第4話「解けない緊張と甘い紅茶」
北の帝国へと迎え入れられてから数日が経過しても、ルミアの心の奥底にこびりついた冷たい塊は溶ける気配を見せなかった。
純白の天蓋付きベッドからそっと身を起こし、彼女は自分の手のひらを見つめる。
長年の酷使によって荒れ果てていた肌は、提供される上質な軟膏と手厚い保護のおかげで、見違えるほど滑らかになりつつあった。
それでも、目覚めるたびに自分の居場所が信じられず、薄暗い牢のような王宮の小部屋へ引き戻されるのではないかという恐怖が首筋を撫でる。
足先をベッドから下ろすと、厚く柔らかな羊毛の絨毯が足の裏を優しく包み込んだ。
部屋の隅に据えられた大きな暖炉では、絶えることなく薪が赤々と燃え、室内を春の陽だまりのような温度に保っている。
窓の外には灰色の雲が垂れ込め、途切れることなく雪が降り続いているというのに、この部屋の中だけは凍えるような寒さから完全に隔離されていた。
コンという控えめな音が響き、重厚な木製の扉が開く。
ルミアの肩がびくっと跳ね上がり、反射的に両手を胸の前で握りしめた。
姿を見せたのは、氷の女帝として大陸全土にその名を轟かせるイリスだった。
端正な黒の軍服に身を包み、肩から濃紺の外套を羽織った彼女は、雪をまとって外から戻ってきたばかりのようだった。
銀糸で細工された肩章が、暖炉の火を受けて鈍い光を放っている。
イリスの冷ややかな美貌は、触れる者すべてを凍らせてしまいそうな威圧感を放っていた。
「突然すまない。少し時間はいいか」
イリスの低い声が室内の空気を震わせた瞬間、ルミアは弾かれたようにベッドから立ち上がり、絨毯の上に深く頭を下げた。
「は、はい。申し訳ありません、私のような者が遅くまで休んでしまって……すぐに身支度を整えますので、どうかお許しを……」
早口で紡がれる謝罪の言葉は、怯えによって細かく震えていた。
長年、王宮で少しでも動きが遅れれば罵声と冷ややかな視線を浴びせられてきた記憶が、ルミアの身体に染み付いている。
自分は無価値な存在であり、誰かの機嫌を損ねればすぐにでも捨てられるのだという思い込みが、彼女を縛り付けていた。
イリスの黄金の瞳に、かすかな痛みの色が走った。
彼女は外套を脱いで近くの椅子に掛け、ルミアの正面へとゆっくり歩み寄った。
「謝る必要はないと言ったはずだ。ここは私の城であり、お前の家だ。お前はただ、心のままに過ごせばいい」
イリスは膝を折り、うつむくルミアと視線を合わせるようにしてそっと手を伸ばした。
革手袋を外した長い指が、ルミアの震える肩に触れる。
その手から伝わってくるのは、北の厳しい寒さとは無縁の、火傷しそうなほどの熱だった。
ルミアは息を呑み、恐る恐る顔を上げる。
「ですが……私は、何もできません。治癒の力も失い、お役に立てるようなことは何一つ……」
声がかすれ、語尾が涙声になって消えた。
イリスは否定も肯定もせず、ただ静かにルミアの肩を撫でる。
その手つきは、ひび割れた薄氷を扱うように慎重で優しい。
「今は何も考えなくていい。ただ、私のそばで息をしていてくれるだけで、十分だ」
イリスはルミアを立ち上がらせると、部屋の中央に置かれた贅沢な造りのソファへと彼女を導いた。
沈み込むようなクッションにルミアを座らせ、イリス自身は向かいの席ではなく、ルミアのすぐ隣に腰を下ろす。
触れ合うか触れ合わないかの距離に、イリスの体温が直に伝わってくる。
ルミアは緊張で身体をこわばらせ、膝の上で両手を強く握りしめた。
イリスは手元の呼び鈴を鳴らすことはせず、自らテーブルの上の茶器に手を伸ばした。
銀のポットから、琥珀色の液体が白い磁器のカップへと注がれる。
湯気とともに、甘く芳醇な果実の香りがふわりと立ち上り、ルミアの鼻腔をくすぐった。
イリスはカップの縁に添えられた小さな銀のスプーンで、蜂蜜をたっぷりとすくって紅茶に溶かす。
カチャカチャという涼やかな音が、静寂に包まれた部屋に優しく響いた。
「南の国では、紅茶に蜂蜜を入れる習慣はないと聞いている。だが、北の冬は厳しいからな。甘いもので身体の内側から熱を作らなければならない」
イリスはカップの持ち手をルミアの方へ向けて、静かに差し出した。
受け取るべきか迷い、ルミアの視線がさまよった。
イリスは急かすことなく、ルミアの指先が動くのをじっと待っていた。
恐る恐る両手でカップを包み込むと、磁器越しに伝わる熱が、冷え切った指先をじんわりと溶かしていく。
「……いただきます」
震える声でつぶやき、ルミアはカップに口をつけた。
熱い液体が舌の上を滑り、喉の奥へと流れ込んでいく。
蜂蜜の濃厚な甘さと、紅茶の華やかな香りが口いっぱいに広がり、胸の奥でこわばっていた何かがふっと緩む感覚があった。
美味しい。
そう感じた瞬間、ルミアの目頭が唐突に熱くなった。
王宮での食事は常に冷え切り、味すら感じられないものばかりだった。
誰かが自分のために、これほど丁寧に甘いお茶を淹れてくれることなど、記憶の彼方にしかなかった。
カップを持つ手に力が入り、液面が小さく波打つ。
「どうだ。口に合うか」
イリスの問いかけに、ルミアは声を出せずに小さく頷いた。
「よければ、少し甘すぎたかもしれないが」
イリスの指が伸びてきて、ルミアの頬を滑り落ちた一粒の涙をそっと拭い去った。
その指先の感触が、あまりにも優しすぎて、ルミアはたまらずうつむく。
『どうして、こんなに優しくしてくれるの。私には、何も返すものがないのに』
内心の葛藤が波のように押し寄せ、ルミアの呼吸を浅くさせた。
何か裏があるのではないかという疑念と、この甘やかな温もりを信じたいという切実な願いが、彼女の中で激しくせめぎ合っていた。
イリスはルミアの肩にそっと腕を回し、自分の身体へと引き寄せた。
軍服のしっかりとした生地越しに、イリスの規則正しい心音がルミアの耳に届く。
「急がなくていい。お前の心が溶けるまで、私が何度でも温かい茶を淹れよう」
ルミアの耳元に落ちた声は、深い夜の海のように静かで、揺るぎない確信に満ちていた。
緊張で張り詰めていたルミアの背中が、イリスの腕の中でわずかに力を失う。
窓の外では雪が激しさを増していたが、ルミアは今だけは、この腕のなかにある熱を信じてみたいと思い始めていた。




