王女様、祈りを縫います。
食事の用意ができたと呼ばれて、オルグの住居へ入ると、そこには調査隊の面々が集まっていた。
みんな、ルリアスの伝統衣装ダウナーに厚手の上着を着ている。
その姿を見た時、シェラザードは男性用と女性用では、形は同じでも、柄の細かさや色の使い方が違うんだと感じた。
それに、ルリアスの衣装で、ルリアス式に床に座り、身分立場関係なく談笑する。
国では、まず目にすることのない光景だった。けれどここでは、誰もがそれを自然と受け入れていた。
「さぁ。召し上がれ!」
ストーブの前でオルグがミルクティーを器に注ぎながら声を掛けた。
「今日のミルクティーはジンジャーとはちみつです。温まりますよ」
茶が器に注がれる度に、辺り一面にはちみつの甘い香りが漂う。
ストーブの上では、パンが炙られている。小麦の焼ける香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
その上にアルトがナイフで乳白色の塊を削りのせる。
ストーブに並べられたソーセージが小さく爆ぜる音が聞こえた。
辺りに肉のいい香りが充満する。
しばらく炙られたパンやソーセージをアルトが皿に盛りつける。
はい。と言って渡された皿には、乳白色のチーズが焼けたパンの熱さでとろけている。
「熱いから気を付けて」アルトがそう声を掛ける。
シェラザードはパンを手に取ると、ふーっと息を掛けてチーズごと口へ入れた。
コクのあるチーズの香りと小麦の素朴な香りが口の中に広がる。
とろけたチーズの熱さは想像以上で「あっ」と小さく声が出る。
「大丈夫?火傷してない。ほら、これ」と言ってアルトが木のコップに入った白い飲み物をくれた。
「ヨーグルトだよ。酸味が強いから、これにもはちみつが入ってる」
そう勧められて一口。冷たさと爽やかな酸味、はちみつの甘さが心地よい。
「美味しい。それに優しい味ですね」
シェラザードは心からそう感じた。
「昔から、我らの部族では、二日は客人として遇します」
食事の後、オルグが湯気の立つ器を手にしたまま、穏やかにそう切り出した。
「ですが、三日目からは一族と同じように過ごしていただく。それが、この冬営地の決まりです」
シェラザードは顔を上げた。
「一族と同じように、ですか」
「はい。食べる者は、働く。働く者は、同じ火にあたる。そうして冬を越します。聖王国の皆様にも、明日からは我らの仕事を少し手伝っていただきます」
オルグはそう言うと、軽く頭を下げて
「客人扱いをせぬ無礼を、どうかお許しください」と言った。
「手伝いかぁ。それで何してもらうの?」すかさずアルトが聞く。
「そうだな。男衆にはヤギやヤクの世話に雪かき、姫様方は女衆と織物をお願いするとしよう」
オルグはアルトの方を見ると、少し笑った。
「今日は集落を見て回るといい。興味があるなら、姫様をマーガレット婆さんのところへ連れて行っておくれ。あの人なら、客人相手でも遠慮せずに教えるだろう 」
「わぁ。いいな。マーガレット婆ちゃんに習えるなんて!」
アルトも笑顔でシェラザードへ向き直ると「良かったね」と言った。
* * *
アルトに連れられて集落の中を進む。朝は積もっていた雪が日差しで溶けて、所々に土の地面が見えている。
「ついた。ここだよ」周囲の住居よりも小ぶりな石作りの建物の前でアルトは足を止めた。
「織り家だよ。冬は年若い女衆は、ここで布を織るのを教わるんだ」
「マーガレット婆ちゃん!お願い。姫様連れてきたんだ」
アルトが厚い布の掛かった戸口から声を掛けると、中からしわがれた声が返ってきた。
「アルト。大きな声出すんじゃないよ。いいから早く入りな。寒さまで入っちまう」
アルトが布を押し上げると、むっとするほど暖かな空気が流れ出した。
部屋の奥では、白髪をひとつにまとめた小柄な老婆が、織りかけの布の前に座っていた。
