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マルセイザ共和国と白髪の将

マルセイザ共和国と白髪の将


脱兎のごとく。それを合言葉に、時間稼ぎの防衛戦が始まった。残された時間はあと3日と半分。猶予はない。


「事前の指示通り、窪地に水をため込みなさい。いちいち確認をとる必要はないわ。速やかに作業を終わらせなさい!」


凛とした声が雪原に響き渡る。エリーゼは、護衛騎士たちに迷いのない指示を飛ばした。彼女の瞳は、迫り来る敵軍の進路を正確に捉え、その先にある未来を見通すかのように澄んでいた。兵士たちは、魔法や魔弾の水を使い、凍てつく雪原に満遍なく水を撒き散らす。それは、精霊たちの囁きから得た、自然の摂理を逆手に取った罠だった。トラブルもなく作業は進み、敵軍の接近に合わせて後退するだけのシンプルな作戦。しかし、その背後には、エルフならではの深い洞察と、二度と大切なものを失わないという、氷の刃のように研ぎ澄まされた彼女の固い決意が秘められていた。


「次々と行くわよ」


エリーゼが考えた作戦の作業は至って簡単なものだった。とくにトラブルらしきものは見つからずに、敵軍が近づいて来たら同じだけ後退する。それだけだ。


その頃、マルセイザ共和国軍の斥候隊は、大雪原の入り口で奇妙な光景を目にしていた。広大な雪原のあちこちに、不自然に凍り付いた窪地が点在している。


「これは……罠か?」


斥候隊長は眉をひそめた。自然現象にしてはあまりにも規則的だ。しかし、この広大な雪原に、これほどの規模の罠を仕掛けるなど、常識では考えられない。報告を受けた大将は、当初は斥候の過剰な警戒だと一蹴したものの、連日の進軍の遅れと、兵士たちの足元を奪う不可解な現象に、次第に苛立ちを募らせていた。彼の脳裏には、キラエル軍の奇策の可能性がちらつき始めていた。


****************************************

そして作戦開始から3日と半分。レイニの予測通り、1万2千の大軍を率いるマルセイザ共和国軍が大雪原に到着した。真っ白な軍服に身を包んだ兵士たちは、雪原を埋め尽くすほどの威容で立ち並び、主神の威光を称える言葉が山々にこだまする。死神の領域を神の名のもとに押し進めようとする、その圧倒的な存在感が雪原を支配していた。


その圧倒的な存在感の中に、万軍の将として遜色のない装飾を備えた壮年の男の姿があった。恰幅のいい身体、つるつるに剃り上げられた頭、厳しく引き結ばれた口元。普段は、主神への深い信仰を胸に、静謐な祈りを捧げる敬虔な神官。しかし、戦場においては、その穏やかな面影は完全に消え失せていた。マルセイザ共和国軍総大将サーハド・メラシャド――彼の内には、常に燃え盛る焦燥と苛立ちが渦巻いていた。


「何をしておるか!!もたもたしてたらキラエルどもが逃げてしまうではないか!!!」


サーハド大将の怒声が雪原に響き渡る。その声は、神の威光を称える聖歌とは似ても似つかぬ、苛立ちに歪んだ老将の叫びだった。彼の顔には、焦燥と、「時間がない」という切迫感が色濃く浮かび、額には脂汗が滲み、握りしめた拳は小刻みに震えていた。その感情は兵士たちの士気を削ぎ、時に無謀な進軍を促す。隣の副官、セイギはまたしても深くため息を零す。大将の言葉が的を得ていることは理解しつつも、その感情的な指示がもたらすであろう混乱を予感し、内心で頭を抱えた。セイギは、彼の信仰心が戦場の現実と衝突するたびに、大将の人間的な弱さが露わになるのを感じていた。


ともあれ、サーハド大将の言葉は的を得ていた。大雪原に踏み入ったまではよかったが、ふいに兵たちが足元を捕らわれて転んでしまうのだ。それも数人規模の話ではない。数列規模で数百人がほぼ同時なのだ。凍てつく雪原に仕掛けられた罠は、兵士たちの足元を掬い、進軍を遅らせる。その度に、大将の苛立ちは募り、彼の怒声は雪原に響き渡った。


