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08お腹が空きすぎると誰もロクなことを考えないということです

 聖域の最果てに聳え立つのは、空を覆い尽くすほど巨大な漆黒に染まった黒き世界樹。周囲の空気はバチバチと音を立て、視界には時折、現実が崩壊したような音が走る。


「……気持ち悪い。空気が腐っている」


 アーレイが剣を構え、フロラベルの前に立つと四方八方から、黒い蔦に操られた王国の成れの果てたちが、ゾンビのように這い寄ってきた。フロラベルを嘲笑った貴族たちも言葉を持たない肥料に過ぎない。


 ……ふふ……フロラベル……ようやく来たわね。


 樹の幹から巨大な花の蕾が開き、上半身だけが人間としての美しさを保ったメレンが現れた。背後には異世界の文字列が滝のように流れ、彼女の存在そのものが明滅している。


 もうすぐリセットされる……不完全な人間なんて、全部私の根っこで吸い上げて綺麗に変えてあげる!


「何を言っているのか分かりません、メレン様」


 フロラベルは動じない。地走りの若木の背から最後にして最大の調理器具である龍の鱗で鍛えた大鍋を下ろした。


「一つだけ確かなのはお腹が空きすぎるとロクなことを考えないということです。歪んだ食欲と強欲を満たして差し上げます」


 アーレイと古龍が周囲の軍勢を食い止める中、フロラベルは大鍋の下に炎精霊の炭を放り込んだ。


「陛下、時間を稼いでください!最高の出汁スープを取ります!」


「……死ぬ気で守ってやる。存分に腕を振るえ!」


 アーレイの極大魔法が戦場を凍てつかせ、古龍の咆哮が黒い森をなぎ払う中心で、フロラベルは聖域に眠る清浄な水脈を魔法で引き込み秘蔵の具材を次々と投入していった。

 始原の種の黄金ジャガイモ。世界のあらゆる植物の母体。混沌を鎮める大地の重みを与える。七色に輝く奇跡のタマネギ。何層にも重なった絶望を剥がし、真実の涙と浄化を誘う。古龍の涙で熟成させた秘伝の岩塩は命の源である塩分と記憶を定着させる。


「煮えなさい。星が持っていた暖かな記憶と共に!世界再生コスモスキッチン!」


 杖を鍋に突き立てると大鍋から黄金の光柱が立ち上った。死の気配を完全に上書きする暴力的なまでに芳醇な家庭の味の香り。


 ……な、何よこれ……私の絶望が……食欲に……溶かされていく……!?


 メレンが叫ぶ。黒き世界樹の根が、フロラベルの料理が放つ生命の波動に当てられ浄化の白に染まっていく。出来上がったスープを一杯、銀の器に汲み取り怪物と化したメレンへと差し出した。


「最後の一口を飲んで静かにお眠りくださいませ」


 メレンは抗うように触手を伸ばしたが鼻先をくすぐる温かな香りに最後まで抗えなかった。スープを啜った瞬間、背後の黒い蔦がすべて灰となり空に青空が戻った。


 ……あったかい……私……ただ……誰かに認めて……欲しかっただけ……。


 メレンの姿が光の粒子となって消えていくと同時に黒き世界樹は眩い緑の真の世界樹へと姿を変え、大陸全土に浄化の風が吹き抜けた。


 黒き絶望が去り、聖域の中心には透き通るような翠の葉を茂らせた世界樹が静かに佇んでいる。戦いの熱が引いたばかりの静寂の中、フロラベルは一人樹の根元に立っていた。


「……お疲れ様。喉が渇いた?」


 地走りの若木から特製の魔導ジョウロを取り出した。中に入っているのは帝国の名水に調合した高濃度植物活力ポーションを数滴混ぜたもの。


 ザァー。


 フロラベルが水をかけると世界樹の根が歓喜に震えるように脈打った。枯れ果てていた大地に一気に水分が行き渡り、樹全体が淡い光を放ちながらさらに一回り大きく枝を広げる。


