ことばの隙間
朝、目が覚めると彩花はいなかった。枕元にメモが置いてある。
『朝練あるから先に行くね。夕方、いつもの場所で』
いつもの場所——学校の裏の桜の木の下。もう花は散って、緑の葉ばかりだけど、僕たちにとっては特別な場所だった。
僕はメモを何度も読み返した。彼女の字は、丸くて可愛い。でも最後の一文字が、少し震えている気がした。気のせいだろうか。
学校に行くと、彩花はクラスメイトと笑っていた。僕と目が合うと、軽く手を振ってくる。普通の笑顔。でも、昨夜の「もし、私がいなくなったら」という言葉が、頭の中でリフレインプレイしていた。
授業中、窓の外の雲を眺めながら考える。人はなぜ、近くにいるのに遠く感じるのだろう。彩花は僕の隣にいるのに、時々、ものすごく遠いところにいるように見える。
放課後、桜の木の下で彼女を待った。風が葉を揺らす音が、静かで心地いい。
「待たせた?」
彩花が息を切らして走ってきた。額に汗が光っている。僕は無言でハンカチを差し出した。彼女は受け取って、照れくさそうに笑った。
「ありがとう。湊、優しいよね」
「普通だよ」
「普通が一番すごいんだよ。知ってる?」
彼女はハンカチを握りしめたまま、僕の目をまっすぐ見た。その瞳に、何か言いたげなものが浮かんでいる気がした。
僕たちは並んで歩き始めた。夕陽が、道をオレンジ色に染めている。彩花が突然立ち止まった。
「ねえ、私のこと、どう思ってる?」
心臓が跳ねた。僕は言葉を探したけど、喉が詰まる。
「大事だよ」
それだけ言った。彩花は少し寂しそうに微笑んだ。
「大事、か。曖昧だね」
「彩花は……僕のこと、どう思ってるんだ?」
今度は彼女が黙った。風が、彼女の髪を優しく撫でる。彼女は空を見上げて、小さく息を吐いた。
「湊は、私の光みたいな存在。でも、光って、近づきすぎると熱くて、離れすぎると寒いんだよね」
その言葉が、胸に刺さった。僕は彼女の手を、そっと握った。初めてだった。彩花の手は、少し冷たかった。
「離れないよ」
「約束?」
「約束」
でも、約束なんて、脆いものだということを、僕はまだ知らなかった。




