02殿下は荒れ果てた王宮の畑で膝をついていた。黄金色に輝いていた大地はドブのような異臭を放つ泥沼と化している
中庭の土壌改良が始まって三ヶ月。死の大地は、今や帝都で最も涼やかで、生命力に満ちた場所へと変貌を遂げていた。
「……信じられん。呪われた中庭か」
視察に訪れたアーレイが木漏れ日の下で立ち止まった。頭上には魔法で急速成長させた天傘の樹が巨大な葉を広げ、過酷な陽光を遮っている。下には湿り気を帯びた風が吹き抜けていた。
「これが今日の成果です」
たわわに実った紫色の果実の魔力蓄積葡萄を差し出した。砂漠のわずかな魔力を吸収して甘みに変える自信作だ。アーレイはためらいなく一粒口に運び、驚いたように目を見開いた。
「……美味い。それだけではない。体内の魔力の巡りが劇的に良くなっている。フロラベル、これはただの果実ではないな」
「国の騎士の方々に配れば、砂漠での任務の疲労も和らぐはずです」
微笑んだ。力でねじ伏せるのではなく植物の力を借りて環境そのものを味方につけることは前世の知識と魔法が導き出した答え。アーレイは不意に泥だらけの手を取り、布で丁寧に拭い始めた。皇帝自らが追放された元令嬢に。
「お前は乾いた国に降った銀の滴、フロラベル……離したくないと思ってしまった。皇帝としての言葉ではなく一人の男としての本音だ」
熱い眼差しに胸が高鳴る。カァッと赤くなる顔に今すぐ冷える氷が欲しいと切実に思った。
*
一方、追い出した王国からは連日のように悲鳴が届いていた。
「は、な、なぜだ……麦が、麦が全部黒く腐っていく!」
ジェラルド殿下は荒れ果てた王宮の畑で膝をついていた。黄金色に輝いていた大地は今やドブのような異臭を放つ泥沼と化している。ドロドロだ。
「メレン!お前の光魔法はどうした!早くなんとかしろ!聞いているのか!」
「ひっ、ひいい……!無理です、魔力が……魔力が足りないんです!もっともっと国民から集めなきゃ……!うう!」
メレンの姿は以前の可愛らしさから一変していた。肌は荒れ、瞳は血走り、周囲にいる騎士たちから無意識に魔力を吸い上げ続けている。奇跡を起こせば起こすほど周囲の人間は痩せ細り、土地は死んでいく。
「ああ、そうだわ。フロラベルさえいれば!女を連れ戻して代わりに魔力を注がせればいいの!名案ねぇっ」
ジェラルドの瞳に卑屈で傲慢な光が宿る。
「はは!そうか!あいつを帝国の岩山から連れ戻せ。王族の慈悲で罪を許してやると言えば泣いて喜んで帰ってくるだろう」
まだ知らない。岩山で震える無力な令嬢ではないことを。帝国の皇帝がどれほど独占欲の強い男であるかを。何も知らない。
*
中庭での成功はまたたく間に帝都中に知れ渡った。砂嵐に怯え、灰色の石造りの家々に閉じこもっていた民たちがこわごわと皇宮の門の隙間から中を覗き見ている。
「街全体を救いたい。力を貸してくれるか」
アーレイは帝都の最も高い塔へと連れ出した。眼下に広がるのは砂に埋もれかけた灰色の街並み。
「……承知いたしました。木を植えるだけでは砂に飲み込まれます。街を守る盾と街を冷やす血管を作りましょう」
前世で学んだ防砂林の知識と、魔導植物を組み合わせることにした。街の外周を囲むように魔法で急速成長させた鉄の外殻を持つ大樹を配置。
葉の表面に薄い金属質の膜を持ち、強烈な砂嵐を物理的に跳ね返す。さらに、根は地中深くで網目状に繋がり、街の地盤そのものを固定する天然の防壁となった。
