第三章 奇跡の薬と聖なる水
灰蝕病の治療薬が、初めて患者に投与された。
アルテンベルク家の支援する療養施設では、医師や薬師たちが慎重に経過を見守っていた。投与を受けたのは、すでに皮膚の変色が広がり、従来の治療では回復が見込めないとされていた患者たちだった。
フランシスカが施設を訪れたのは、最初の投与から数日が経った頃だった。
「経過はいかがですか」
診察を終えた医師に尋ねると、彼は手元の記録を開いた。
「今のところ、重い副作用は確認されておりません。それどころか、投与を受けた患者の多くに改善が見られています」
「それは、灰蝕病そのものに効果があったということでしょうか」
「はい。まだ経過を見守る必要はありますが、皮膚の変色が薄くなり、衰弱していた身体にも回復の兆しが現れています」
医師はフランシスカを一つの寝台へ案内した。そこには、以前の訪問で診察を受けていた男性が横たわっていた。かつて腕に広がっていた灰色の斑点は薄くなり、呼びかけに応じる声にも以前ほどの苦しさは感じられなかった。
「お加減はいかがですか」
「おかげさまで、ずいぶん楽になりました。昨日は自分で起き上がることもできたんです」
男性はそう答え、寝台の上でゆっくりと身体を起こしてみせた。医師が慌てて支えようとしたが、男性は笑いながら大丈夫だと告げた。
「こんな奇跡のような薬があるのですね」
「いいえ。これは奇跡ではなく、研究に携わった方々の努力の結晶です」
「そうでした。申し訳ありません」
「いいえ、こちらこそ。病に苦しんでいた方にとっては、奇跡と呼びたくなるほどのことなのでしょうね」
フランシスカが微笑むと、男性も嬉しそうに頷いた。
以前は返事をすることさえ苦しそうだった患者が、自分の力で身体を動かしている。フランシスカは医師へ視線を向けた。
「回復魔法を受けたときとは、明らかに経過が違いますね」
「ええ。聖女様の回復魔法では、一時的に症状が改善しても、時間が経てば再び悪化していました。しかし、今回は日を追うごとに状態が良くなっています」
フランシスカは患者の記録を確認した。投与量や症状の変化が細かく記されており、ほかの患者についても同様の改善が報告されている。
「ほかの施設でも、同じ結果が得られているのでしょうか」
「神殿を通じて確認を進めています。現時点では、複数の施設から良好な報告が届いております」
「分かりました。引き続き経過を確認してください。必要な薬液については、研究室と調整いたします」
フランシスカが礼を述べると、医師も深く頭を下げた。
「この病を治せる日が来るとは、思っておりませんでした」
「まだ、すべての患者を救えたわけではありませんわ」
「ええ。ですが、これまでとは違います。今は、治療できる見込みがあるのですから」
フランシスカは頷き、もう一度寝台の男性へ目を向けた。男性は看護に当たる者と話しながら、差し出された水を自分の手で受け取っていた。
研究室へ戻ると、薬師や魔術師たちが各施設から届いた記録を確認していた。投与を受けた患者の多くに改善が認められ、これまで病の進行を止められなかった重症者にも、回復の兆しが現れているという。
「薬液は、このままでよさそうでしょうか」
フランシスカが尋ねると、研究を担当する薬師が頷いた。
「はい。投与後の経過も安定しており、実用化へ進めると考えております」
「では、各地への供給に向けた準備を始めましょう」
「承知いたしました。ただ、製造には魔術師による調整が必要です。通常の薬のように、薬草を調合するだけでは完成いたしません」
「必要な人員を確保します。神殿や王宮にも協力を求めましょう」
フランシスカは、研究者たちと製造方法や供給体制について協議した。薬師が調合した薬液へ魔術師が魔力を込め、瘴気由来成分を一定の量に調整する。完成した薬は厳重に管理し、各地の医療施設へ届けることになった。
治療薬の保管や輸送についても、通常とは異なる管理が必要だった。神殿や医療施設では、病の原因となる瘴気を祓うために浄化を行うことがある。そのため、薬液は浄化を行う場所とは分けて保管し、各施設へ取り扱い方法を伝えることになった。
フランシスカは必要な事項をまとめ、王宮と神殿へ送る書状の準備を進めた。
新たな瘴気の発生は、今も続いている。
患者を治せるようになっても、瘴気によって農地が荒れ、人々が病に倒れる状況そのものを放置するわけにはいかない。フランシスカは以前から検討していた、聖女の浄化能力を保存する方法について、神殿と魔術師たちとの協議を進めることにした。
数日後、アルテンベルク家の研究室には、神殿から派遣された神官と魔術師たちが集まっていた。
机の上には、魔力を保存するために用いられる容器や、神殿で使用される清めの水が並べられている。
「聖女様の浄化能力を、水に宿すことはできないでしょうか」
