勇者、ここから先はヤギと共に。
かつて聖王国へ向かうために通ったこの道は、緑の牧歌的な風景の中を進む道だった。
緩やかな斜面には色とりどりの高山植物が咲き乱れ、よく冷えた清らかな湧き水のせせらぎが道の傍を流れ、耳を楽しませる。
吹く風は爽やかな緑と花の香りを運び、人々に安らぎを感じさせた。
人の往来は少ないが、道行く旅人の心を癒す。そんな楽園を思わせる街道だった。
だが冬の訪れでその風景は一変した。
緑の斜面は、枯れた草とむき出しの岩肌が作る灰色の世界へと変わり、美しいせせらぎも聞こえない。
夏には水音と虫の声が重なっていた道も、今は風の音だけが支配している。
ただ、凍り付いた水辺は周囲に針のような鋭いつららを光らせていた。
空から降り始めた雪が、その荒涼とした風景に白い輪郭を描いていく。
アルトはコクロウの背から、その移り変わりを眺め、北の山の風に身を任せていた。
爽やかだった高原の風も、今や遮るもののない岩場を吹き抜ける、肌を切り裂くような寒風へと変貌していた。
ああ。この風は北方の山の風だ。人すら凍らせるこの北風も、アルトには慣れ親しんだ故郷の気配だった。
細い山道の地面はすでに凍りはじめ、馬の蹄がカツカツと音を立てる。
鼻から白い息を吐きながら進む馬たちも、この先の険しい冬山を人を背に乗せたまま進むのは、もう難しそうだ。
「さ…さ…むい。氷…になる」
オリバーが何か言おうとするが、言葉が上手く出ないようだ。
それに、ビュービューと音を立てて岩肌を通り過ぎてゆく北風が、オリバーの声を消してゆく。
「オリバー生きてる?」
アルトは寒がりのオリバーを気遣い声を掛ける。
「あ…か……」それ以上は声にならず、首から顔の下半分に巻いたマフラーの隙間から白い吐息が漏れるだけだった。
「団長~。オリバー限界みたい!」
先頭を行くアルトが最後方のガレリアに声を掛ける。
縦に長く伸びた隊列は先頭がコクロウの背に乗るアルト、その後にカイル、オリバーと続き、シェラザードや教会騎士たち。最後方にガレリアと騎士団員が詰めている。
最後方のガレリアから声が返る。
「この先の峠の入り口で合流予定だ!あと少し、頑張るしかない」
「聞こえた?オリバー?もう少しだよ」
アルトがオリバーへ声を掛ける。微かにその首が縦に頷いた。
「話には聞いてたけど‥すごく寒いね」
吹き付ける風に時々声がかき消されるが、カイルの声も少し震えている。
「うん。まだ今だから峠も越えられるけど、この街道もそろそろ雪が積もって通れないよ。馬は滑るからね。雪が積もって動けるのはヤクかヤギだけだからね」
アルトが明るい声で答えた。
その声はいつも以上に楽しげに聞こえる。やはり、故郷に帰るのがうれしいのだろう。
まさか、これだけ長い滞在になるとは思ってもいなかっただろうし‥。
カイルはそう思うと、少しアルトの置かれた立場に同情した。
しかし‥理解はしても、勇者はアルトだけだ。だから、せめて手助けになろう。
ーーカイルはそう思った。
街道の高原地帯を抜け、カラマツや背の低いハイマツやコケモモの茂る樹林帯に入った。
冬に落葉するカラマツの林は、日を遮るものもなく明るい。
その反面、雪も地上へ届きやすい。本格的な雪になれば歩くことすら難しくなる。
「なんとか、雪が積もる前に抜けられそうだな」
ガレリアは馬を止めて、周囲を見渡すとそう呟いた。
隊列は歩みを止めて、馬上でひと休みしている。
「姫様、大丈夫ですか?」
騎士たちのシェラザードを気遣う声も聞こえる。
「ええ、問題ありません」
気丈な声も、少し寒さに震えているように聞こえた。
「迎え、まだかな?」
アルトはコクロウの頭に積もった白い雪を払いながら、街道の続く先の岩場を見つめている。
この樹林帯の先は峠道になる。
樹木すら育たない厳しい風と雪の山道は馬で越えるのは難しい。
そこで、この樹林帯でルリアスからの迎えを待つことになっている。
「ルリアスの迎えって‥」
カイルが口を開こうとした時だった。
風の音に混じって、小さな鈴の音が聞こえた。
最初は一つ。 やがて二つ、三つ。
岩場の向こうから、大きなヤギの群れが姿を現した。
アルトは大きな声で叫んだ。
「迎えだ!おおーい!」
「おおーい!アルトか!」
向こうからも大きな声で返事がくる。
やがて、次々と現れたヤギの数は15頭。
みな、厚い冬毛に覆われた巨大なルリアスの山岳ヤギたち。
その陰から一人の青年が姿を現した。
「遅いぞ、アルト!雪が降る前に来いって言ったろ!」
「ちゃんと来たよ!」
「ちゃんと、じゃない。ぎりぎりだ」
青年もアルトも笑顔で親しげに言葉を交わす。
「ソール。久しぶりだな。迎え感謝する」
ガレリアが馬を降りて二人の元へやってきた。
「お久しぶりです!ガレリアさん。アルトが色々とすみませんでした!」
ガレリアから「ソール」と呼ばれた青年は、言い切ると勢い良く頭を下げた。
「さぁ!馬から荷をヤギに積み替えて!」
「人もヤギに乗ってください!」
ソールがテキパキと指示を飛ばす。騎士たちがアルトから手順を聞きながら、次々と荷をヤギへ移していく。
「あの‥ぼ、僕も‥ヤギ乗るんですか?」
まるで機械仕掛けの人形のようなぎこちない動きで、オリバーがヤギの前に立ち尽くす。
その顔色は既にうっすらと積もりだした雪よりも白い。
「当たり前だよ!オリバー、ほら早く!」
元気いっぱいのアルトに急かされたオリバーは、よじ登るようにして、何とかヤギの背に収まった。
シェラザードの前にも、白い冬毛に覆われた山岳ヤギが引かれてきた。
「殿下、こちらへ」
教会騎士が手を貸そうとしたが、シェラザードは一度だけヤギの大きな瞳を見つめ、自ら手を伸ばした。
「…よろしくお願いします」
そしてヤギに丁寧に声を掛けた。ヤギはまるで返事をするように静かに鼻を鳴らした。
ヤギの背は思いのほか高かった。
その背から山の風景を見下ろした時、シェラザードは、ここがもう聖王国ではないのだと自覚した。
北方山脈の彼方、ルリアスへの入り口に立っているのだ、と。
ーーこうして、人という重い荷を下ろした馬たちは、樹林帯に住む木こりへと預けられた。
明日には、麓の村まで馬たちを移動させてくれる手はずになっている。
巨大な山岳ヤギの一行は、小雪の舞う北方山脈の道をルリアスへと進んでいった。




