ルリアス、動き始めます。
「ほら。あの山を越えたらトルクスだ。もう少し頑張ってくれ」
ガレリアはヤギの口元に赤いリンゴの実を差し出して、そう言った。
ヤギが小気味よい音を立てて、リンゴを咀嚼する。
山の中の細い街道脇。辺りに甘い香りが立ち込めた。
リンゴを食べ終わるのを待って、再びヤギに騎乗する。
……今頃、アルトと聖王国の皆はどうしているだろうか。
オルグは、不用意なことは言わないはずだ。
カイルもオリバーもいる。
殿下も、無闇に踏み込む方ではない。
きっと大丈夫だ。そう、大丈夫。
そう考えた途端、アルトの顔が妙にはっきりと浮かんだ。
その時、なぜか胃の奥が重くなった。
もうすぐ、トルクスが見えるだろう。
さて、父に何と報告すればよいか。
その答えだけは、まだ見つかっていなかった。
* * *
北方山脈の中腹、険しい岩肌を縫うように続く細い坂道を登り詰めた先に、その都市は姿を現す。
周囲を切り立った断崖と、山肌から切り出した強固な灰花崗岩の城壁で囲まれた都市。
その規模は聖王国の一地方都市よりも劣るだろう。
煌びやかな聖堂も宮殿もない。しかし、その佇まいは堅牢な盾を思わせる風情がある。
城塞都市ルナリス行政区トルクス。
城門をくぐれば、そこにはガレリアのよく知る、整然とした営みがある。
何層もの石畳のテラスのような家々が続く。狭い土地を有効に使うため、建物はどれも質素で頑丈な石造りだが、路地には塵一つ落ちていない。
街の中央、少し開けた広場に面して建つのは、華美な装飾を一切削ぎ落とした、石造りの実用的な政庁だ。
広場を行き交う人々、革鎧を着た衛兵。毛織物の行商人。この都市で暮らす一般市民。
―その表情は穏やかだ。そこには自らの都市に対する静かな誇りや、統治に対する信頼が滲み出ていた。
早朝にトルクスへ辿り着いたガレリアは、城門前に整然と並ぶ荷駄の最後尾へとヤギを進めた。
城門前では手早く通行証を確認する衛士や役人の姿が見える。
その中に、見知った顔があった。
「ガレリア様!お戻りでしたか」
「ああ。今戻った」
「御父君のアーデル閣下も、ガレリア様のお帰りをお待ちしておられます。どうぞこちらへ‥」
「いや。ここで順番を待つ」
ガレリアは先を促す役人に断りを入れた。
役人は困った様に眉を寄せ、小さな声でガレリアの耳元に囁いた。
「戻り次第、自分の所へ連れてくるようにと、申し付かっております」
その言葉に、ガレリアは天を仰いだ。
さながら今の気分は、女神の宣告を待つ子ヤギのようだと、自嘲しながら。
ガレリアは旅装のまま、入室の許可を得て父の待つ執務室へと足を踏み入れた。
真っ先に目に入るのは、壁一面を埋め尽くす膨大な数の木製棚と、そこに整然と収められた台帳、そして細かく描き込まれたルリアス全土の巨大な地図だった。
部屋の主が座る机も、頑丈さだけが取り柄の使い込まれたオーク材の机だ。
その上には、インク壺と何本もの羽根ペン、そして現在進行形で決裁を待つ書類の山が積みあがっていた。
机の向こうから顔を上げたその男は、まるで老練な前線指揮官のようだった。
寡黙を絵に描いたような引き締まった唇と、日焼けして刻まれた深い目尻の皺。
だが、その奥にある焦げ茶の瞳はガレリアと同じ色だ。
少しの濁りもなく鋭く、そして深い理性を表している。
ガレリアは父からの鋭い視線を受けて、僅かに怯んだ。
しかし、それを表に出してはならない。子供の頃から目の前の父に叩き込まれた教訓だ。
「ただいま戻りました」
「報告を聞こう」
父は、息子の帰還を労う言葉を口にしなかった。
ガレリアも、それを期待してはいなかった。
「現在、シェラザード第三王女をはじめとする、聖王国使節団十三名は、「ルーガリア一族」冬営地にて滞在しております。表向きは使節団となっておりますが、現状は調査団という認識です」
「なぜ、滞在地にルーガリアを選んだ」
アーデルの声は、何の感情の温度も感じさせない。ただ、事実を問う響きがある。
「南の峠から入った場合、最も近く、安全に受け入れ可能な冬営地がルーガリアでした。加えて、聖王国側にはアルトが同行しております。殿下を含む使節団の警戒を和らげるには、あの一族が最適と判断しました」
「最適」
アーデルは短く繰り返した。
「はい。温厚で外部との交流が多いことも理由です。それに‥」
ガレリアは、その続きを口にするか、一瞬迷った。その迷いを見逃す相手ではないのに。
「続けろ」
アーデルの声が若干低くなる。
「オルグには、必要以上の説明は控えるよう伝えております」
アーデルは視線を手元の書類に落とした。
