秘密の匂い
夕暮れの空は、薄い紫色に染まっていた。
僕と彩花は、いつもの桜の木の下から少し離れた、河川敷のベンチに座っていた。彼女が「少し遠くまで歩きたい」と言ったからだ。風が、川の表面を優しく撫で、波紋を広げていく。僕の心の中にも、同じような波紋が広がっていた。
彩花は膝の上に手を置き、指を軽く絡め合わせている。さっき握った手は、もう離れている。温もりは残っているのに、なぜか遠く感じる。
「ねえ、湊。私、最近夢を見るんだ」
彼女の声は、川の音に混じって少し震えていた。
「どんな夢?」
「雨の降る部屋の中で、一人座ってる夢。誰かを待ってるんだけど、待ってる人が来ない。来ないんだけど、来てほしいって思ってる……変だよね」
僕は彼女の横顔を見た。睫毛が少し下がり気味で、遠くを見ている。夢の話なのに、まるで現実の続きを語っているように聞こえた。
「来るよ。僕が待ってる側にいるから」
彩花は小さく笑った。でもその笑いは、どこか儚くて、指の隙間から零れ落ちそうだった。
「湊は、いつもそんなこと言うよね。優しい嘘」
「嘘じゃない」
「うん、わかってる。でも……優しさって、時々人を遠ざけるんだよ」
彼女の言葉が、胸の奥に小さな棘のように刺さった。僕は黙って、川面に視線を落とした。水の匂いと、彼女の髪から漂うシャンプーの匂いが混ざり合って、妙に切ない。
そのとき、彩花の鞄から小さな音がした。スマホの通知音。彼女は素早く鞄を開け、画面を見てからすぐにしまった。表情が、一瞬だけ固くなった。
「誰から?」
「ううん、ただのスパム」
彼女はそう言って微笑んだけど、目が泳いでいた。僕は敢えて追及しなかった。彩花には、僕が知らない「領域」がある。それを無理に覗き込むと、彼女が壊れてしまいそうで怖かった。
代わりに、僕は自分の話をした。子供の頃、母親が突然いなくなったこと。父親は「仕事だ」と言っていたけど、本当は違うことを薄々感じていたこと。言葉にしなかった寂しさを、ずっと胸の奥にしまっていること。
「だから、僕は人を待つのが苦手なんだ。待っても来ないかもしれないって、思っちゃう」
彩花は僕の顔をじっと見た。彼女の瞳に、僕の影が映っている。
「私も、待つのが怖い。でも、湊のことだけは、待ってもいいって思ってる」
その言葉が、温かくて、痛かった。
河川敷を歩きながら、彼女の肩が時々僕の腕に触れた。触れては離れ、離れては触れる。その繰り返しが、僕たちの関係そのもののように感じられた。
家に帰る道すがら、彩花が突然立ち止まった。
「ねえ、もし私が病気だったら……どうする?」
心臓が、どくんと大きく鳴った。
「急に何?」
「ただの仮定。夏の終わりって、なんかそんなこと考えちゃうよね」
彼女は笑おうとしたけど、唇が少し引きつっていた。僕は彼女の腕を掴んだ。細くて、熱があるような気がした。
「彩花、なんか隠してないか?」
一瞬、彼女の目が揺れた。でもすぐに、いつもの柔らかい笑顔に戻った。
「何も隠してないよ。心配性だなあ、湊は」
彼女は僕の手に自分の手を重ね、軽く握り返した。その手のひらは、少し汗ばんでいた。
その夜、僕は部屋で一人、彩花からもらった小さなキーホルダーを握りしめていた。透明なプラスチックの中に、桜の花びらが閉じ込められている。彼女が「これ、私たちの場所の証拠」と言ってくれたものだ。
でも、今はそれが、ただの残像のように感じる。
彩花の「秘密の匂い」が、僕の鼻先を掠めていく。甘くて、苦くて、逃げ水のように掴めない。
僕はベッドに横になり、天井を見つめた。雨が、また降り始めていた。窓を叩く音が、彼女の心音のように聞こえる。
明日も、彼女は笑うだろう。僕も、笑うだろう。でも、その笑顔の裏側で、何かが少しずつずれていくのを感じていた。




