勇者。自慢のヤギがやってきた。
その獣はまるで闇がそのまま獣の形を作り出したような、完全な黒であった。
漆黒の毛並みが、動くたびに月に照らされて輝きを生む。
もし、静止してしまえば、闇に同化して人の目でその姿を追うことは難しいだろう。
獣の体高は成人男性の胸程もあるだろうか。
その強靭でありながら、しなやかな体躯。だが、もっとも特徴的なのは、その頭部。
漆黒の角は、大きく、禍々しく捻じれ螺旋を描いていた。
その獣を初めて目にした者は、ある者は恐怖に慄き、ある者は畏怖に震える。
‥それだけのオーラを持つ存在であった。
「コクロウ。そろそろ行こうか」
いつの間にか、その獣に並ぶ人影があった。
漆黒の獣は振り返った。
ーーその赤金色の瞳は、後ろに続く数多の同族が犇めき合う様を見据えていた。
* * *
「カイルさん!ついに来るんです!」
早朝の訓練でアルトが開口一番、そう嬉しそうに言った。
「来る?何が?」
「ルリアスから、牧場の!」
なるほど、勇者への報酬で「ハーゲン村」へ牧場を作ることを許されたと聞いた。
なんでも、「ルリアス式牧場経営」を企画したとか。
その準備段階で、ルリアスから誰か来るのだろうか?
「それでですね〜。今から行ってきていいですか!」
「えっ?行くってハーゲン村?」
「はい!団長の許可はもらってます!」
「はいはい。おはようさん」
そこに、いつもの着古したローブ姿のオリバーが現れた。
「カイルさんも、おはようです」
「オリバー、どうしてここに?」
「今日は勇者さんの同行者です、ハーゲン村へのね」
「そうそう‥」オリバーは懐から一枚の紙を取り出した。
「はい。辞令です。カイルさん宛、キャリング閣下から」
そう言ってカイルに一枚の紙を手渡した。
「カイル・ド・ランズに命ずる。三日間、勇者アルトの護衛としてハーゲン村へ同行せよ 」
‥‥そう書かれていたのである。
カイルは静かに紙をしまうと天を仰いだ。
‥この二人を連れて遠出?マジですか?勘弁してほしい。そう思いながら‥
* * *
「うわー。すっかり牧場できてるーー!」
ほぼ一日、馬を駆って到着したハーゲン村は、そろそろ日暮れが近い時間帯だった。
「はぁ〜。疲れた〜。マジでお尻痛い。腰も痛い」
「‥オリバーも従軍してたんだから、これぐらいの早駆けも訓練してただろう?」
「カイルさん、僕が軍辞めて、どれだけ経ったと思ってます?」
「毎日訓練してる、現役さんとは違います」
アルト、カイル、オリバーの三人で馬を降りて村長宅へ挨拶へ向かった。
「おお!勇者様!ようこそ御越し下さいました!」
出迎えた村長は、前回の時とはまるで別人だ。
ニコニコと明るい笑顔、しっかりとした足取りは、まるで10歳以上若返ったようだ。
‥そういえば、村の建物も綺麗に修繕がなされ、新しい住居も見える。
「はい。畜舎や牧柵の設置に合わせて、我々の住宅の建て替えや修繕もして頂けました」
「それに、新たに移住者も増えて、村の人口も増えたのです!」
「うん。牧場だけじゃなくて、毛織物作りもあるから」
「ルリアスの毛織物は、もっと広く売れると思うんですよ。でも、良さを知ってもらうには、まず実際にヤギを育てて、毛を刈って、布にするところまで見てもらわないと」
「だから、まずはここで成功させたいんです。そうすれば、ルリアスの毛織物をもっと多くの人に知ってもらえると思うから」
アルトも楽しそうに村長と会話を続けている。
こういうところは、流石に外交団に選ばれただけはあるなとカイルは思う。
寒村という呼び方が相応しかったハーゲン村は、その様相を大きく変えていた。
牧柵で仕切られた牧場も広いが、その畜舎の大きさは目を見張るものがあった。
「随分と大きな畜舎だね。高さも厩舎並みだね」
カイルはまだ新しい畜舎に入り、天井を見ながら言った。
「ルリアスから来るヤギは『山岳ヤギ』なんですよ。だから、平地のヤギより体高が高くて大きいですよ!」
「へぇ~」
‥その時、ズン‥と鈍い地響きが畜舎を揺らした。
「え?なんやこれ?」オリバーはその場で立ち尽くす。
「!もしかしたら!」アルトは外へ向かい駆け出した。
「アルト君!待って!」カイルがその後を追う。
畜舎から出た時、夕日が遠くの山並みに沈もうとしていた。
‥沈みゆく夕日を背に、黒々とした獣のシルエットが浮かび上がっていた。
どこまでも、禍々しい、その大きな黒い影‥
「!!まさか!魔獣!」カイルは剣を抜いた!
