第8話「夜明けの治癒」
夜の闇が深く降りた城内は、凍てつくような静寂に包まれていた。
厚い石壁が外の吹雪の音を遮り、暖炉の火が時折小さくはぜる音だけが、闇の中でリズムを刻んでいる。
ルミアは自室の広いベッドの中で、ふと目を覚ました。
十分な睡眠をとり、心身の疲労が癒えたことで、彼女の眠りは以前よりもずっと浅く、そして穏やかなものになっていた。
喉の渇きを覚え、ルミアはそっと身を起こす。
枕元のランプに火を灯し、薄手のガウンを羽織って廊下へと歩み出た。
夜明けまではまだ時間がある。
厨房へ向かおうと廊下を進んでいたルミアの足が、ふと止まった。
廊下の突き当たりにあるイリスの執務室のドアの隙間から、薄い光が漏れ出ている。
こんな時間まで仕事をしているのだろうか。
ルミアは心配になり、音を立てないようにゆっくりとドアへ近づいた。
少しだけ開いたドアの隙間から中を覗き込むと、執務机には誰も座っていなかった。
代わりに、部屋の奥にある長椅子の上で、イリスがうずくまっているのが見えた。
「イリス様……?」
ルミアは思わず声を掛け、ドアを押し開けた。
室内の空気は冷え切っており、暖炉の火はすでに落ちかけている。
イリスは軍服の上着を脱ぎ捨て、薄いシャツの胸元を乱した状態で、自分の左肩から胸にかけての部分を強く押さえていた。
彼女の呼吸は荒く、額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。
「ル、ミア……なぜ、ここに……」
イリスは苦痛に顔を歪めながらも、ルミアの姿を認めるなり、咄嗟に乱れたシャツの襟をかき合わせようとした。
ルミアに自分の弱い姿を見せまいとする、不器用な強がりだった。
だがルミアはためらうことなく部屋に入り、イリスのそばへと駆け寄った。
「どうされたのですか。どこかお怪我を……」
ルミアが身を乗り出すと、イリスのシャツの隙間から、古く痛ましい傷跡が覗いた。
かつて大陸を平定する過程で負ったのであろう、深い刃の痕だ。
その傷跡の周囲が赤く腫れ上がり、じっとりとした不自然な熱を帯びているのが見て取れた。
「案ずるな……ただの古傷だ。北の寒さが厳しくなる夜は、時折こうして疼くだけのこと。すぐに治まる……」
イリスはルミアを遠ざけようと片手を伸ばしたが、その指先は小刻みに震えていた。
痛みに耐えるあまり、唇を強く噛み締めており、そこから一筋の血がにじんでいる。
ルミアの胸の奥がきゅっと締め付けられた。
これまでイリスは、ルミアの前では常に完璧で、強大な庇護者として振る舞ってきた。
すべてを包み込み、決して揺らぐことのない大樹のように。
だが、その内側には、誰にも見せない痛みと傷が隠されていたのだ。
『私のために、ずっと無理をしてくれていたのね』
ルミアはイリスの伸ばした手を取り、両手でしっかりと握りしめた。
「ルミア、離れろ。お前にこんな見苦しい姿を……」
「離しません」
ルミアの声には、かつての怯えは微塵もなかった。
凛とした静かな強さが、その瞳に宿っている。
ルミアはイリスの隣に膝をつき、彼女のシャツの胸元にそっと手を伸ばした。
イリスが息を呑み、わずかに身を固くする。
ルミアの白い指先が、熱を持った古傷の上に静かに触れた。
その瞬間、ルミアの手のひらから、淡く澄んだ黄金色の光があふれ出した。
部屋の薄闇を払うように、光の粒子がイリスの傷跡を優しく包み込んでいく。
「やめろ、ルミア。お前の力は……」
イリスはルミアが痛みを肩代わりしてしまうことを恐れ、彼女の手を引き剥がそうとした。
しかし、ルミアは静かに微笑み、首を横に振った。
「痛くありません。もう、何も痛くないのです」
ルミアの言葉通り、彼女の表情には一切の苦痛が浮かんでいない。
光が傷跡に染み込むにつれて、イリスの身体を苛んでいた焼けるような痛みが、嘘のように引いていく。
代わりに、春の陽だまりのような温かな熱が、イリスの胸の奥まで深く浸透していった。
荒々しかったイリスの呼吸が次第に落ち着きを取り戻し、強張っていた筋肉がゆっくりと緩んでいく。
数分後、光が静かに収束すると、赤く腫れ上がっていた傷跡は本来の滑らかな肌へと戻っていた。
ルミアはそっと手を離し、安堵の吐息をつく。
「もう大丈夫です。傷の痛みは消えたはずです」
ルミアがイリスの顔を見上げると、イリスは信じられないものを見るような目で自身の胸元を見つめ、やがて視線をルミアへと移した。
黄金の瞳が潤み、その奥で感情の波が激しく揺れ動いている。
「お前は……また、私を救ってくれるのだな」
イリスの腕が伸び、ルミアの身体をきつく引き寄せた。
ルミアの頬がイリスの素肌に触れ、互いの鼓動が重なり合う。
イリスの体温が、ルミアの冷えた身体をじんわりと包み込んだ。
夜明け前の静かな部屋で、二人は言葉を交わすことなく、ただ互いの存在の温かさを確かめ合うように深く抱きしめ合っていた。