色とりどりの糸玉が床に並び、壁には幾枚ものタペストリーが掛けられている。
そのどれもが美しく、そしてどこか古い物語を閉じ込めているように見えた。
「婆ちゃん。この子がシェラザード。聖王国の姫様なんだ」
「シェラザード殿下です、勇者様」
後ろからジーナが小さく訂正する。
だが老婆は、ちらりとシェラザードを見ると、目尻に深い皺を寄せて笑った。
「ああ。話は聞いてるさ。じゃあ、これからはシェラちゃんと呼ぶよ」
その場の空気が、ぴたりと止まった。
シェラザードも、彼女に付き従うジーナも、シンシアも、何を返せばよいのか分からずに固まる。
「どうか、シェラザード殿下と‥」 今度はシンシアの声が少し低くなった 。
マーガレットは、そんな緊張などどこ吹く風で、手元の糸を持ち上げた。
「そんな堅苦しい名、呼べるかい。あたしは年寄りだからね。長いと忘れちまうよ。ほら、ここではシェラちゃんだ。座りな。手が冷えてるだろう」
シェラザードは一瞬だけ迷い、それから小さく息を吐いた。
「……はい。よろしくお願いいたします、マーガレット様」
「ははは。様なんて柄じゃないよ。婆ちゃんでいい」
「ほらね。マーガレット婆ちゃんはそういう人だから」
アルトは笑いながらそう言った。
シェラザードは困ったように目を伏せ、それでも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「さて。どこから始めようかね」
マーガレット婆ちゃんはシェラザードを見ながら呟いた。
「あ。婆ちゃん。シェラに針仕事、教えてやってよ」
シェラザードは「シェラ」と、アルトに気安く呼ばれたことに一瞬、固まった。
本国で、第三王女をそんなふうに呼ぶ者はいない。
「勇者様!殿下に針など持たせる者は聖王国にはおりません」
シンシアが堪りかねたように強い口調でアルトに詰め寄る。
それをシェラザードが手で制してアルトへ言った。
「勇者様」
「アルト。ここではアルトでいいよ。それよりもさ。針使えるようになったほうがいいだろう?」
「いいさ。じゃあ、まずは刺繍を教えてやろう」
マーガレット婆ちゃんは、シェラザードを手招きして呼び寄せた。
「ほら、おいで。ほう。シェラちゃんはいい柄を着せてもらったね」
シェラザードの着ているダウナーの柄を見てマーガレットは言った。
「子ヤギ柄だね。子ヤギは冬に生まれる。だから冬の柄だ。これには魔除けの効果もある」
「ちょうどいい、この柄から始めよう」
マーガレットは針に黄色い糸を通すと、それと白い厚地の柔らかい布をシェラザードに手渡した。
「私に、できるでしょうか」
「まずは布の真ん中に針を刺してみな」
細い指先が、おそるおそる針を握る。だが、力が入るあまり、指先は白くなり、針先は今にも布を突き破りそうなほど目に見えて震えていた。
「はは、そんなに睨みつけたら、針のほうが怖がってしまうよ」
マーガレットはアルトを見ると「ほら、見てないで教えておやり」と言った。
アルトはシェラザードの手をそっと包み込む。シェラザードの手は小さく、冷たかった。
「いい、針は武器じゃないよ。布と糸をつなぐ架け橋だよ。親指と人差し指で、こうして優しく、包むように持つんだ」
アルトはシェラザードの指の力が抜けるように、そっと力を入れる。
そして、布の方へ導いていく。
「そう、布の裏側から、じっくりと針先を押し上げて。指を刺さないように、裏の左手はここに添えるんだ」
アルトが手を離すと、シェラザードは息を止めて、教えられた通りに布の裏から針を突き立てた。 小さく布を刺す音が聞こえる。そして針が表へ頭を出す。
「針が出た……わ!」
シェラザードの瞳に、初めて布に針を刺せた喜びが光を灯す。
「よし、そのまま糸を引いて。そう、最後まで優しくね。次は、表からすぐ隣へ、針を戻す。これを繰り返すんだ」
アルトの言葉にシェラザードは言われたままに、次の針を刺した。