建物の壁面には中庭で育てた吸水苔の進化系である銀糸の蔦を這わせた。蔦は夜の間に大気中のわずかな水分を吸い込み、昼間にそれを蒸発させることで街全体の気温を劇的に下げる。石造りの街は巨大な天然のエアコンを備えたかのように涼やかになった。
数週間後、帝都は劇的な変化を遂げていた。砂嵐の音は消え、代わりに植物が風に揺れる心地よい囁きが聞こえる。灰色の街は蔦の緑と咲かせた砂漠のバラの鮮やかな紅色に彩られた。
「……信じられない。砂の味がしない風なんて生まれて初めてだ」
街を視察するアーレイの隣で民たちが窓を開け、笑顔で空を見上げる光景を目にした。彼の手が腰を引き寄せる。手が熱い。またボッと赤くなりかけた。
「ほら、見てくれ。来てから国は呼吸を取り戻した。お前を追放した国は今頃自分たちが何を失ったか血の涙を流して悔いているだろう」
「植物たちが幸せに暮らせる場所を作っているだけですよ」
「謙虚さが狂わせる。二度と誰にも渡さない。たとえ神が返せと言っても」
アーレイの独占欲が混じった熱い視線に結局顔が熱くなるのを感じた。なにかに観念したくなるくらいに。
*
緑に包まれる帝国とは対照的に王国は沈黙の死に包まれていた。メレンが無理やり土地の力を絞り出した反動で王国の農作物はすべて中身がスカスカの灰のようになって崩れ去っていた。
「……はあ、はあ。もっとよもっと捧げなさい!」
メレンは聖女の面影はなく、やつれ果てた姿で魔法陣に縋り付いている。背後には以前は見えなかった赤黒い蔦が彼女を操るマリオネットの糸のように、王宮の壁から伸びていた。
「ジェラルド様……帝国の国境が緑に覆われているという報告が入りました。女が何か秘宝を持ち逃げしたに違いありません!」
「な、何だと……やはり、そうか!泥棒猫め、我らの宝で帝国に取り入りおって」
逆恨みに燃えるジェラルドは騎士団を引き連れて帝国へと向かう決意をする。慈悲を与えてやるという傲慢な大義名分を掲げて。手遅れだとも知らず。
*
帝都が柔らかな緑と涼やかな風に包まれて数日。フロラベルはアーレイと共に新しく完成した空中庭園で品種改良した茶葉の試飲をしていた。帝国の外交官が顔を引きつらせながら一通の手紙を持って現れてしまうまで。残念な空気になる。
「陛下……ヴェルデ王国より親書が届きました。……その、内容があまりにも……はぁ」
「ん?」
「嫌な予感が」
アーレイは無造作に手紙を受け取ると素早く視線を走らせた次の瞬間、口元がグッと上がった。
「ははっ、これは傑作だ」
アーレイが鼻で笑う。華氷皇帝と恐れられる彼には珍しい心の底から馬鹿なものを見たというような、嘲笑の響き。
「ふ、く。読んでみろ。貴公の元婚約者はどうやら脳まで枯れ果てているらしい。はは、面白い」
手渡された手紙に目を通したあと、思わず持っていたティーカップを落としそうになる。
帝国の簒奪者アーレイ・ダルダ・ガルディアへ。
貴国が現在、不当に緑化を進めているのは我が国の至宝たる聖なる種子を罪人フロラベルが持ち逃げし、貴国に提供したためであると判明した。王族の慈悲により、以下の条件を飲めば開戦は避けてやる。
一、盗まれた種子を直ちに返還すること。
二、罪人フロラベルを速やかにこちらへ引き渡すこと。彼女には聖女メレンの補助役として死ぬまで泥にまみれて働く刑を課す。
以上、ジェラルド・ダルダ・ヴェルデ
「はぁああああ……呆れて言葉も出ません」
癇癪の手紙に深いため息をつく。聖なる種子なんて存在しない。緑は土を耕し、菌を育て植物と対話してきた結果。なのにそれを持ち逃げした宝物のせいにしなければ自国の崩壊を認められないなんてつくづくあの国はダメだなと思った。




