第6話 コーニャお嬢様、江戸の風を感じる
「えー……」
梅歌師匠が発した最初の一言でそこに江戸の風が吹いた。
ただの区民会館のホールに「えー……」の一言が響き渡ると江戸の時代に作り変えられたのだ。
もちろん錯覚だ。ここは令和の区民会館なのは間違いはない。
それでも江戸の情景がそこに見えるのだ。
それも何か江戸っ子のセリフを喋ったわけでも、情景を説明したわけでもない。
『えー……』の一言だけで江戸の世界に引き込んだのだ。名人でしかできない神技である。
ふと周りを見るとお客さんは殆どが前のめりになり、梅歌師匠の一言一言を食い入る様に見ている。
隣のコーニャを見てみるとあまりの衝撃か口を開けて呆然としている。配信で何度も見たと言っていたが動画ではわからない生の落語の凄まじさがある。
それがこの空気の支配感だ。客席に合わせた息遣い、間で空気を支配し江戸の世界を描く。名人ともなればたった一言でそれを為す。
「……」
ふと後ろを見ると最後列のセバスさんも目を見開いて驚いている様子だった。落語に興味はなさそうだったがそれでも心を掴まれたのだ。
『えー、昔は吉原なんて所がございまして……』
おっといけない。周りを見るよりも梅歌師匠の落語に集中しなくては。せっかく江戸の世界へ連れてきてくれたのに現実に帰っているのは勿体無い。
『あっしはその高尾と一緒になろうと思いまして』
『バカ、おめぇ高尾なんて花魁と一緒になれるわけねぇじゃねぇか』
梅歌師匠のネタは『紺屋高尾』だ。
紺屋の職人が吉原の高尾大夫という花魁に一目惚れして、その花魁に会う為に懸命に努力し想いを通すという落語。梅歌師匠の得意ネタだ。
『あれから何を見ても高尾に見えるんですよ。おまんまが高尾に見える、枕が高尾に見える、鉄瓶が高尾に見える、親方は……鉄瓶に見える』
「ぷっ……」
「ハハハハ」
このネタは前半は笑える場面も多い。梅歌師匠の間が絶妙で客席の多くは吹き出して笑っている。
横のコーニャを見ても口を押さえて堪えている。落語は我慢せずに笑った方がいいんだぞと後で教えてやろう。
『主……よう来てくんなました……』
落語の後半。主人公の九蔵が吉原へ行きついに花魁である高尾と会えた場面。
梅歌師匠は40代のおじさんなのだがその言い回し、首や肩の傾け方、息遣いの色っぽさでそこには紛れもない花魁が見えた。
見る人の想像力を刺激する落語という芸の真骨頂だ。見るもの全てを魅了し客席がみなウットリしている。
『花魁……あっしは嘘をついていたんですよ。でもこれからまた死んだ気になって働きますから……今度は紺屋の職人と承知で会ってもらえませんか……?』
「グス……」
「うっ……」
野田の醤油問屋の若旦那と偽り花魁と会った九蔵が真実を話した場面。その正直さ、花魁への想いを真摯に語るその姿に客席からは啜り泣く声が聞こえる。
隣のコーニャを見ると
「九蔵さん……グス……グス……」
余程感情移入したのか誰よりも涙を流していた。後でハンカチを貸してやろう。
さぁ落語は間も無くクライマックスだ。
『傾城に誠なきとは誰が言うた。紺屋高尾という一席でございまきた』
梅歌師匠が最後の一言を言いお辞儀をすると江戸の世界からフッと現実に帰される感覚。暫しの間を空けて客席から割れんばかりの拍手が響く。
久しぶりに梅歌師匠の落語を前から見させてもらったが何度聞いても凄まじい。
何百人も入る大きなホールではなく、数十人規模の小さな区民会館でこんな落語を聞けるのは贅沢なものだ。どんな時も手を抜かない梅歌師匠に感謝だな。
「……上戸くん……」
「コーニャ、初めての生の落語はどうだった?」
「C'est magnifique……」
「えっと、素晴らしい……ってこと?」
「あ、すいません。そうです、そうとしか言えません。ワタシはここにいたんですよね? 江戸にタイムスリップしたかと思いました。それにあのオイランの色気。配信で見ていましたが生で見るとこんなに空気が変わるなんて。梅歌師匠……ホントにホントに推しです!」
コーニャが顔を近付けてきてまたグイグイと語る。そこまで楽しんでもらえたなら連れてきた甲斐があるってもんだ。
それにそこまで想像できるっていうのは梅歌師匠の力量はもちろんだけど、聞く方の想像力も試させる。コーニャはそれだけ落語を聞く素養ができていたんだろう。
「さて、楽屋に挨拶へ行こうと思うのだがコーニャも行くか?」
「え……楽屋に……? で、でも……」
「行きたくない?」
「あ……行き……たい……」
遠慮しつつも頬を赤らめコクンと頷くコーニャ。知り合いという特権を使って推しと会わせてやらないとな。俺とコーニャは楽屋へ向かう為に席を立った。
「あ……あ……」
最後列のセバスさんの方へ行くと圧巻の落語にやられたのか腰を抜かしていた。
この人がここまで感じ入ってくれるとは。こちらも楽しんでくれたのなら何よりだ。




