勇者、何も気づきません。
西の峰に日は落ちていく。
夕方になると、冬営地の空気はまた一段と冷え込んだ。
木々の影が青く濃くなり、ヤギの囲いの中まで伸びてくる 。
昼の間に少しだけ緩んだ雪は、再び表面を固く凍らせ、踏むたびに小さく鳴った。
カイルは木叉を返すと、重くなった腕をゆっくりと下ろした。
「……雪かきは、想像以上にきついね。ヤギの世話が、これほど重労働だとは思わなかった」
アルトは何気ない風で
「冬は冬の世話があるし、春は移動があるからね、もっとすごいよ」
「‥すごいんだ」
カイルはハーゲンでヤギ達を初めて目にした時の事を思い出していた。
ダリアさん。元気だろうか?
そこへ、肩を落とし、オリバーがゆっくり近づいて来る。
「オリバーだ!どう?薬湯効いた?元気になった?」
アルトが笑顔で聞いた。
「‥薬湯の効果かわかりませんが、頭はちゃんと動いてます。胃は死んでますけど」
オリバーは右手で自分の胃のあたりを撫でる。その顔色はまだ悪いままだった。
カイルは、オリバーを気にすることなく、遠い目で南の山並みを眺めている。
‥あの山の向こうには聖王国がある。
「カイルさん」
「あ。オリバー、どうだった。薬は?」
「‥最悪です」
「良薬は口に苦しだよ」
「‥カイルさんも一度飲んでみたらわかります」
「俺は深酒はしないからね。オリバーも、これに懲りたら気をつけろよ」
「それは乳酒次第です。僕の意思では決められません」
「‥決められないんだ」
少し遅れて、シェラザードがジーナとシンシアを連れて戻ってきた。
その手には、小さな白い布が大切そうに握られている。
「シェラ!刺繍できた?」
アルトが嬉しそうに駆け寄った。
シェラザードは手の中の布をアルトへ差し出した。
「出来ました。まだ、不格好でヤギの足跡には見えませんが‥」
そう言いながら、愛おしいモノに触れるように布を撫でる。
その口元は静かな微笑を浮かべていた。
「うん。初めてだもの。歩き始めた子ヤギの足跡だね」
「これで、魔除けになるでしょうか?」
「なるよ。シェラが祈りながら刺したんだから」
アルトは笑顔でシェラザードの手の中の布を見つめて言った。
カイルも、その布を見ながら思った。
祈りを込める。魔を避けるため。
昼間に聞いた歌の事を思い出す。
女神の怒り。
カイルの真剣なまなざしに、シェラザードもまた、何かを言いかけて、口を閉ざした。
オリバーは二人の顔を見比べ、かすかに眉を寄せる。
「お二人も、何か踏み抜きましたね」
「踏んだ、という言い方はどうかと思うけどね」
カイルは小さく息を吐いた。しかし、それ以上は言えなかった。
辺りには夕餉の支度にと、足早に過ぎていくルリアスの民の姿がある。
どこかで子供たちが歌う声が聞こえる。
‥子供の高い声で歌う、明るく楽し気な旋律。あれも昼間に聞いた歌だ。
シェラザードの指が、白い布を握りしめる。
カイルは思わず顔を上げた。
オリバーも、青い顔のまま耳を澄ませる。
集落の石作りの家からは、細く白く煙が立ち登り始めた。
どこかで肉を焼く匂いが立ち込める。
「ほら。夕飯を食べに行こう。今日は鶏肉の乳鍋にするって。チーズも入って美味しいよ」
アルトが笑顔でそう言った。
もうすぐ夜が来る。
子供たちの歌声は、まだ雪の上を明るく転がっていた。
シェラザードの手の中で、不格好な子ヤギの足跡だけが、白い布の上に残っている。




