第49話「気づかなかった気持ち」
BARLampに着いた。
ドアを開けると夜空がいつも通りの笑顔で迎えてくれた。
「桜子さん、いらっしゃいませ」
「一人で来るなんて珍しいね」
「こちらにどうぞ」
カウンター席に案内された。
「なんか読む?」
「はい。今日は、ノンアルコールをお願いします」
「了解。じゃあ、さっぱりしたものを作るね」
夜空は氷をグラスに入れ、ライムを軽く搾る。 トニックウォーターを静かに注ぎ、最後にミントを添えた。
「どうぞ。ノンアルコール・モヒート」
「ありがとうございます」
「いただきます」
グラスを持ち、一口飲む。
「美味しい」
ミントの爽やかさが、張り詰めていた桜子の気持ちを少しだけ和らげた。
「それは良かった」
「あの、今日って先生達は来てませんか?」
「今日も来てるよ」
夜空は店の奥のテーブル席に目をやった。
「今日は結構飲んでるみたいだけどね」
つられて桜子もそちらを見る。
学生たちが夏休みに入ったせいか、二人ともいつもより気が緩んでいるようだった。
テーブルには空になったグラスがいくつも並び、すっかり出来上がった二人の話し声が聞こえてくる。
「今日という今日は言わせてもらいますよ」
「なんですか? 神谷先生」
「黒田先生はいつも、化学は実験で検証できるからこそやり甲斐があるって」
「その通りです」
「心は目に見えない、不確かなものだ」
「そこにロマンがあるんですよ!」
「何回言えばわかるんだ、あんた」
「おや、ついに本性が現しましたね」
「あんたがいつも嫌味を言ってくるからだろ?」
「心の先生が感情的になるとは驚きだな」
「心理学で何でもかんでもわかるわけじゃないんだぞ!」
「誰のせいだと思ってるんだ?」
「最初からそう言えばいいんですよ。」
「ふふっ」
夜空は笑った。
「あっ、すみません」
「お二人とも、本当に仲がいいですね」
「相手に分かってほしいからこそ、本気でぶつかるんでしょうね」
「そういえば先生に用があるんじゃなかった?」
「えっと」
桜子は、手元のグラスに視線を落とした。
(分かってほしいから……)
勇人と言い争ったときのことを思い出す。
『だから、俺のこと信用してないってこと?』
違う。信用していないわけじゃなかった。
(勇人はそんなことしないってわかってる)
それなのに、どうしてあんなに嫌だったんだろう。
他の女性にも声をかけるかもしれないと思ったこと。 花火大会で、知らない女性と楽しそうに話していたこと。
そのたびに、胸の奥がざわついた。
(私は……何が嫌だったの?)
桜子はグラスを両手で包む。
勇人が他の女性に笑いかけること? 親しそうに話すこと? 自分と同じように、誰かに声をかけること?
そこまで考えて、桜子の指が止まった。
(……同じ?)
自分だけだと思っていたものが、自分だけのものではなくなる。それが、嫌だった。
(私……)
ようやく、胸の奥に引っかかっていたものに名前がついた。
(本当は、勇人に私だけを見てほしかった)
その気持ちを口にすることが、どこかはしたないことのように思えていた。 だから、自分でも気づかないふりをしていたのかもしれない。
「大丈夫です」
「私……自分が何を嫌だと思ってたのか、やっと分かった気がします」
「そっか」
夜空は桜子の表情を見て、微笑んだ。
「少し顔が明るくなったね」
「ありがとうございます」
「俺は何もしてないよ」
桜子は小さく笑った。
勇人に、ちゃんと伝えたい。
今度は、自分の気持ちを自分の言葉で。
「あ……私、行かなきゃ」
「勇人のところ?」
桜子は少し驚いて、それから頷いた。
「はい」
「そっか。行ってらっしゃい」
「もう暗いから、気をつけてね」
「はい。ありがとうございました」
桜子は席を立ち、BAR Lampをあとにした。




