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第5話「雪解けの記憶」

 紅茶の甘い香りが満ちる室内で、ルミアはイリスの腕の中に身を預けたまま、静かに呼吸を繰り返していた。

 イリスの体温がじんわりと背中から伝わり、胸の奥で渦巻いていた不安が少しずつ凪いでいくのを感じる。

 空になったティーカップをテーブルに戻し、ルミアはようやく顔を上げて、隣に座るイリスの黄金の瞳を見つめた。

 その瞳の奥には、ルミアを射すくめるような恐ろしさはなく、ただ深く静かな湖面のような慈愛がたたえられていた。


「あの……イリス様」


 恐る恐る紡いだ声は、自分でも驚くほどか細かった。

 イリスは瞬きを一つし、ルミアの言葉を待つように首をわずかに傾ける。


「どうして、私を探してくださったのですか。私には、もう力も残っていませんし……イリス様のようなお方に、恩返しできるような価値は何も……」


 言葉を重ねるごとに、ルミアの視線は再び下へ向かおうとする。

 しかし、イリスの温かい指先がルミアの顎に触れ、優しく上を向かせた。

 視線が交錯し、ルミアは息を呑んだ。

 イリスの表情には、悲痛なまでの切実さが浮かんでいた。


「価値がないなどと、二度と言わないでくれ。お前は私の命そのものだ」


 イリスの言葉の意味が理解できず、ルミアは小さく首を横に振る。

 イリスはルミアの手を取り、両手で包み込むようにして自身の胸元へと引き寄せた。

 厚い軍服越しに、イリスの力強い鼓動がルミアの指先に伝わってくる。


「覚えていないのも無理はない。もう十数年も前のことだからな。だが、私はあの日から一日たりとも、お前のことを忘れたことはなかった」


 イリスの視線が遠くを見つめるように揺らぎ、彼女は静かな声で過去の記憶を語り始めた。


「私がまだ幼かった頃、北の帝国にはたちの悪い呪いが蔓延していた。皇族であった私もその呪いに侵され、全身に黒いあざが広がり、高熱にうなされて毎晩のように死の淵をさまよっていた」


 ルミアはイリスの顔をじっと見つめる。

 今でこそ大陸最強と恐れられる彼女だが、その声の響きには、幼い頃の深い絶望がにじんでいた。


「国内のどんな高名な治癒術師も、私の呪いを解くことはできなかった。父である先帝は藁にもすがる思いで、南の王国へ私を密かに連れて行ったのだ。そこに、類まれなる治癒の力を持つ幼い聖女がいるという噂を信じて」


 南の王国。

 幼い聖女。

 その言葉の断片が、ルミアの脳裏に沈んでいた古い記憶の扉を叩く。


「王宮の離宮、薄暗い部屋のベッドで息も絶え絶えになっていた私の前に、ひとりの小さな女の子が現れた。銀色の髪を三つ編みにしたその子は、怯えた顔をしながらも、真っ黒に変色した私の肌に小さな手を触れたのだ」


 ルミアの呼吸が浅くなる。

 記憶の底から、痛みに泣き叫ぶ黒髪の少女の姿が浮かび上がってきた。


「お前は、自らの身体に私の呪いを引き受けた。私の肌から黒いあざが消えていくのと引き換えに、お前の真っ白な腕に同じあざが浮かび上がっていった。お前は痛みに泣きながら、それでも私の手を決して離さなかった」


 イリスの言葉に合わせて、ルミアの左腕がかすかに疼くような気がした。

 あのとき、高熱と焼け焦げるような痛みに襲われながら、ルミアは必死に光を送り続けた。

 誰もやりたがらない恐ろしい儀式を、幼いルミアはたった一人で背負わされていたのだ。


「呪いが完全に消え去ったとき、お前は気を失って倒れた。王国の者たちは、お前をまるで汚れた布切れのように扱い、引きずって部屋から連れ出そうとした。私は泣き叫び、お前を連れて帰ると父に懇願したが、力のない子供の言葉など誰にも届かなかった」


 イリスの黄金の瞳が潤み、彼女はルミアの手の甲に自らの額を押し当てた。

 イリスの震えが、ルミアの指先を通して伝わってくる。


「私は誓ったのだ。必ず強くなると。大陸の誰にも文句を言わせないだけの力を手に入れ、お前を迎えに行くと。だが、私が力をつけ、ようやく王国の内情を探り当てたときには……お前は婚約者から無能の烙印を押され、捨てられようとしていた」


 顔を上げたイリスの瞳から、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。

 氷の女帝と呼ばれ、戦場を血で染めてきた彼女が、ルミアの前でだけは一人の無力だった少女の顔をして泣いている。


「遅くなって、本当にすまなかった。お前がどれほどの苦痛を味わってきたかと思うと、私は自分の不甲斐なさを呪う。あの男たちを、ただでは済まさないと何度も思った。だが、何よりも優先すべきは、お前をあのぬかるみから救い出すことだった」


 ルミアの胸の奥で、固く凍りついていた塊が音を立てて崩れ落ちた。

 自分がただ都合よく使われ、不要になれば捨てられた無価値な存在ではなかったこと。

 この広い世界に、自分の痛みを覚えていてくれ、迎えに来てくれた人がいたこと。

 その事実が、ルミアの枯れ果てていた心に温かい泉を湧き上がらせていく。


「イリス様……」


 ルミアは震える指先で、イリスの頬を伝う涙をそっと拭った。

 あの冷たい雨の日、イリスが自分にしてくれたように。


「泣かないでください。私は……あなたが来てくれて、本当に嬉しかった。あの日、死んでもいいと思っていた私を、あなたが抱きしめてくれたから……」


 ルミアの目からも大粒の涙があふれ出し、彼女はたまらずイリスの胸に顔を埋めた。

 イリスの強い腕がルミアの背中を包み込み、二人は互いの体温を確かめ合うように深く抱きしめ合う。

 窓に吹き付ける雪の音はもう聞こえない。

 ルミアの心に降り積もっていた冷たい雪は、イリスの熱によって静かに、そして確実に溶け出していた。

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