第2話「凍てつく玉座から降りた人」
凍てつくような冷気をまとった北の女帝は、歩みを進めるごとに周囲の温度を急激に奪っていく。
彼女の足元で泥水が瞬時に凍りつき、氷の華となってひび割れた。
レオンは震え上がり、引きつった声で叫ぶ。
「き、貴様、何者だ。ここは我が国の王城だぞ」
イリスはレオンの言葉など耳に入っていないかのように、ただルミアだけを見つめていた。
彼女の黄金の瞳には、周囲の兵士も、傲慢な王太子も映っていない。
イリスはためらうことなく泥の上にひざまずいた。
彼女の漆黒の外套の裾が泥水に浸り、白く美しい衣装が汚れるのも構わず、ルミアの目の前で視線を同じ高さに合わせた。
ルミアは息を呑み、恐怖で肩をすくめた。
大陸最強と謳われる魔力の持ち主が、なぜ自分のような無価値な存在の前にひざまずいているのか理解できない。
殺されるのだと、直感的に思った。
使い物にならなくなった自分は、この恐ろしい女帝の手でとどめを刺されるのだと。
「……ひっ」
喉の奥から、かすれた悲鳴が漏れる。
イリスはゆっくりと、傷つけることを恐れるかのように手を伸ばした。
革手袋を外した素手が、ルミアの冷え切った頬にそっと触れる。
氷のように冷たい外見とは裏腹に、その手のひらは火傷しそうなほど熱かった。
「もう大丈夫だ。私が来たからには、誰ひとりとしてお前を傷つけさせない」
甘く、とろけるような声がルミアの耳を打つ。
イリスの親指が、ルミアの頬にこびりついた泥を優しく拭い去った。
その手つきは、世界で最も尊い宝物に触れるかのようだった。
ルミアは混乱し、瞬きを繰り返すことしかできない。
『どうして、こんなに優しく触れるの』
レオンが背後で剣を抜き放ち、喚き散らす。
「不敬であるぞ。その女は我が国から追放された罪人だ。何処の馬の骨とも知れぬ輩が……」
イリスの肩がわずかに揺れた。
彼女はルミアの頬に触れたまま、視線だけを冷たく背後に向ける。
黄金の瞳がレオンを射抜いた瞬間、空間の温度がさらに数度下がった。
「黙れ。虫けらが」
ただの一瞥だった。
それだけで、レオンの持つ剣の刃が瞬時に凍りつき、乾いた音を立てて粉々に砕け散る。
レオンは悲鳴を上げて尻餅をつき、兵士たちもあまりの恐怖に腰を抜かした。
イリスは再びルミアに向き直り、表情を柔らかく和ませた。
「不快な音を聞かせてすまなかったな。さあ、帰ろう。お前の居るべき場所へ」
イリスは両腕を伸ばし、ルミアの身体をふわりと抱き上げた。
泥だらけのルミアの衣服がイリスの胸元を汚していくが、彼女は全く気にする素振りを見せない。
ルミアは抵抗する気力もなく、ただイリスの温かい胸に顔を埋めた。
イリスの首筋から、冷たくも透き通った雪の匂いが漂ってくる。
黒竜が低く喉を鳴らし、主とその腕の中の少女を背に乗せるべく翼を下ろした。
イリスはルミアを抱いたまま軽やかに竜の背に飛び乗る。
「しっかりつかまっていろ。少し風が冷たいかもしれないが、すぐに暖めてやるからな」
イリスの腕がルミアの背中をしっかりと、しかし優しく包み込む。
黒竜が力強く大地を蹴り上げると、凄まじい風圧が雨雲を吹き飛ばした。
ルミアの視界が急速に上昇し、王城が豆粒のように小さくなっていく。
冷たい雨の降る空へと舞い上がったにもかかわらず、ルミアの身体はイリスの体温と魔力によって守られ、不思議なほどの安らぎに包まれていた。
彼女は静かに瞳を閉じ、初めて感じる心地よい眠りへと落ちていった。