「いたっ!」シェラザードの左手の親指を針が軽く刺した。
左手の親指に小さな血玉ができる。
「シェラザード様!」ジーナは慌てた。
「はは、大丈夫だよ。そうやって針仕事は覚えていくのさ。ほら、これで血を止めておやり」
マーガレットはそう言うと、小さな白い布をジーナに手渡した。
ジーナは直ぐにシェラザードが刺した親指に布を当てる。布からはハーブのような香りがした。
「姫様、もう御やめになりませんか‥後は私がやりましょう」
ジーナの言葉にシェラザードは小さく首を振って言った。
「‥いえ。私は自分でやりたいのです」
「うんうん。それでいい。じゃあ。ほら、続きを刺してみな」
マーガレットは、口の端に微笑を浮かべていた。
シェラザードはゆっくりと先程の隣へと針先を進める。そして針を刺して、糸をひく。
ゆっくり、ゆっくり。何度も何度も慎重に‥
「ほら、見てごらん。雪の上に、一歩ずつ足跡が残っていくみたいだろう?」
マーガレットがシェラザードの刺した布を指さしてそう言った。
白い布の上には、長さもちぐはぐで、不格好な黄色い糸の線が並んでいた。
まだ直線の一列だけ。歪んでいて、お世辞にも綺麗とは言えない。
けれど、初めて自分の手で『模様』を生み出した喜びで、シェラザードの頬が赤く熱を帯びている。
その瞳は、ただ嬉しいのだと、静かに物語っているようだった。
「それでいい。最初のひと針なんて、誰だってそんなもんさ」
マーガレットは、シェラザードの刺した黄色い糸を見て、満足そうにうなずいた。
「子ヤギの柄はね、足跡から始まるんだよ。雪の上に小さな足跡を残して、春まで歩いていけるようにってね」
「春まで……」
「そうさ。冬を越す祈りだ。口で唱える祈りもあるだろうが、あたしたちはこうして布に縫う。針を刺すたびに、無事でいろ、戻ってこい、春を見ろって願うんだ」
「まあ、あっちの柄はまだ早いけどね」
マーガレットは壁に掛かったタペストリーを顎で示した。
そこには、二人の人物が並び、緑の星を指差す姿が織り込まれていた。
「双子の王の柄だよ。あれは糸を間違えると、話の意味まで変わっちまう」
シェラザードが顔を上げてタペストリーを見た。
「……双子の、王なのですか」
小さく呟いた。
双子の王。緑の星。何かが、胸に重くのしかかる。
「そうさ。双子の王だ。緑の星の力を借りて兄は剣を、弟は鞘を作り、旅に出た。あれは旅立ちをあらわす。新年の柄だ」
マーガレットはそう言い、小さく歌を歌い始めた。
「必ず戻りますように。その思いを込めて、歌いながら糸を紡ぐ。再び冬に出会えるようにと祈りを込めてね」
マーガレットが歌いながら、赤と青の糸玉を手に取った。
兄と弟。
剣と鞘。
その言葉だけが、シェラザードの耳に残った。
ジーナとシンシアも息を呑んで固まっている。
しかし、アルトもマーガレットも気づかない。
ただ、古くから伝わる冬の柄の話なのだ。
「マーガレット様……いえ、マーガレット婆ちゃん。その双子の王のお話は、ルリアスでは広く伝わっているものなのですか」
「広くも何も、冬の柄だからね。織り家に来る娘はみんな習うよ」
マーガレットは赤と青の糸を撚りながら答えた。
「うん。必ず戻りますようにって、普通にヤギの集牧でも歌うしね」
アルトがそのまま小さく口ずさむ。
シェラザードにはその歌の内容はわからない。しかし、どこか懐かしい、そう感じた。
「アルト、歌はあとだ、今は針を動かすのが先。ほら、シェラちゃんも続きやりな」
シェラザードは白い布に針を刺した。
その指先は微かに震えている。
それでも、ひと針、ひと針、黄色い糸が白い布の上にいびつな線を残す。
双子の王。剣。鞘。
知りたいことは増えた。
それでも、今、彼女の手の中にあるのは、一本の針と、 白い雪の上に子ヤギが残す足跡だけだった。
* * *
熱心に刺繍を続けるシェラザードをマーガレット婆ちゃんに任せて、アルトはヤギ達の所へ向かった。