「アルト君!戻って!」
アルトは止まることなく魔獣へ向かい駆けてゆく。
日が沈んでゆく。その薄闇の中、魔獣の目が赤金色に光る。
‥しかも、その背後から赤金色の光が一つ、また一つと増えていく。丘の向こうから押し寄せるように――。
「アルト君!よせ!戻るんだ!!」
カイルは必死にアルトを追う。しかし、岩がちの高地を駆けるアルトの脚には敵わない。
その距離は徐々に開いていく‥
そして、あの黒い影も、アルトへ向かい突進してきた。
「くそーー!」
カイルは必死に追う。「勇者さん、止まってーー!」
オリバーのアルトを呼ぶ鬼気迫る声も背後から聞こえる。
なぜ、なぜ、アルトは止まらないんだ!
獣の姿が薄闇にもはっきりと見える。その闇色の姿。大きさは軍馬をも凌ぐ。
頭から突き出た螺旋を描く漆黒の角。禍々しいばかりのオーラ‥間違いなく魔獣だ!
ーーその時。
アルトが魔獣へ飛びついた。
「!!アルト君!」「勇者さん!!」
「コクロウ~~来てくれたんだ!嬉しい!!」
そう言いながら‥‥アルトはその魔獣の首にぶら下がる様にしがみ付いていた。
「え??」
コクロウとアルトが呼ぶ魔獣も、嬉しそうにアルトにあの禍々しい角を押し付けている。
そして、頭でアルトを軽々とその背へと乗せた。
そのまま、ゆっくりとカイル達へ近づいて来る。
「ヒッ!」背後からオリバーの息をのむ声が聞こえた。
「カイルさ~ん」アルトはその魔獣の背中から手を振る。
その姿を見つめながら、カイルは何が起こっているのか、理解できなかった‥
「つまり、その魔獣‥違った、その、なんて言うか、ヤギなんだ‥」
「ハイ!うちのヤギ!うちのヤギの頂点!」
「コクロウという名前です。黒色山岳ヤギのハイネール種です」
「コクロウ、こちらはカイルさんとオリバー。お世話になってるんだ!」
コクロウと呼ばれた魔獣改め、ヤギは、カイル達を一瞥すると
「フン」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「こら~お世話になってるんだからさ~ちゃんと挨拶してよ」
アルトは満面の笑みで、その、巨大な真っ黒のヤギ?の背を撫でる。
嬉しそうに何度も何度も‥
その背後では、同じように巨大で、様々な色のヤギ達が次々と畜舎へ入って行った。
「あの、勇者さん、この生き物、ほんまにヤギですよね?」
オリバーが恐る恐るといった雰囲気で確認する。
だよな。どうみても魔獣と言われたほうが納得がいく。
「え〜?かっこいいでしょう?うちのヤギ」
‥どうやらヤギらしい。
「アルト!」背後から若い女性の声が聞こえた。
「あ!ダリアねーさん」
その女性は、美しかった。緩やかなウェーブを作る栗色の巻き毛。
艶やかに濡れたような瞳は明るい葡萄酒のようだ。
‥そして、民族衣装に身を包んだその姿はスラリとしながらも、女性らしいラインを形作っていた。
カイルは、その姿から目を離せなかった。
その女性、ダリアは快活そうな人だった。
「アルトがいつもお世話になっています」そう挨拶をしてくれた。
「あ、いや、別に‥」
おかしい、上手く返事が返せない。なんでだ?
「いやー本当に、お世話させて貰ってます」
気軽く返答を返すオリバーが憎らしくさえ感じる。
苦手意識があるわけではない、と思う。
颯爽とあの巨大ヤギを追い立て畜舎へ誘導する身のこなし、かなりできる。
「ヤギの毛色、バリエーションありますねぇ」
「基本は白、黒、茶の三色だよ。濃淡の違いもあるからねー」
近くでオリバーがアルト君から説明を受けている。
その声も意識を通り過ぎてゆく。
ぼんやりとダリアを目で追っていると、不意に強い殺気を感じた。
気が付くと直ぐ近くで1頭の白い魔‥違ったヤギがこちらへ向かい突進攻撃を仕掛けようとしていた。
ヤバい!と感じたその時‥
「オラァーー、調子に乗ってるんじゃないぞ!」
という、迫力のある叫び声と、風を割く鞭の音。
鞭は白ヤギの螺旋角を的確に捕えると、そのままヤギの顔を背けさせる。
気勢をそがれたヤギは大人しくなり、そのままダリアに従って畜舎へとトコトコ歩いていく。
そこには完全に上下関係が構築されていた。
「あなた!強いよね」
戻ってきたダリアが声をかけてきた。
「ヤギのオスは強いオスに反応するんだよね。だから、うちのヤギが認めた‥ええっと、カイルさん?だよね?」
「あなたの強さは本物ってこと!」
快活に笑いながら彼女は言った。
「今度は私にもアルトみたいに稽古つけてよ。聖王国の騎士様に稽古つけてもらう機会なんて貴重だからね!」
目に輝きを込めて話す彼女の声は、まるで天使の歌声のようだ。
そうか、俺は彼女の強さに反応してるんだな。
なら、やはり、剣を交えてお互いの強さを称え合いたい。
こうしてカイルは、アルトがいなくても休暇のたびにハーゲン村へ顔を出すようになる。
その理由を本人だけが理解していないことを、周囲は生暖かく見守るのだった。
――そんな穏やかな日々にも、やがて影が忍び寄る。




