくのしかかる。これは巣立っていく子供たちに向かって激励を兼ねた送別会の内の出来事だ。ルールカ・アンチュアは、軽く煩わしさを味わっている。
騎士アンチュア家の養女として、冒険者として著しく活躍してきたルールカには、常に周囲からの期待の目が注がれていた。社交の場では、顔もろくに知らない貴族や商人たちの思惑が透けて見え、その煩わしさに内心うんざりしていた。彼らは、彼女の将来性を見込んで、少しでも印象を残そうとする。その見え透いた下心に不愉快を感じながらも、アンチュア領主の養女として、彼女は常に完璧な礼節を保たなければならなかった。しかし、アカデミーへの入学は、単なる社交辞令の場とは違う。ここでは、真の力と知恵が試される。この場所で、彼女はこれまで培ってきた冒険者としての経験と、騎士としての誇りを胸に、一人の指揮官として、そして王国の未来を担う者として、どのような成長を遂げるのか。その未知なる可能性に、ルールカ自身もまた、密かな期待と、わずかな不安を抱いていた。
「お。追加のケーキきた。」
すぐ近くで同い年ぐらいの男の子が発した言葉に、ルールカの耳がピクリと動いた。アンチュア領主主催の送迎会だけあって、会場には私好みの料理がテーブルに並んでいる。たっぷりじっくりと炭で焼いた川魚、山ほどの野菜を煮込んだスープ、バターで炒めて香辛料いっぱいの混ぜご飯、じゅわっと油で揚げたてのから揚げ。どれもこれも美味しい。
だけれど、慣れない社交の場で頭を使い疲れを癒すために、ダイレクトな甘さをルールカは欲していた。アカデミーでの熾烈な競争を予感させるような、この場の僅かな甘さすらも逃したくない。そんな焦燥にも似た感情が、彼女の心を駆り立てていた。
キリがいいところで、彼女は速足で歩きだした。ケーキ。それはこの国の誰にとっても、いや女性にとっては最高で魅力的な響きに違いない。砂糖どころか甘味を口にできるのはお金持ちだけ。それもたくさん仕入れることが出来ず大半は王都へと回されてしまう。「ケーキ」を食べる贅沢は、特別な日だけのお楽しみなのだ。
案の定、山ほどあったケーキはものすごい速度でなくなっていく。もはや時間の問題だった。走り出したい衝動をこらえながら、残っていますようにと祈りをこめてルールカはたどり着いた。
思わず安堵の息がもれた。大皿に残っていたのは一切れ。間一髪で間に合った。口の中に広がる甘味を想像しつつ、彼女はフォークに手をかけた。
「・・・」
王立騎士養成アカデミーへの入学を祝う送別会は、貴族や商人たちの思惑が渦巻く、煩わしい社交の場だった。騎士アンチュア家の養女、ルールカ・アンチュアは、完璧な礼節を保ちながらも、内心ではうんざりしていた。彼女の関心は、ただ一つ。テーブルの隅に置かれた、今にもなくなりそうな最後のケーキだった。その甘美な誘惑は、アカデミーでの熾烈な競争を予感させる焦燥にも似た感情を駆り立てる。しかし、そのケーキに手を伸ばした瞬間、彼女の指先は、自分より少し背の高い美少女の指と重なった。エルフの美女、エリーゼ。彼女の瞳には、ルールカの心を掻き乱すような、どこか愉しげな光が宿っていた。この一瞬の攻防こそが、ルールカにとって、退屈な社交の場を打ち破る、最高の『ライバル』の出現を告げるものだった。
「…エリーゼ」
ルールカの低い声に、エルフの美女はにこやかに笑いかけた。
「あら、ルールカ。入学おめでとう。まさかこんなところで会えるなんて、運命かしら?」
その言葉と共に、エリーゼのフォークがルールカの狙うケーキへと伸びる。一瞬早く、ルールカもフォークを突き出し、二人の銀の刃が、最後のケーキを挟んで火花を散らした。
「あんた、わざとでしょう?」
ルールカの視線が鋭く突き刺さる。
「あら、人聞きが悪い。ケーキはいつだって、私を呼んでいるのよ。」
エリーゼは涼しい顔で、フォークの先を僅かに動かす。
「年上なんだから、少しは遠慮しなさいよ。」
「譲れないものもあるのよ、特に甘いものはね。」
エリーゼの瞳が愉しげに細められる。
「…で、なんであんたがアカデミーに?」
「さあ?あなたがアカデミーに行くから、かしら?」
ルールカは額に青筋を立てた。
