第7話「凍土に咲く花」
薄暗い思い込みという名の殻から抜け出したルミアの表情には、日を追うごとに柔らかな光が宿り始めていた。
北の城に滞在して数週間が過ぎ、彼女は少しずつ自室の外へ足を踏み出すようになっていた。
石造りの重厚な廊下には厚みのある深紅の絨毯が敷き詰められ、足音を優しく吸い込んでいる。
壁に等間隔で掲げられた魔石のランプが、淡いオレンジ色の光で足元を照らしていた。
ルミアの隣には、いつものようにイリスが寄り添って歩いている。
イリスは軍服ではなく、しなやかな絹のブラウスをまとっていた。
その歩みはルミアの歩幅に合わせてゆっくりと抑えられ、少しでもルミアが立ち止まれば、彼女もまた立ち止まって静かに待つ。
二人の手は自然に重なり合い、イリスの指先から伝わる安定した熱が、ルミアの心を穏やかに落ち着かせていた。
「この先が、南の塔にある図書室だ。お前は本を読むのが好きだっただろう」
イリスの低い声が、静かな廊下に響く。
ルミアは小さく頷き、イリスの横顔を見上げた。
かつて南の王国にいた頃、ルミアにとって本の世界だけが唯一の逃げ場だった。
その小さな事実すら、イリスは正確に記憶し、こうしてルミアのための場所を用意してくれている。
廊下の角を曲がったところで、数人の城の者たちとすれ違った。
銀色の鎧を身にまとった近衛騎士と、簡素ながらも清潔な服を着た侍女たちだった。
ルミアの肩が、過去の反射でわずかに強張る。
王国にいた頃、城の者たちから向けられる視線は常に冷え切っており、無能な道具を見下すような蔑みに満ちていた。
その記憶が蘇り、ルミアは無意識のうちにうつむきそうになった。
だが、イリスの指がルミアの掌をきゅっと握り直した。
その力強さに支えられ、ルミアはそっと視線を前に戻す。
足を止めた騎士や侍女たちは、ルミアの姿を認めるなり、深い敬意を込めてその場に片膝をつき、深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります、ルミア様」
先頭にいた女性の騎士が、兜を脇に抱えながら澄んだ声で口を開いた。
彼女の目は、かつてルミアが知っていた冷ややかなものとはまるで違っていた。
そこにあるのは、主君に対するものと同じ、いや、それ以上に熱を帯びた深い敬愛の念だった。
「私は近衛部隊の副官を務めるセリアと申します。ルミア様がこの城にお越しくださったこと、皆が心の底から喜んでおります」
ルミアは戸惑い、隣のイリスを見上げる。
イリスは静かに微笑み、小さく顎を引いてルミアに先を促した。
「あ、あの……私のような者に、どうしてそのように……」
ルミアの声はまだ少し震えていたが、逃げ出さずにまっすぐセリアの目を見つめ返した。
セリアは顔を上げ、穏やかな眼差しをルミアに向ける。
「陛下から、ルミア様がかつて命を救ってくださった大恩人であると伺っております。陛下はこの北の地にとって、なくてはならない太陽です。その太陽を闇の淵から救い出してくださったルミア様は、私たちにとってもまた、等しく尊い光なのです」
セリアの背後に控える侍女たちも、深く同意するように頷いている。
誰ひとりとして、ルミアを無能な者として見下していない。
彼女たちが向けてくる視線には、純粋な感謝と、ルミアの幸福を願う温かな温度がこもっていた。
ルミアの胸の奥で、じんわりと温かいものが広がっていく。
自分はここで、誰かの役に立つ道具としてではなく、ひとりの人間として受け入れられている。
過去の傷が痛まない世界が、確かにここには存在していた。
「ありがとうございます……私の方こそ、皆さんの温かさに救われています」
ルミアの唇から、自然と言葉がこぼれ落ちた。
張り詰めていた頬の筋肉が緩み、春風が吹き抜けたかのような柔らかな笑みが彼女の顔に広がる。
それは、北の城に来てからルミアが見せた、初めての偽りのない笑顔だった。
セリアたちも嬉しそうに目を細め、再び深く頭を下げてから廊下の奥へと去っていった。
人影が消えた後、イリスが不意に足を止め、ルミアの方へ向き直る。
ルミアが不思議に思って見上げると、イリスの黄金の瞳が、かすかに揺らめいていた。
「ルミア」
イリスの指先が伸びてきて、ルミアの頬に落ちた銀糸の髪をそっと耳の裏へと掛ける。
その指が、名残惜しそうにルミアの頬を撫でた。
「今の笑顔を……もう一度、私だけに見せてくれないか」
懇願するような、ひどく甘く切実な声だった。
ルミアは顔を赤らめながらも、視線を逸らすことなく、イリスに向かってふわりと微笑んだ。
イリスの喉の奥から、小さく息を呑む音が漏れる。
彼女はルミアを抱き寄せたい衝動を堪えるように、自分の口元を片手で覆い、長く深い息を吐き出した。
「お前のその笑顔を守るためなら、私はこの身がどうなっても構わない。本当に……来てくれてよかった」
イリスの震える声が、ルミアの耳元に優しく降り注ぐ。
ルミアはそっとイリスの腕に手を添え、その温もりを確かなものとして心に刻み込んでいた。