フランシスカがそう切り出すと、神官の一人が考え込んだ。
「神殿でも、清めの水に神官の力を込めることはございます。ただ、その効果は限られており、濃い瘴気を祓えるほどの力を長く保つことはできません」
「では、保存する方法に問題があるのでしょうか」
「それも考えられます。魔力を込めた水は、時間が経つにつれて力が失われてしまうのです」
魔術師が机の上の容器を手に取った。
「魔力を保存する技術そのものは存在します。ただ、聖女様の浄化能力が、通常の魔力と同じ方法で保存できるかどうかは分かりません」
「試してみる価値はあると思います」
フランシスカは各地の神殿から集めた資料を広げた。
「現在、聖女様が直接赴かなければならない地域があまりにも多くあります。もし浄化の力を保存して運べるようになれば、神官の方々だけで対応できる場所も増えるのではないでしょうか」
「確かに、聖女様がいらっしゃらなくても濃い瘴気を祓えるのであれば、現場の負担は大きく減るでしょう」
「それに、浄化を待つ間に被害が広がることも防げるかもしれません」
神官たちは顔を見合わせ、やがて協力を申し出た。
問題は、実際に聖女の力を水へ込められるかどうかだった。
フランシスカは神殿を通じてリベカに協力を依頼した。各地の浄化活動とウィリアムの看病で忙しいことは承知していたが、彼女の力がなければ研究を進めることはできない。
返事はほどなくして届いた。リベカは研究の趣旨を聞き、ぜひ協力したいと申し出てくれたという。
リベカが研究室を訪れたのは、それから数日後のことだった。
「フランシスカ様、お招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ、お忙しいところ申し訳ございません」
「いいえ。私の力を、もっと多くの方々のために役立てられるかもしれないのでしょう? ぜひお手伝いさせてください」
リベカは以前よりも幾分顔色が良くなっていた。ウィリアムの看病は続いているものの、王宮で過ごせる時間には多少の余裕ができたらしい。
「殿下のご容態はいかがですか」
「今は落ち着いていらっしゃいます。ですが、まだ回復魔法が必要な状態です」
「治療薬の研究も、ようやく成果が出始めました。各地で回復した患者の報告が届いておりますので、殿下にも近いうちにお届けできると思います」
リベカは目を見開いた。
「本当ですか」
「はい。正式な供給に向けて、王宮とも調整を進めております」
「よかった……。殿下にも、きっとお喜びいただけます」
リベカは胸の前で手を重ね、安堵したように微笑んだ。
「各地で苦しんでいらっしゃる方々も、これで救われるのですね」
「ええ。薬師や魔術師の方々が、長い間研究を続けてくださったおかげです」
「フランシスカ様も、ずっとご尽力なさっていたと伺っております」
「私は、皆様が研究を進められるようにお手伝いしただけですわ」
フランシスカがそう答えると、リベカは静かに首を振った。
「それでも、フランシスカ様が動いてくださらなければ、これほど多くの方々が協力することは難しかったと思います」
フランシスカは礼を述べ、研究の準備が整ったことを伝えた。
神官と魔術師の説明を受けたリベカは、机の上に置かれた透明な容器へ手をかざした。
「いつもの浄化と同じようにすればよろしいのでしょうか」
「はい。ただ、今回は周囲の瘴気を祓うのではなく、容器の中の水へ力を込めていただきたいのです」
「分かりました。やってみます」
リベカは目を閉じ、ゆっくりと息を整えた。
やがて、その手元に淡く清らかな光が生じた。光は彼女の指先から水面へと広がり、透明な水を柔らかく照らした。しばらくすると光は静かに収まり、容器の中には先ほどと変わらない澄んだ水が残された。
「これで、よろしいのでしょうか」
リベカが尋ねると、魔術師が容器を慎重に持ち上げた。
「確認してみます」
魔術師は水に込められた力を調べ、神官たちと結果を確かめた。
「確かに、浄化の力が残っています」
「ですが、どれほどの時間保てるかは、まだ分かりません」
「では、保存状態を変えながら試してみましょう」
フランシスカの言葉に、研究者たちは頷いた。
最初の試作では、時間が経つにつれて浄化の力が弱まってしまった。容器を変え、魔力の保存方法を調整しても、十分な効果が得られないことがあった。
それでも研究は続けられた。神官たちは浄化の力を保つ方法を検討し、魔術師たちは容器や保存のための魔術を改良した。リベカも王宮へ戻る合間に研究室を訪れ、試作に協力してくれた。
やがて、一定の期間、浄化の力を保てる水が完成した。
研究室では、その水が実際の瘴気にどの程度作用するかを確認する試験が行われた。
「では、始めます」
神官が容器の中の水を、瘴気の影響を受けた試料へ注いだ。