「アルト君!」
後ろからカイルの声が聞こえる。振り向くとカイルや騎士達がこちらへ歩いて来るのが見えた。
「カイルさん。それと、あれ?オリバーは?」
「‥オリバーは薬師の所だよ。頭が痛いと言ってね。他にも数人、薬を調合してもらいにね」
カイルは苦笑を浮かべて言った。
「ふーん。旅の疲れかな?薬師のミイナさんの薬は苦いけど効くからね」
「‥そうだね。オリバー達には、とびきり苦いのを調合してもらいたいよ」
カイルの言葉に後ろの騎士たちも、うんうん、と、頷いている。
そんな様子を気にすることもなく、アルトは言った。
「俺、今からヤギの所に行くけど、カイルさん達もどう?みんなに紹介するよ」
「助かる。お願いするよ」
ヤギの囲いの中では男衆が額に汗をかきながら、雪を掻き分けてヤギ達が草を食みやすいようにしていた。
雪の下に残る草はもう少ない。完全に雪に埋もれれば、後は夏から秋の終わりに乾燥させた牧草だけになる。
牧草運びは重労働だが、ヤギ達の命の綱だ。
凍るような吹雪の日でも欠かせない。
「この人達、聖王国の騎士さん達。手伝ってくれるって。ヤギの世話でいいかな?」
「おお!俺たちは歓迎するぞ!人手は多いに越したことはない。それに、あんたら、力はありそうだ。良く鍛えられてる筋肉だ!」
「‥相変わらずだね、ガルボンドおじさん」
「いいか、アルト、筋肉は正義だ。これさえあれば、大概の問題は解決できる!ってもんだ」
ガハハ、と、ガルボンドは自分の胸を叩き豪快に笑った。
ガルボンドの背後で黙々と作業を続けていた男衆たちも、
「おう!筋肉はいいぞ」
「筋肉があれば女にもモテる!かもしれない」
「筋肉があればヤギにも尊敬される。と思いたい」
口々に筋肉を称えている。その姿にカイルは口元が引きつりそうになるが、辛うじて耐えて笑顔を作り
「よろしくお願いします!」と言った。
「よし!ところでいつからにする?今日でも明日でも、どちらでもいいぞ」
「そうですね」カイルは周囲の騎士たちを見た。みんな視線だけで了解の意を伝える。
「では、本日からお願いします!」
ガルボンドは笑顔で、カイルたちに大きな木叉を渡した。
「まずはこの雪をどかしてくれ。下の草を出すんだ。ヤギどもは鼻がいいが、雪が厚いと掘り返すのに時間がかかる」
「分かりました」
カイルは木叉を握り、雪に突き立てた。 思ったより重い。
雪は白く柔らかそうに見えるのに、下の方は固く締まり、氷のようになっている。
隣では聖王国の騎士たちも黙々と雪を掻き始めた。
さすがに鍛えられているだけあって、動きは早い。
「おお、いいぞ。筋肉がちゃんと仕事をしている!ナイス筋肉!ガハハ」
ガルボンドが満足そうに頷いて、笑った。
「……お褒めいただき、光栄です」
カイルは額の汗を拭いながら、そう答えた。
しばらく雪かきを続けていると、囲いの奥から誰かの歌声が聞こえてきた。
その声に合わせるように歌が広がっていく。
気が付くと、カイルの隣で作業していたアルトも歌い始めた。
「ねえ、アルト君。その歌って前にも歌ってたよね」
「ああ。この歌?『必ず戻りますように』だよ。そろそろ集牧しようかって合図だね」
雪を掻く音。ヤギの鳴き声。
木叉が凍った地面を叩く音。
その中に、ゆったりとした節回しの歌が混じっていく。
「本当は、春に放牧地へ出る時に歌うんだよ。冬にはまたここへ戻ってこられますようにって」
アルトは当然のように答えた。
「山で何があっても、吹雪にあっても、女神様が怒っても、無事に帰れますようにっていう、まじない歌」
女神の怒り。
その言葉に、カイルの手が止まった。
聖王国でそれは、子供を戒める昔話の中に必ず出てくる言葉だった。
女神の怒りを買えば、魔物になる。
だが、今のアルトの口ぶりは、戒めではなかった。
旅の無事を願う歌の中に、当たり前のように混じっていた。