「あの一族は、悪意はない。社交性もある。だが、素直すぎる。秘すべき事と話して良い事の線引きも甘い。その結果が今回の使節団だ、違うか」
その言葉に、ガレリアは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
アーデルは顔を上げると静かに言った。
「それに聖王国の王女は、ただの客人ではない。聖剣教会の巫女姫だ」
「承知しております」
「ならば、理解しているのだな。彼女が何を聞き、何を知るか。それはどんな外交文書よりも重い結末を生むことがある」
ガレリアは返す言葉がなかった。
ただ額の汗が流れて頬を伝う。
それはトルクスの乾いた冷気に触れて瞬時に冷える。
それでも、頬の熱さを完全には冷やしてはくれなかった。
「今すぐオルグに伝令を出せ」
アーデルは静かに言った。
「聖王国側への説明は、族長会議の後だ。それまでは語るなと伝えろ」
「承知いたしました」
ガレリアは即座に答えた。
…… しかし、不安が胸をよぎる。
あの一族が、今日まで何も語らずいるだろうか。
善良で聞かれたら素直に答えるだろう。
悪意もない。
腹芸などはできはしない。
隠す必要があるとすら思わないだろう。
「……すでに、何か耳に入っていなければよいのですが」
思わず零れた言葉に、アーデルの視線が鋭くなった。
「希望的楽観だな。想定していなかったのか」
「いえ。考えてはおりました」
「ならば対処しろ。それだけの話だ」
ガレリアは唇を引き結んだ。
「はい。失礼いたしました」
アーデルは机上の地図へ視線を落とした。
「早急に族長会議の招集をかける。もはや聖王国への対応だけの話ではない」
「それは、ルリアスの内部問題に発展するとお考えですか」
「そうだ。ルリアスは一枚岩ではない。各部族、それぞれの立場と思惑がある。過去も現在もだ。だからこそ、確認せねばならん。我ら自身が「ルリアス」の何を知り、何を知らぬのかをな」
ガレリアは深く頭を下げた。
「承知しました」
「だからこそ、おまえに問う。アルトは祠で何をした。最初から、事実だけを報告せよ」
アーデルはようやく、正面からガレリアを見た。
ガレリアは、喉の奥が乾くのを感じた。
ガレリアの報告の本題は、これからだった。
「祠で…」
ガレリアは一瞬言葉に詰まった。
何を、どう説明すべきか。トルクスに戻る間も、ずっとその事を考えていた。
「どうした。早くしろ」
「はい。アダンの集落にある祠でルリアスの古語で書かれた碑文『偉大なる王 ルーン・グリン』をアルトが読み上げました。その上、アルトは聖剣の祝福を使い、その直後、祠の泉が緑色に光りました。何が起きたのかは、現時点では判断できておりません」
「……おそらくはまだ、光り続けているかと」
「碑文がルリアス古語であったことは、聖王国側も確認しております。シェラザード殿下は、聖剣教会として、ルーン・グリン王と聖剣、聖鞘の関係を知る必要があると判断されました」
「‥緑の光か。なるほどな。それで、今回の事態となったわけだな」
アーデルはそれだけ言うと、暫し目を閉じた。
そして、再び、ガレリアを一瞥すると
「聖剣はアルトが持ち帰ったのだな」
念を押すように聞いた。
「はい。現在もアルトの手元にございます」
「ふむ。ならば、春の祭事は特別なものになるな」
ガレリアは息を呑んだ。
春の祭事。
山々の雪解けと、各部族の再会を祝うルリアスの大祭。
「……百五十年ぶりに、聖剣を持つ者がルリアスで春を迎えるわけだ。我らも忙しくなる」
ガレリアはその言葉を心の中で繰り返した。聖剣を持つ者を迎える大祭。それは百五十年ぶりのことになる。
伝承の中で語られた物語。
それは、どのような物語として語られることになるのか。
その結末で、ルリアスと聖王国の関係はどう変わるのか。
「愚かだな」
アーデルが呟くように言った。
「それは‥」
「我らの事だ。長い年月の中で多くを失い、祠の事も、その碑文すら忘れた。今も、あの反応の意味すらわからず、聖王国と外交を始めた」
ガレリアは何も言えなかった。
「族長会議までに、古い歌、織物、口伝、祭祀記録を洗え。ルーガリアだけではない。各部族すべてだ」
「承知しました」
「記録に残っていないものほど、軽んじるな。歌や柄に残るものは、書類より古い場合がある」
「各部族長へ伝令を出せ」
「春の祭事に先立ち、古い歌・織物・口伝・祭祀記録を持参せよ」
ガレリアは静かに頭を下げた。
父はもう動き始めている。
まだ何も分からないうちから、分からないものに備え始めている。




