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君の残像に、触れたい  作者: les.


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3/3

秘密の匂い

夕暮れの空は、薄い紫色に染まっていた。

僕と彩花は、いつもの桜の木の下から少し離れた、河川敷のベンチに座っていた。彼女が「少し遠くまで歩きたい」と言ったからだ。風が、川の表面を優しく撫で、波紋を広げていく。僕の心の中にも、同じような波紋が広がっていた。

彩花は膝の上に手を置き、指を軽く絡め合わせている。さっき握った手は、もう離れている。温もりは残っているのに、なぜか遠く感じる。

「ねえ、湊。私、最近夢を見るんだ」

彼女の声は、川の音に混じって少し震えていた。

「どんな夢?」

「雨の降る部屋の中で、一人座ってる夢。誰かを待ってるんだけど、待ってる人が来ない。来ないんだけど、来てほしいって思ってる……変だよね」

僕は彼女の横顔を見た。睫毛が少し下がり気味で、遠くを見ている。夢の話なのに、まるで現実の続きを語っているように聞こえた。

「来るよ。僕が待ってる側にいるから」

彩花は小さく笑った。でもその笑いは、どこか儚くて、指の隙間から零れ落ちそうだった。

「湊は、いつもそんなこと言うよね。優しい嘘」

「嘘じゃない」

「うん、わかってる。でも……優しさって、時々人を遠ざけるんだよ」

彼女の言葉が、胸の奥に小さな棘のように刺さった。僕は黙って、川面に視線を落とした。水の匂いと、彼女の髪から漂うシャンプーの匂いが混ざり合って、妙に切ない。

そのとき、彩花の鞄から小さな音がした。スマホの通知音。彼女は素早く鞄を開け、画面を見てからすぐにしまった。表情が、一瞬だけ固くなった。

「誰から?」

「ううん、ただのスパム」

彼女はそう言って微笑んだけど、目が泳いでいた。僕は敢えて追及しなかった。彩花には、僕が知らない「領域」がある。それを無理に覗き込むと、彼女が壊れてしまいそうで怖かった。

代わりに、僕は自分の話をした。子供の頃、母親が突然いなくなったこと。父親は「仕事だ」と言っていたけど、本当は違うことを薄々感じていたこと。言葉にしなかった寂しさを、ずっと胸の奥にしまっていること。

「だから、僕は人を待つのが苦手なんだ。待っても来ないかもしれないって、思っちゃう」

彩花は僕の顔をじっと見た。彼女の瞳に、僕の影が映っている。

「私も、待つのが怖い。でも、湊のことだけは、待ってもいいって思ってる」

その言葉が、温かくて、痛かった。

河川敷を歩きながら、彼女の肩が時々僕の腕に触れた。触れては離れ、離れては触れる。その繰り返しが、僕たちの関係そのもののように感じられた。

家に帰る道すがら、彩花が突然立ち止まった。

「ねえ、もし私が病気だったら……どうする?」

心臓が、どくんと大きく鳴った。

「急に何?」

「ただの仮定。夏の終わりって、なんかそんなこと考えちゃうよね」

彼女は笑おうとしたけど、唇が少し引きつっていた。僕は彼女の腕を掴んだ。細くて、熱があるような気がした。

「彩花、なんか隠してないか?」

一瞬、彼女の目が揺れた。でもすぐに、いつもの柔らかい笑顔に戻った。

「何も隠してないよ。心配性だなあ、湊は」

彼女は僕の手に自分の手を重ね、軽く握り返した。その手のひらは、少し汗ばんでいた。

その夜、僕は部屋で一人、彩花からもらった小さなキーホルダーを握りしめていた。透明なプラスチックの中に、桜の花びらが閉じ込められている。彼女が「これ、私たちの場所の証拠」と言ってくれたものだ。

でも、今はそれが、ただの残像のように感じる。

彩花の「秘密の匂い」が、僕の鼻先を掠めていく。甘くて、苦くて、逃げ水のように掴めない。

僕はベッドに横になり、天井を見つめた。雨が、また降り始めていた。窓を叩く音が、彼女の心音のように聞こえる。

明日も、彼女は笑うだろう。僕も、笑うだろう。でも、その笑顔の裏側で、何かが少しずつずれていくのを感じていた。

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