早くしろ!急げ!と叫んでいる大将の元に偵察を終えた騎兵たちが戻って来た。広い大雪原それぞれの進軍路の様子を視てきた彼らの中から1人が報告しだした。


「大将に報告します。大雪原を抜ける道中に罠が仕掛けられているのを確認しました。足元に気を付ければ進行は可能です。」


「ならば先を急ぐぞ。」


先を急ぐサーハド大将に、隣から副官が控えめに口をはさんだ。


「しかしこの罠をどうにかしなければ兵たちの士気が下がります。」


「なら、邪魔な罠を蹴散らせばよかろう?」


「ご命令とあれば、しかしどうやって?」


「足元が掬われた兵士の上を歩いていけばよい。橋の代わりになって兵たちもさぞ喜ぶだろう。」


「・・・時間が差し迫っているのなら良い案ですが、今は無理です。無駄に士気を下げるだけです。」


副官はキッパリと言い切った。そういうところが気に入っているのだろうか、サーハド大将は腕を組んで考え込む。


「・・・面倒だな。おい!考えろ!!」


「まだ戦端さえ開かれてないのに、いいのですか?」


「何を言っておる。同盟国だろうがサマールル客員だろうが、使える者は使って何が悪い?この機会だ。お前の実力を試してやろう。」


そう言いきられてしまうと反論できずに副官は考える。その白髪の若い男性は馬に跨ったまま思考を繰り返す.。身にまとっているのは真っ白ではなく濃い青色の軍服だったため異様に目立っている。


「・・・大将!!」


しばらくしてその若い男が通る声を張り上げた。サーハド大将はそれを見て促す。


「とりあえず水を撒きましょうか?」


そう言い切った副官にサーハド大将は目を丸くした。

*****************************************

大雪原に穴を掘る音が木霊する。ここに敵がはまってくれたら儲けものという感じで、そこそこの穴が出来上がったらそこに水を貯めて完成だ。そんな作業を続けていると


「作業中悪いけれど、敵側に動きがあったわ。」


凛とした声がエリーゼにかかったと思うと、ルールカがやってきた。指揮官への敬礼を兼ねた動作でエリーゼとルールカが向き直る。敵の進軍を阻むことに成功したおかげでこうした余裕が生まれてきていた。


「後方からの報告よ。敵が大雪原に水やら何かを撒いているそうだわ。」


その知らせにエリーゼは眉根を寄せた。


「…もうバレた…なかなかやるわね。」


エルフの瞳に警戒感が灯る。しかし、その表情はすぐに冷静さを取り戻した。彼女は、氷の精霊たちが語る水の性質に耳を傾け、その神秘的な力を戦術に応用したのだ。雪原に隠された見えない罠は、まさに精霊の加護を受けたエルフならではの奇策だった。水が氷になるには、わずかな氷の結晶とエネルギーが必要となる。しかし、ゆっくりと均一に冷やされた水は、マイナス10度以下でも凍らないことがある。その凍らない水に衝撃を与えたり、雪をかけたりすると一瞬にして氷に変わる。エリーゼは、この現象を最大限に利用し、広大な雪原を天然の罠に変えていた。敵がその本質を見破ったことに、彼女はわずかな驚きと、そして確かな手応えを感じていた。


「ここにきて精霊たちのこぼれ話から考案したわけなんだけれど、よくわかったわね。」


「たまたま水の性質を観察していたとか?」


「そうだったらいいのだけれど、何もない雪原が大きな罠。というのが彼らにとっては予想外のはずで、もう少し手間取ってくれるだろうと考えていたの。良い時間稼ぎになるはずだったんだけれどな・・・」


早々にあてが外れてエリーゼは顎に手を当てて思案顔になる。


「・・・そもそもマルセイザ共和国はここ数百年大きな戦いを避けてきた中立国だったはず。そういう国の軍隊が未知の状況に出くわして、こうも簡単に見破れるかしら?」


「どうかしら?あの国の者が考えたことじゃないとしたら?」


ルールカがぽつりとそう呟いた。


「ルールカ?」


「聞いたことない?政治的な軍事的なバランスを取るために、帝国の将校クラスが派遣されていること。」


「客員か・・・そんな事情もあったわね・・・」


「そもそもの始まりが氷族を扇動したのがサマールルだとしたのなら・・・」


「・・・貴族婦人のお嬢様からこんな話を聞いた覚えがあるわ。2年前に派遣されたサマールルの将校は、異例の若さで出世していく白髪の青年、たしか名は・・・」


「サマールル帝国軍少佐スドウ・セイギ。サマールル歴代最年少の智将と噂されているようね。」


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