「よしよしいい子。お礼に葉っぱを少しだけ分けてもらう」


 高い枝からひらりと落ちてきたエメラルドのように輝く若葉を数枚、大切に受け取った。野営地に戻ってから早速お湯を沸かし始める。使うのはアーレイが極限まで純度を高めた氷魔法の欠片を溶かした、不純物ゼロの聖水。


「世界樹の葉でお茶を淹れるなど、前代未聞だ。本来神に捧げる供物」


 アーレイが呆れながらも興味津々といった様子で隣に座る。


「神様だって美味しいお茶を独り占めするのは不公平。見てくださいこの色」


 ティーカップに注がれた液体は透き通った黄金色に輝き、立ち上る湯気からは森の瑞々しさと懐かしいお日様の匂いがした。

 アーレイが一口啜る瞬間、彼の全身を巡っていた戦いの疲れと長年彼を縛っていた氷の魔力の暴走による疼きが、跡形もなく消え去る。


「な……これは。魔力の回路が新しく作り直されたような感覚だ。美味いという言葉では足りない」


「ふふ、良かった。あ、陛下。茶葉、出涸らしは乾燥させてお香にしますから捨てないでください」


「お前は本当に何一つ無駄にしないな」


 アーレイは笑い肩を抱き寄せた。世界を救った後の贅沢すぎるティータイム。


 *


 聖域の浄化が終わり、世界樹が再びその枝を広げた頃。王国ヴェルデのジェラルドたちとは別の新たな欲の皮が突っ張った人間が姿を現した。

 相手は大陸随一の商魂を誇る黄金商国の特使のバラム伯爵。世界樹の復活を聞きつけ、利権を独占しようとやってきたのだ。


 世界樹のふもとでアーレイと穏やかな茶会を楽しんでいた。世界樹の若葉で作ったお茶は飲むだけで魔力の回路が洗われるような清涼感がある。過剰な装飾を施した馬車が、砂埃を上げて乗り込んできた。


「いやあ素晴らしい!噂の金を生む大樹ですか!」


 降りてきたのは脂ぎった顔に金縁の眼鏡をかけたバラム伯爵。顔を見るなり、品定めをするような失礼な視線を向けた。


「貴女が追放された令嬢のフロラベル殿ですな?噂は聞いております。植物を育てるしか能がないとか。安心なさい。我が商国がこの世界樹を管理してやりましょう。下働きとして、我らの指示通りに種をまけばいい」


 傲慢にも一通の契約書を突きつけてきた。


「世界樹独占利用権の譲渡書類だ。サインすれば一生遊んで暮らせるだけの小金を恵んでやろう。隣にいる護衛の御仁我が国で雇ってやってもいいぞ」


 アーレイの周囲の空気が、一瞬で絶対零度まで冷え込んだ。


「……フロラベル。こいつの舌を今すぐ凍らせて引き抜いてもいいか」


「お待ちください陛下。野蛮なことをしなくても、この方はご自分で本当のことを話してくださいます」


 にっこりと微笑み、バラム伯爵に淹れたてのお茶を差し出した。


「まずは一杯いかが?世界樹の恵みを凝縮した、真実吐きのミントティーですよ」


「ほう気が利くな、頂こう」


 疑いもせずお茶を飲み干す。直後、彼の瞳が虚空を見つめて口が勝手に動き出した。


「こんな泥臭い女に金を払うつもりなど毛頭ない。サインさせたら即座に奴隷として売り飛ばし、世界樹の枝は一本残らず切り刻んで高値で転売してやる。帝国の皇帝などという男も、我が国の経済力で圧力をかければ、尻尾を巻いて逃げ出すに決まっているわ!ぎゃははは!」


 自分の言葉に驚き、慌てて口を押さえたが言葉は止まらない。


「我が国の国王の裏帳簿も私が預かっている!支援物資の半分は私の懐だ!国民が飢えようが知ったことか!」


 背後で控えていた彼の部下たちが、真っ青になって後ずさりする。

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