勇者、イノシシが足りません。
辿り着いたのは、岩山の間に深く削られた谷底だった。
北方の乾いた風が岩の間を吹き抜ける。
目に入るのは、痩せた這い松の茂みが岩間を埋めるぐらいだ。
谷を囲む岩肌を見上げながら、皆が冷たい風にコートの襟を立てる。
谷に入る前に馬は数人の騎士を見張りに立てて置いてきた。
岩場の山岳地帯に慣れた俺やガレリア団長と違い、カイルや騎士達の足取りは慎重だ。
唯一、危なげなく歩を進めるのは、身体が岩並みのキャリング大臣ぐらいだ。
オリバーは‥‥。まぁ、今は無駄に口を開く余裕すらなさそう。大丈夫かな?
「オリバー、馬と残ればよかったのに‥」
「そんなん‥‥僕が‥いてへ‥‥誰が‥」
「もう、喋らなくていいよ」足元危ないからね、集中して!
しかし、本当にこんな谷にイノシシの群れなんて居たのかな?
耳を澄ませても、生き物の気配はおろか、鳥の鳴き声も、虫の羽音すら聞こえない。
植生は痩せた這い松と枯れかけた草‥
「こんな場所でイノシシの群れとか、ありえないんだけど?」
「‥どういう事なの?勇者様?」
「だって、食べるものが何もないよ?数匹ならともかく、大規模な群れって‥」
そう言いかけた時だ、吹き抜ける風に、強烈な匂いが混ざる。
――獣臭。しかもこれは‥
「魔獣の匂いです。魔素が風に含まれてます!」
さっきまで息も絶え絶えのオリバーが、しっかりとした口調で言った。
「この風上に居るって事ね」キャリングが腰の刀をゆっくり抜いて谷を見据える。
「‥‥いや、向こうから来ます!」
僅かに岩を通し足元から伝わる振動。間違いない、向こうからこちらへ――来る。
「あら、迎撃戦って事ね。いいわよ」
「勇者様とガレリア殿はそうね、あそこで控えてて」
「それと‥オリバーは邪魔だから後ろで隠れてなさい」
キャリングが谷底からやや高い場所にある岩棚を指さす。オリバーは慌てて後方へ逃げた。
「キャリング様!正面気を付けてね!」
俺と団長は素早く岩棚によじ登りながら声をかけた。
「そう‥では、盾は前へ!弓は側面と後方に散開して!前面にはワタクシが出る!」
「勇者様は岩棚で待機。危険がなくなってから祝福をお願いするわ」
「まずアタクシたちで止める。あなたは絶対に前へ出ないで」
「はい!頑張ります!」俺は岩棚の上でリーングリンの柄を握り構え、力強く答えた。
狭い谷底に、何かが駆ける振動が伝わる。
それは徐々に大きくなり、砂利を蹴る音や岩の転がる音が混じる。
風に含まれる魔素の臭いがきつくなる‥
「来た!」
正面から迫るのは、目を赤く血走らせ、飢え狂った様な巨猪。
――その頭数は5頭。地響きと共に突進してくる凶暴な質量に対し、 盾を持った大柄な騎士たちは――受け止めた。僅かに砂利で足を滑らせるが、後方の仲間がその背を支える。
ドォゴン!!という肉と金属がぶつかる激しい衝撃音が狭い谷に響き渡る。
その正面で、キャリングは「まずは一頭」と静かに呟いた。
岩のような剛腕で握る大剣を軽々と目の前に迫るイノシシへ振り下ろした。
――グシャリ、と骨が砕ける嫌な音。
キャリングの一太刀は、イノシシの頭蓋骨を粉砕し、そのまま岩肌に巨体を沈めさせた。
――即死である。
「次は貴様ね」そう呟くと、返す刀で真横のイノシシの首を――今度は切り落とした。
ブン!という風を切る大剣の風圧と倒れる巨体。
ニヤリと不敵にキャリングは笑う。「今度は――」キャリングはそのまま身体を捻ると、イノシシの首を横から剣で突く。
ブォォォォオォーー狂った様に雄叫びを挙げながらキャリングを血走った赤い目が捉える。
首から血を噴き出しながらキャリングに突進した!
ドンッ!と受け止めたキャリングの体が半歩後方へ下がる。
「閣下!」周囲の騎士がざわめく。
しかし、続く一撃――振り下ろされた大剣がイノシシの頭を勝ち割る。
吹き出す血しぶきを辺りにまき散らし、巨猪は沈んだ。
「もう。だから魔獣は嫌いなのよ 」
騎士達が受け止めた巨猪を、キャリングは次々と屠っていく
「はぁ‥すご‥」俺は呆然とその姿をただ見つめていた。
「‥すごいな、凄まじいと言うべきか」ガレリア団長の呟きも聞こえる。
キャリングは五頭すべてを仕留めると、大剣を一振りして血を払った。
全身を返り血で赤く染めたその姿は――鬼だ。魔獣よりも人間のほうが怖いよ!
俺は倒れたイノシシに残る魔素を払うため、リーングリンを抜いて控えめに祝福を撒いた。
キラキラエフェクトが倒れたイノシシとキャリングの上に降り注ぐ。
俺は岩棚から飛び降りると、倒れたイノシシの周囲を見渡した。
キラキラと降り注ぐ祝福の中、イノシシの赤く濁った眼はその色を失っていく‥
俺は心の中で「静まり給えー」とキラキラの中に佇むキャリング大臣を見て唱えた。
「あれ?おかしい‥‥」
俺は周囲に残るイノシシたちの足跡を見て違和感を覚えた。
「アルト、どうした?」ガレリア団長が近づいて来た。
俺は地面にしゃがみ、イノシシの足跡を見て「数が‥多い」そう感じた。
谷底の土砂に残された蹄の跡は5頭分ではなく‥もっともっと多い。
「団長!おかしいよ」
「何がだ?」ガレリアが眉を顰める。
「イノシシの数!これは5頭じゃない!」
「もっと多くのイノシシが居たはずなんだ!」
「スワール村を襲ったのだって、5頭だけじゃないはずだよ」
谷の奥に続く足跡は‥こちら向きではない。奥へ?ではどこへ?
俺は谷の奥へ向かって駆けだした。
「アルト!単独行動はよせ!」ガレリアが追いかけて来る。
冷たい風が吹き付ける。その風を切りながら暫く駆けたその先。
そこには、谷を抜ける脇道があった。‥そこに足跡は続いている。
「あった!」
「アルト君!」「ちょっと勇者様!」やがてキャリングやカイルも追いついて来た。
「これを見て!」
「‥群れが分かれたんだ。これ‥どこに?この先は何処に繋がるの?」
俺は、不吉な予感を抱きながら、その足跡を指さす。
谷を抜けて南へと進むだろうその脇道、その先に無数のイノシシの足跡が続いていた。
キャリングが騎士から地図を受け取り、小さく息をのんだ。
「……勇者様。言い難いのだけど、ハーゲン村の方角になるわ」
俺は大きく目を開いて、脇道の先を見詰めた。
いつの間にか、リーングリンの柄を握る左手が小刻みに震えていた。