「意味がわからないんだけど。とにかくその手をどけなさい!」
エリーゼは肩をすくめ、挑発的な笑みを浮かべた。
「主催の領主様の娘が、ケーキ一つでそんなに必死になるなんて、可愛いわね。」
「…っ!」
ルールカの顔が真っ赤に染まる。その隙を突き、エリーゼは鮮やかにケーキを小皿へと移した。
「さすがはアンチュア家の娘。その誇りは山よりも高く、海よりも広い。私は本当に良い友達をもった…!」
言い終わる前に、ルールカの拳がエリーゼの腹に吸い込まれる。
悶絶するエリーゼから小皿を奪い取り、ルールカは満足げに微笑んだ。
「わざわざ小皿に移してくれてありがとう、エリーゼ。」
涙目で腹をさするエリーゼを尻目に、ルールカはケーキを一口。その瞬間、彼女の瞳は恍惚に揺れた。
「…んーーー!!最高ね。もうサイコー。」
「よかったわね。その代わりに私はお腹が痛いわ。」
エリーゼは恨みがましい視線を送りながらも、どこか愉しげだった。
「いつだって食べれるでしょう?」
「あなたと分かち合いたいのよ。」
「また始まった。知りもしない女性に私がまた恨まれるわよ。」
彼女は数百年前に滅んだエルフの里でたった1人の生き残りであり、当時の領主がアンチュアで保護したエルフ。そういった経緯もあり幼いころから面識があり軽口を交わしている。
エリーゼは博識で本を好みよく引きこもりになる一方、女趣味の側面を持つ。異性を嫌っているわけではない。理由はわからないが同性に性欲が沸いてしまうらしい。その中に私が含まれているということではない。どちらかというと避けていたいぐらいだが、彼女は私を見つけるといつも絡んでくる。そんな訳で関係を持った女性達の嫉妬の念が向けられるのだ。
そうエリーゼに視線を送りながら、ルールカは名残り惜しげに最後の一口を食べ終わった。思わず辺りに視線をやってみたけど、今のところ追加の気配はない。肩を落とすルールカだった。
「あっ。エリーゼ様。入学おめでとうございます。」
私を飛び越えてエリーゼの姿を見つけた令嬢がやってきた。彼女との関係者なのか?またエリーゼも笑顔で受け答えする。
「ありがとう。それに君こそ入学おめでとう。」
エリーゼに声を返されると、話しかけてきた令嬢は色めき立った。
腰下まで伸びたエメラルドの髪、聡明さと賢明さを象徴するような大きな瞳。腹の拳をもらっても乱れなく着こなしたドレス。美女という絵そのままの佇まいがそこにある。
誰もが認める知識の豊富さに、エルフという種族も合わさって、エリーゼが受ける尊敬と期待は大きい。が、それだけに一緒にいる相手が相手だけに嫉妬と妬みそして焼きもちが混ぜに混ざった視線がルールカに向かう。
「あのもしかして、領主の養女に絡まれていたのですか?」
案の定、隣にいる似つかわしくないピンクプラチナの女に気づいた令嬢が、声を潜めてエリーゼにささやきかけた。
「ちょっと話していただけよ。」
「こんな色魔、相手にしてはいけません。色欲がうつりますから。」
その言葉に、ルールカは曖昧に微笑んだ。さらに令嬢は耳元でささやいた。
「それにエリーゼ様がこいつと同時期に入学を希望されたとの噂です。勘違いして、惑わしてくるかもしれませんから、くれぐれも注意してください。」
その発言にルールカは失笑をこらえるのに必死になり、エリーゼがとりなす。
「まぁまぁ。今日はめでたい日なんだから楽しく過ごしましょう。」
エリーゼに「今夜ね。」とそう言われては、令嬢は嬉し気に去っていった。
「で、なんで養成アカデミーに行くわけ?」
「あなたに興味があるから。」
それを聞いたルールカはきょとんとした。
「・・・どういう意味で?」
「いろんな。」
あえて明確な答えを返さずルールカに熱いまなざしをむけるエルフ。
「・・・」
反射的に、視線を合わせないようにして1人でテラスに出た。
夜風が肌を撫でるたび、ルールカの全身に微かな粟立ちが走る。それは寒さだけではない。遠くで聞こえる人々の笑い声が、なぜか彼女の耳には甘く響き、内なる熱を呼び覚ますようだった。吐息が漏れるたび、微かに甘い香りが広がり、彼女は自身の変化に戸惑いながらも、その感覚に抗えずにいた




