第14話「真司の葛藤」
講義が終わり、学生たちが次々と教室をあとにしていく。
「じゃあ、また明日」
勇人が笑いながら手を振る。
「またね」
桜子も笑顔で手を振り返した。
「気を付けて帰りなさいよ」
真司もいつも通り微笑む。
二人が並んで歩いていく後ろ姿を見送り、真司は一人、小さく息をついた。
「……さて」
そう呟くと、駅とは反対方向へ足を向ける。
向かった先は、見慣れた店だった。
――BAR Lamp。
ドアを開けると、小さなベルが静かに鳴る。
「いらっしゃい、真司くん」
カウンターの向こうで、夜空が優しく笑った。
「こんばんは」
真司はいつもの席へ腰を下ろす。
夜空はグラスを磨きながら、何気ない口調で言った。
「今日は一人? 珍しいね」
真司は小さく頷いた。 「ええ」
「今日は予定が合わなかったの」
「そっか」
「そういう時もあるよね」
夜空は穏やかに笑う。
少しだけ沈黙が流れた。
夜空は真司の表情を見つめる。
「……何かあった?」
「……いえ、何もないわ」
そう答えた真司の声は、いつもより少しだけ弱かった。
夜空はそれ以上聞こうとはしない。
代わりに、温かい紅茶を真司の前へ置いた。
「ありがとう」
カップを両手で包み込みながら、真司は静かに息をつく。
今日の帰り道を思い出していた。
勇人が自然に飲み物を買い、
困っている桜子へ、当たり前のようにティッシュを差し出す。
人混みでは何も考えずに隣へ寄せる。
そして桜子も、それを当たり前のように受け入れていた。
(自然なのよね。)
(あの二人は。)
誰かが無理をしているわけではない。
特別なことをしているわけでもない。
ただ、一緒にいることが普通になっている。
その距離が、少しだけ羨ましかった。
「……私、子どもの頃から桜子が好きだったの」
ぽつりと漏れた言葉に、自分でも少し驚く。
「……幼稚園の頃ね」
真司は静かに目を伏せた。
「私は、いつも一人だった」
「みんなと遊ぶのが苦手で、いつも隅っこにいたの」
夜空は何も言わず、耳を傾ける。
「そんな私に、桜子だけは笑って言ったの」
『一人なの?』
桜子は不思議そうに首をかしげて笑った。
『一緒に遊ぼうよ』
「桜子が話しかけてくれて、それからよく遊ぶようになったの」
「両親の影響で、私、おしゃれにも興味を持ってて。そういう話をすると、からかわれることもあったわ」
「でも、桜子だけは違った」
「いつも私の好きなものを肯定してくれたの」
『好きなものは好きでいいじゃん。』
『とっても素敵だと思う』
「ただ、私が海外に行くことになった時は、必死に涙をこらえて笑ってたわ」
「本当に寂しい思いをさせちゃったのよね」
「……桜子の楽しそうな笑顔も、悲しそうな笑顔も、今でも忘れられないわ」
真司はそっとカップを持つ指先に、少しだけ力が入った。
「だから私は、ずっと桜子が好きなの」
夜空は何も言わず、静かに耳を傾けていた。
「ずっと隣にいるのが当たり前だった」
「だから、このままでいいと思ってた」
真司は苦笑する。
「でも……」
言葉が続かない。
胸の奥が少しだけ痛む。
「勇人は優しいもの」
「桜子が笑う理由も、ちゃんと分かる」
勇人は友達だ。
桜子も大切な幼なじみ。
二人とも、大好きだった。
だからこそ。
「応援したい私と……」
「応援なんてしたくない私がいる」
静かな店内に、その言葉だけが残る。
夜空は優しく笑った。
「君はいつも、自分のことは後回しだからね」
「好きっていう気持ちは、そんなに綺麗なものばかりじゃない」
「嬉しいも、苦しいも、全部ひっくるめて恋だからね」
真司は小さく笑う。
「らしくないわね、私」
「恋をしたら、誰だって少しはらしくなくなるさ」
その言葉に、真司は肩の力が少しだけ抜けた。
カップの中の紅茶は、まだ温かかった。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと夜へ変わっていく。
真司は静かに空を見上げる。
(まだ、この想いは伝えられない。)
そう心の中で呟きながら、そっとカップへ口をつけた。




