第45話「小さな不安」
真司が旅立ち、いつも通りの日常が戻った。
講義が終わり、桜子が鞄にノートをしまっていると、近くにいた女子学生二人の会話が聞こえてきた。
「そういえば、この前付き合ったって言ってた彼とは順調?」
「それが……最近、別れちゃったの」
「えっ、どうして?」
「二股かけられてたの」
「うわ、最悪。なんでわかったの?」
「彼の家にいたとき、チャイムが鳴ったから出たの。そしたら、知らない女の人が立ってて」
「え……?」
「いきなり『私の彼を返して』って言われた」
「うわっ……最悪じゃん」
「その人も彼にナンパされて付き合ったんだって。『声をかけたのは君だけ』って言われてたらしくて」
「えー……二人とも同じこと言われてたってこと?」
「そうみたい。」
「やっぱり、ナンパする人って他の人にも声かけてるんだね」
「でも、早いうちにわかってよかったじゃん」
「うん……」
「じゃあ今日は、私のおごりで飲みに行こう!」
「ありがとう。やっぱり持つべきものは友達だね」
二人はそう話をしながら、講義室を出ていった。
教室には、夏休みを前に浮き立つ学生たちの声が響いている。
今日で前期の講義は終わり。
そんな中、桜子は鞄を持ったまま立ち尽くしていた。
(……浮気?)
(二股……)
(ナンパ……)
ふと、勇人と初めて会った日のことを思い出す。
『おっ、美人なお姉さん発見』
(しーちゃんに声かけてたけど)
(私も……勇人に声をかけられたところから始まったんだ)
胸の奥に、ほんの小さな何かが引っかかった。
(でも、勇人は違う)
(今の話の人と、勇人は別の人なんだから)
そう自分に言い聞かせる。
心理学を学んでいる桜子にも、それくらいはわかっている。
――それなのに。
どうしてだろう。
胸の奥に生まれた小さな不安は、完全には消えてくれなかった。
そのとき――。
「桜子」
突然名前を呼ばれ、桜子は顔を上げた。
「……勇人」
講義室の入り口に、勇人が立っていた。
「何してんだ? もう講義終わってるだろ」
「う、うん。今行く」
桜子は慌てて鞄を持ち、勇人のもとへ向かった。
「どうした?」
「え?」
「なんか、ぼーっとしてたから」
「そうかな?」
「そうだろ。呼んでも気付かなかったし」
勇人が不思議そうに桜子の顔を覗き込む。
その顔を見ていると、先ほど聞いた会話が頭をよぎった。
(……勇人も、他の女の人に声をかけたりするのかな)
一瞬、そんな考えが浮かんだ。
「桜子?」
「本当にどうした?」
「えっ」
「……なんでもないよ」
桜子は笑ってみせた。
「ちょっと考え事してただけ」
「ふーん?」
勇人は少し気になったようだったが、それ以上は聞かなかった。
二人で並んで廊下を歩いていると、勇人がふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ」
「なに?」
「今度、花火大会あるだろ」
「うん」
「一緒に行かない?」
桜子は足を止めた。
「……花火大会?」
「そう。二人で」
勇人は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「付き合ってから、まだ行ったことないだろ」
その言葉に、桜子の胸がふわりと温かくなった。
「行きたい!」
思わず大きな声を出すと、勇人が笑った。
「じゃあ、決まりな」
「うん!」
「浴衣、着る?」
「浴衣……」
桜子は少し考えてから、ぱっと顔を輝かせた。
「着る!」
大学フェスでモデルを務めたお礼に、真司からもらった浴衣がある。
「しーちゃんにもらった浴衣、着ていこうかな」
「ああ、あれか」
「うん。せっかくもらったから、また着たいなって」
「いいんじゃない?」
勇人はそう言ってから、少しだけ笑った。
「楽しみにしてる」
「……うん」
その言葉に、桜子も笑顔を返した。
勇人と花火大会。
初めての、恋人としての夏の思い出。
そう考えるだけで、胸が弾んだ。
先ほどまで胸の奥にあった小さな不安も、今は少しだけ遠くなったような気がする。
けれど――。
「やっぱり、ナンパする人って他の人にも声かけてるんだね」
女子学生の言葉が、もう一度だけ頭の中をよぎった。
桜子は隣を歩く勇人の横顔を見つめる。
(勇人は……違う)
聞いてしまえば、きっと簡単なことなのかもしれない。
それでも桜子は、聞くことができなかった。
楽しみなはずの花火大会。
その約束を胸に抱きながらも、桜子の心の片隅には、小さな不安が残ったままだった。