水が触れた部分から、灰色に変色していた表面が少しずつ元の色を取り戻していく。魔術師が反応を調べると、試料に残っていた瘴気由来の成分が取り除かれていることが確認された。
「成功ですね」
フランシスカが言うと、神官は驚いたように試料を見つめた。
「はい。聖女様が直接浄化を施されたときと、同じ反応が確認できています」
「保存していた期間を考えても、十分な効果が残っているようです」
魔術師も記録を確認しながら頷いた。
フランシスカは、容器の中に残った水へ目を向けた。
聖女がその場にいなくても、浄化の力を利用できる。これが実用化されれば、遠く離れた地域へも迅速に対応できるようになるだろう。
「この水を、聖水として各地の神殿へ届けられるようにしましょう」
フランシスカの提案に、神官たちも賛同した。
ただし、聖水の製造にはリベカの協力が欠かせない。彼女の負担が増えすぎないよう、必要な量を計画的に製造し、各地へ運ぶ仕組みを整えることになった。
リベカも、その方針を喜んで受け入れた。
「私が一度に行ける場所は限られています。でも、聖水を届けることで助けられる方が増えるのであれば、こんなに嬉しいことはありません」
「リベカ様が各地を巡る負担も、少しは減らせると思います」
「ありがとうございます。神官の皆様にも、これまで以上に助けていただくことになりますね」
「ええ。ですが、聖女様お一人に頼りきりになるよりも、皆で役割を分担する方が、長く続けられるはずです」
リベカは微笑み、深く頷いた。
聖水の製造方法が確立されると、神殿は早速、瘴気の被害が続いている地域への供給を始めた。
これまでは聖女の到着を待つしかなかった土地にも、神官たちが聖水を運び、現地で浄化を行えるようになった。濃い瘴気が発生した地域でも、以前より早く対処できるようになり、被害の拡大を防いだという報告が次々と届いた。
もちろん、すべての地域で聖水だけを使えば済むわけではない。被害の規模によっては、引き続きリベカ本人の力が必要になることもあった。しかし、彼女が直接赴かなければならない場所は確実に減り始めていた。
その一方で、灰蝕病の治療薬も正式に完成し、各地への供給が進められていた。
薬師や魔術師たちの協力によって製造体制が整えられ、神殿や王宮の支援を受けながら、必要な地域へ薬が届けられていった。
各地の医療施設からは、回復した患者についての報告が相次いだ。皮膚の変色が薄くなり、長く寝台から起き上がれなかった者が歩けるようになったという。重症だった患者が家族のもとへ戻った例もあり、灰蝕病はもはや治療の見込みがない病ではなくなっていた。
フランシスカは、以前訪れた療養施設を再び訪ねた。
室内にはまだ患者の姿があったが、以前のように苦しそうな息遣いが絶えず聞こえてくることはなかった。看護に当たる者たちの表情にも、幾分余裕が戻っている。
「先日お会いした方は、どうなさいましたか」
フランシスカが尋ねると、医師は嬉しそうに答えた。
「あの方でしたら、先日退院されました。まだしばらくは休養が必要ですが、今はご家族と一緒に過ごしておられます」
「そうですか。それは何よりです」
「ほかの患者たちも、順調に回復しています。新たに発症する方も、以前より少なくなりました」
医師は窓の外へ目を向けた。
「聖水のおかげで、近隣の村でも瘴気の浄化が進んでいるそうです。このまま被害が減ってくれれば、病に倒れる方も少なくなるでしょう」
フランシスカは頷いた。
治療薬によって患者を救い、聖水によって新たな被害を防ぐ。二つの取り組みが、ようやく成果を上げ始めていた。
程なくして、ウィリアムにも治療薬を届けられる見通しが立った。
王宮の医師たちには、すでに治療薬の効果と取り扱いについての資料が送られていた。各地の患者が回復していることから、王宮でも正式な投与を進める準備が整えられているという。
ある日、フランシスカのもとへ、王宮から書状が届いた。
そこには、ウィリアムの治療に使用する薬が確保され、王宮へ届けられることになったと記されていた。
フランシスカは書状を読み終え、机の上に置いた。
灰蝕病の研究を始めた頃には、病に苦しむ人々を救う方法さえ分からなかった。それが今では、各地で治療薬が使用され、多くの患者が回復している。聖水による浄化も進み、王国はようやく危機を脱しつつあった。
ウィリアムも、同じ治療を受けることができる。
長く病床に伏していた彼が回復すれば、王宮の政務も次第に元の状態へ戻っていくだろう。リベカも看病に追われる日々から解放され、王太子妃としての務めと聖女としての活動に、改めて向き合えるようになるはずだった。
フランシスカは王宮への返書を用意し、治療薬の投与が滞りなく進むことを願う言葉を添えた。
その日のうちに、ウィリアムのために用意された治療薬は、王宮へ届けられた。