「ねぇ。アルト君。この歌。俺たちが聞いてもいいの?」
気が付くとカイルは、そうアルトに尋ねていた。
「え?なんで?ただの歌だよ?」
アルトは不思議そうに首を傾げ、それから囲いの奥へ顔を向けた。
「ガルボンドおじさん!この歌、みんなに聞かせたら駄目だった?」
そのアルトの行動に、カイルは、木叉を握ったまま固まった。
「歌だぞ? 聞いて悪い歌なんてあるか!」
ガルボンドはガハハと大声で笑って答えた。
カイルは木叉を握り直した。雪の下から、枯れた草が少しずつ顔を出す。
その上で、ヤギたちは何事もなかったように草を食み始めた。
だがカイルの耳には、まだ「女神の怒り」という言葉が残っていた。
それは、歌の中に入れるには、あまりにも不穏な言葉に思えた。
* * *
薬師ミイナの家は、冬営地の端にあった。
外から見れば小さな石造りの住居だが、中へ入ると、天井から干した草束や根が吊るされ、壁際には小さな壺や木箱が隙間なく並んでいた。
その中央で、オリバーは両手で器を抱えたまま、深刻な顔をしていた。
「なんか、すごい匂いしてます。飲んだらあかん。あかんやつです」
器の中には、黒に近い濃い茶色の薬湯が揺れている。
湯気と共に立ち上る匂いは、苦味と青臭さと、何かよく分からない刺激をまとめて煮詰めたようだった。
オリバーの背後には、すでに薬湯を飲み終えた騎士たちが数名、壁にもたれて沈黙している。
「匂いなんて薬効に関係ない。飲め」
ミイナはなんでもない事のように言った。
「関係あります。少なくとも、僕の生存本能には直結してます」
「乳酒を飲み過ぎて二日酔いになった者に、生存本能を語る資格はないよ」
ミイナはそう言いながら、乳鉢の中で黒い木の実をすりつぶした。
ごり、ごり、と乾いた音が響くたび、さらに刺激の強い匂いが広がっていく。
「オリバー居る?」
「うっ。ヤギマタギの匂いがする。すごい匂いだね」
戸口から顔を出したアルトが、鼻をつまんだ。
「当たり前だろう。ヤギマタギは二日酔いの特効薬だ。これさえ飲めば酔いも忘れて目が覚める」
「忘れるんだ‥。目が覚めるって物理ですね」
オリバーが呟く。
「オリバー。カイルさんが心配してたよ。苦い薬飲んで早くよくなれってさ」
「それは本当に心配ですか」
オリバーは器を抱えたまま、恨めしそうにアルトを見た。
ミイナはすり潰した黒い実を、丸薬の材料に加えた。
「これは後で持っていきな。ヤギマタギの丸薬だ。深酒にも効くし、山歩きの魔除けにもなる」
「……魔除け、ですか。薬なのに?」
オリバーの目が、少し細くなった。
「うん。匂い。きついからね。魔除けになるよ」
「アルト。黙って戸を開けてな」
アルトは静かに入口の戸を開いた。新鮮な空気が室内に流れ込む。
「薬は体を守る。魔除けは旅の道を守る。山じゃ、どっちも同じだ」
ミイナは顔も上げずに答えた。
その言葉に、オリバーは黙った。
魔除け。道を守る。
記録しておくべき言葉だ。
そう思ったが、今のオリバーの手には筆ではなく、黒い薬湯の器しかなかった。
「ほら。さっさと飲め。乳酒ごときで仲間に心配かけるな」
オリバーは手の中の器を見る。黒い液体がゆらりと揺れる。
「‥余計なことを考えずに、一気に飲め」
「‥もう考えてしまいました」
ミイナは視線でオリバーに飲めと促した。
オリバーはしばらく天を仰いだ。それから、意を決して器を口に運ぶと‥
一息に飲み込んだ。
「……っ」 声にならない声がもれる。
アルトが心配そうにのぞき込む。
「オリバー。大丈夫。顔色、どす黒いけど」
オリバーはゆっくりと器を床に置いた。
「驚くべき攻撃力です。それでは僕はこの辺で‥」
ふらふらと幽鬼のように立ち上がったかと思うと、次の瞬間、入口へ向かって猛然と駆け出した。
「オリバー!みんなはヤギの所に居るからね~」
アルトはその背中を見送りながら手を振った。




